02. 丘の上の公園

 あるいはここ、この公園から。

 浮遊感が享を包み、腹の中を掻き回す。彼が目を覚ませば、その落下は終わるのだが。


 ゆっくりと微睡まどろみから覚めた亨は、やはり花が開くかのような速度で膝の上に置いた右手を開く。どんよりと暗い空は時刻も判然としないが、ここに来てからそう時間は経っていないはず。


 夜にはまだ早い夕方の公園、ベンチに腰を下ろした彼以外に、人影は無かった。

 小高い丘の上の公園からは、ギャラリーの在る町並みを見下ろせる。仕事熱心な街灯たちは、もうあちこちで白やオレンジの光を放ち始め、輝きを散らした街は灰色の空よりも余程愛想がいい。


 公園脇の道は更に上へと伸びており、先に進めば比較的新しい寺院へ、そして墓地へと続く。瀬那の墓に手を合わせた後は、必ずこの公園の横を通るため、彼はいつもベンチで半刻ほど過ごしてから、家に帰ることにしていた。


 危険だからという理由で公園に遊具の類いは存在せず、桜の樹に囲まれた空き地でしかない。その桜の葉が青々と茂る季節では、わざわざ上ってくる人も少なかった。


 彼の手の内で温められていた小さな魚が、外気に晒されて熱を奪われる。僅かに青みがかった、親指大のガラスの魚。具体的な魚の特徴は備えておらず、流線型の身体に頼りないくらい小さなひれが付く。


 お守り、そう彼女は言っていたか。天運を司る天魚てんぎょなんだと。

 瀬那はこの公園が好きで、亨と二人で連れ立って来ては、何をするでもなく時間を潰した。彼女が作るガラスの魚は、寂しくも穏やかなこの公園で過ごすことで生まれたらしい。


 彼がここへ来るのは、墓よりも公園が主目的だ。変わらない景色とガラスの肌触りが、瀬那の匂いを呼び起こしてくれるだろう。

 この思い出の場所ならまた会えそうだと、彼は夢想した。もう一度、最初から。彼女と出逢ったこの場所なら、と。


「いや……おかしいな」


 瀬那を初めて見たのは、どこでだっただろうか。

 ベンチから腰を上げ、ジャケットの埃を払うと、亨は公園の真ん中へ足を進める。辺りをぐるりと見回し、古い記憶を探った。


 公園の隅、一際大きな桜の枝の下へ視線を送る。その反対側、街を臨む防護フェンスのたもとへも。細いポールの並びで区切られた、道への入り口にも。

 どの場所も、瀬那の思い出と重なることはなかった。


「ここじゃない?」


 そんな馬鹿なとつぶやく。公園が始まりの場所だからこそ、彼も好きだったはず。

 所々剥げた薄い芝生の地面も、何故か一本だけ混じる大きな金木犀の樹にも見覚えはある。しかし、それらを背景に立つ瀬那の姿を思い浮かべても、違和感が募るだけだった。


 魚を丁寧にハンカチで包み、麻の上着のポケットに収めた彼は公園を出る。下り坂を歩きながら、亨は自分の不確かな記憶を掻き寄せようと努めた。


 ギャラリーで声を掛けられたのが最初だったろうか。「絵の中に吸い込まれそうな気がする」そんな感想を貰ったように思う。彼女こそが、享にとって一番の理解者だ。大袈裟な賛美は無くとも、いつも壁に掛けられた絵の前に立ち、満足そうに微笑んでいた。


「なら、展示会か……」


 百貨店の美術サロンで個展を催した時――その仮定を、彼はかぶりを振って打ち消す。さすがに個展で出会っておいて、忘れたとは考えにくい。

 いずれにせよ別の場所で出逢ったのなら、記憶が不確かなのにも程があろう。毎年この公園に通っておいて、今さら忘れていたことに気づくとは――。


 足を止めた彼は、小さくなった公園を振り返った。

 出会いを忘れたことは、どうにも解せない。それはそうだが、自分の思考でありながら、彼にはもっと引っ掛かる言葉があった。


 毎年。自分は何度ここに来たのか。彼女が亡くなってから、何回目の訪問だろう。

 頭の中に、黒塗りされたページがあると気づく。瀬那に関する彼の記憶は、一度バラした本を集め直したように乱丁を起こし、一部は散逸して失われていた。


 精神的なショックが積り、記憶を錯乱させた可能性も考えられる。自分の脳が万全に機能しているか、医者に診て貰うことも真面目に検討するべきか。

 しかし、そうなった原因を解明するよりも大事なことがある。過去を取り戻さなければ、享にはもう何一つ寄りかかれるものが無い。


 写真の一枚、メモの一片でもあれば、瀬那との記憶など容易に辿れるはず。そう亨は信じて、街への道を急いだ。





 亨の家は、公園から十五分ほど歩いた街の端に建つ古いモルタルの一戸建てだ。ギャラリーにも近く、走れば三分も掛からず出勤できる。もちろん体力に不安のある彼が、そんな馬鹿はしないが。


