第一章 漂う
01. ある雨の日
甲高いゴム製の悲鳴――。割れたのはここ、この時。
破砕したガラスが砕け舞う音が、彼の心を裂いた。バシャンとおはじきを引っ繰り返したような響きは、やがて古臭い鈴の音へと変わる。
夕方の五時半頃、客のいないアートギャラリーで、もはやアンティークと言ってよい黒電話のベルが鳴った。オーナーである
「そんなに酷かったのか……」
病院にいるという妻を案じつつ、彼はさっさと照明のスイッチを落とし、正面ドアの鍵を内側から掛けて裏口へ赴いた。
平日の営業は午後七時まで、普通なら身動きが取れない時間だ。幸いこの日の展示は彼自身の作品だけで、早くに閉めても文句を言う契約作家はいない。
亨が親から受け継いだギャラリーは、小さいながらも駅に近い立地が好まれ、新人作家には気軽に申し込める発表の場として人気が高かった。彼自身も画業を諦めたわけではないが、収入の大半はギャラリーに頼っているのが実情だ。
まだ二十代と若い彼にすれば優秀な経営ぶりだし、制作に行き詰まっているわけでもない。それでも彼は、この現状を画家と言うより画商だと自嘲する。
そろそろ梅雨へ入ったというこの時期、大体は展示予約が詰まっているギャラリーには珍しく、十日ほどポッカリとスケジュールが空いた。普段はギャラリーに詰めているバイトたちにも休暇を取ってもらい、亨も小雨の街路を眺めて一日を過ごす。
こんな日は客の相手をしつつ次作の構想でも練ろう、と計画したのだが。結局、朝からの気がかりが心中を占め、次作のアイデアなどちっとも浮かばなかった。
外からギャラリーの表に回った彼は、ウインドウの中を一瞥してシャッターを下ろす。棚に並んだガラス細工の魚たちが、街灯を浴びて一瞬煌めいたあと、暗い影に呑まれた。
画家と作品のファンの関係であった二人は、付き合ってすぐに夫婦となった。彼の熱心な勧めもあって、瀬那は低融点ガラスで制作を始める。これだけ客ウケがいいのなら、ガラスの魚はいずれ大きな収入源になるかもしれない。
亨とは対照的な、彼女の潤んだ大きな目――それが今朝はどこか儚く感じた。少し熱っぽいから診察してもらう、そう言って家を出たまま半日が経つ。連絡も寄越さない妻に苛立っていた亨も、総合病院からの電話には顔を曇らせた。
『入院手続きを取りました。病状の御説明をいたしますので、一度ご来院いただけますか?』
点滴を打って寝ているという瀬那を思い浮かべながら、彼は駅へ急ぐ。不安から足は自然と早くなった。雨の
駅前の乗り場でタクシーに乗り込み、
トン、トン、トン――。
鼓動に合わせて、こめかみが疼く。規則正しく襲う血流音に眉を寄せ、額に手を当てると、運転手がミラー越しに案じてきた。
「痛そうですね。急ぎましょう」
「……ああ、お願いします」
理由はともかく、急いでいるのは事実だ。車線を変更して加速する車の中、彼はここ数日の瀬那の様子を思い返した。アトリエに出向かず、家事だけを
洗濯や料理を一切こちらに任せず、ギャラリーへ顔を出して二、三言葉を交わすとまた自宅へ帰って行く。家で休んどけよと忠告する彼へ、彼女は頬に笑みを含ませた。
“好きにしてるのよ。これでいいの”
ギャラリーを後にした彼女を目で追うと、肩まで伸ばした黒い髪が風に揺れていた。家では晩飯を一緒に取り、いつもと変わらず隣で眠ったはずだが、そちらの記憶は薄い。
昨日の彼女は、花柄の青いワンピースを着ていた。いや、お気に入りと言っていたターコイズのスカートだったかもしれない。一昨日は何を話した? 今朝は、どんな顔をしていたのだったか。
雨足が強くなった外を見遣りつつ、亨は内省に浸る。夫婦となっても気遣う言葉は常に絶やさず、彼女の作品はいつも、誰よりも楽しみにしてきた。それなのに瀬那の顔は背景に溶けてボケる。古傷の増えた家具や壁紙と同じ、只の日常だと言わんばかりに。
あの凪いだ海を見つめるような眼差しは、今朝も享へ向いていただろうか。しっかり休むように、顔を見て話そうと彼は心に期した。ギャラリーは閉めればいい。
何日の入院になるかは分からないものの、暫く病院通いになるのは間違いない。ゆっくり話し合ういい機会だとも思う。
なかなか安定しない生活を改善しようと、ギャラリーの営業や作品の売り込みに駆け回る日々だった。瀬那にも小品の制作を大量に頼んでしまい、負担を掛けた恐れがある。一言謝り、身の丈にあった生活速度を考えてみるべきだと亨は考えた。
病院の正面玄関の前にタクシーが停まり、降りた彼は脇の入り口へと向かう。
正面ロビーの照明は消えており、救急口からしか中へ入れない。妻の名と、自分の続柄を受付けに告げたところ、確認後に呼び出すと言われた。
手近なビニールクッション張りのベンチに腰掛けて、病室の案内を待つ。
亨から少し離れて救急治療を待つ老けた男性が一人、力無く腹を押さえて座っていた。看護師が老人の前にしゃがみ、常用薬の有無や痛みの部位を聞き出し、手持ちのクリップボードに挟んだ用紙へ書き込む。
「痛いんじゃ……」
「我慢できないほどですか?」
「晩飯のあとから、だんだんと痛くなってきよって……」
「先に血圧を計りますね」
治療室から運んできた血圧計の
――痛いんじゃ。いつもと違うんじゃ。
何度も不調を訴える皺枯れた声が、耳の奥をカリカリと引っ掻いた。
改めて腕時計で時刻を確かめる。十時四十二分。そんなに遅くは無いだろうとよく見れば、秒針が動いていなかった。
勘頼りになってしまうが、到着してから十分は経過したはず。いくら何でも遅いと亨が立ち上がり、受付けに問い質そうとした時、彼を非難するような老人の声色に振り向いた。
――痛いんじゃ。これじゃ駄目なんじゃ。
聞き間違いとは思えない。はっきりと耳に残る声は、老人の口から発せられたものだ。たとえ腹を抱え、苦悶の視線は床に張り付いたままだとしても、言葉は彼へ向けられたのだと確信があった。
だからこそ、痛い。リズミカルに脳を締める刻みが、四肢を末端から痺れさせる。
――痛そうですね。急ぎましょうか?
痛い。許してくれ。身体の中を針が駆け回るようだ。立ち
「矢賀崎さんですね? ICUに御案内します」
ゆっくりと言葉の主に向き、その意味を飲み込む。せっかく乾き始めていたシャツの襟元は、また不快な湿り気を帯び始めていた。
「
「気を確かに、落ち着いてお聞きください。この一時間ほど、我々も出来うる限りの最善を尽くたのですが――」
「何を……」
「午後十時四十二分に亡くなられました。本当に残念に思います」
これを理解しろと言うのは、酷な話だった。
廊下を歩きながらも、エレベーターで二階に上る間も、医師は深刻な面持ちで喋り続ける。内容が亨の頭に入ることはなく、舌のざらつきと、未だ繰り返す血流のリズムに顔を
どこをどう通ったのかも怪しい時間が過ぎ、看護師たちが慌ただしく動く一画へと到着する。患者が寝かせられたベッドへ、誘蛾灯へ