 元々は税理士だった叔父の事務所兼、自宅であり、事務所の移転に際して彼の親が安く譲り受けた。いずれリフォームして皆で暮らす新居としよう、そう予定していた両親は、移り住む前にどちらも火災で他界してしまう。


 彼が孤児となったのはまだ美大を目指す高校生の頃であり、葬儀や資産の整理は叔父が取り計らってくれた。焼けた家は更地にして売却し、叔父とは高校を卒業するまで一緒に暮らしたものの、大学合格を機に亨は独りで生きることを選択する。比較的裕福な親の遺産のおかげで、生活や進学に掛かる費用は捻出できた。


 独立独歩と言えば聞こえが良いが、若い彼を動かしたのは自棄気味の怒りだ。事故や病気の影は常に付き纏い、遂に身内を亡くす火事にまで発展した。


 自分は不幸を呼び寄せるというのか。他人と関わるべきでない人間なのか。そんな馬鹿なという反発と不安が、叔父を始めとする人々から距離を置かせ、懸念を吹き飛ばすために彼を制作へと没頭させた。


 陰鬱な油彩は自分でも気の滅入る作風で、大学を出る前に水彩画へ切り替える。少しでも軽やかにという彼の意図は、成功したと言い難い。淡い色調ながら曇天に埋もれたような抽象画は、技法を高く評価されつつも「難解で過度に抑制的」と敬遠された。


 作品の雰囲気が変わったのは、やはり瀬那と知り合って以降だ。色味の少ない調子は同じでも、全体に透明感が増し、水や煙る蒸気をモチーフにするようになった。

「現実と幻想の中間、濁っていながら澄んでもいる」そんな感想をくれたのは、やはり瀬那だったはずだと考えつつ、彼は日暮れの道を歩く。


 家の玄関に着いた亨は鍵を取り出し、そのまま横手へと回り込んだ。

 建物正面の大きな引き戸は、バーナーが転がる土間のアトリエへ入るものである。


 元は事務所に使われていた大部屋を、彼は二人の制作のために改装した。アトリエを通り抜けずとも勝手口に当たる扉からキッチンに上がれ、居住スペースに入るにはこちらの方が早い。


 家の側面に設けられた外灯がパチパチと点滅して、早く蛍光灯を交換するように訴えていた。中へ入った亨は、引き出されたままの椅子にぶつかりそうになりながら、奥壁のスイッチまで歩いて行く。


 ダイニングテーブルの上にあるライトだけを点け、上着を椅子の背に掛けると、ガラスの魚を取り出して静かに机の上へ置いた。定位置に収まった魚に満足し、彼はすぐに二階へ向う。


 階段を上がった位置に、“資料室”が在る。制作用に集めた書籍が棚に並び、パソコンが置かれただけの小部屋だ。キャスター付きの椅子に座った彼は、もう型落ちになって久しいコンピューターの電源を入れた。


 紙に印刷した写真とは、さすがにもう何年も縁遠くなっている。取材した資料も、自分の作品も、全てデータとして一括管理しているので、中身を確認するのに苦労はしない。


 フォトビューワーを起動して、昔の旅行先の名前が付いたフォルダを適当に選ぶ。縮小版の画像が、モニタ一杯に整然と表示されていくのを目で追った。外付けの旧式ハードディスクが、彼の要求に応えるべく、羽虫のさざめきに似た音を立る。


 画面をスクロールさせて最後まで目を通し、次のフォルダへ。

 隣県の岬、半日かけて赴いた深山の紅葉、個展のスナップ。“揺らぎ”と題された個展を開いた時には、瀬那と彼はもう籍を同じくしていた。水をテーマにしてみたら、そう亨にアドバイスしたのは彼女だったか。


 湖の朝焼け、夏の星空、水面に映る大輪の花火。どれも懐かしさは感じても、そこに人の姿は無く、彼女と結び付けるのが難しい。


“魚1”、このフォルダを開けるとガラス作品が並ぶ。魚と言いながら、半端に捩られたフォルムは拙い。色も薄青のみで、いかにも習作という素っ気なさである。魚のフォルダは9まで存在し、番号が大きくなるにつれて、無機質なガラスに生きた躍動感が与えられていく。


 現実の魚を写し取ろうと試みているのは番号で言うと6くらいまでで、7からはより抽象的になり、目やえらも省かれた。色ガラスを利用して、多彩な魚が生まれるのもこの頃から。大きさのバリエーションも増え、熱帯魚のような不思議な形の背鰭を持つものや、クラゲやクジラといった魚類以外をモチーフにした作品もある。


 今もギャラリーに飾られている魚たちが、最後のフォルダに収められていた。瀬那が作り上げたガラスの生き物――そう、彼女が存在した証だ。


 とは言え、写真には瀬那の顔どころか指の一本すら写り込んでおらず、当初考えた想い出への手掛かりにはならなかった。どの画像にも、人がいないのだ。命を感じさせるのは、ガラスの魚だけ。


 ざっと半分ほどの画像を見たところで、パソコンの電源を切りもせず階下へ戻る。上着の袖に腕を通し、月明かりも無い外へ出た亨は、ギャラリーへと歩き出した。

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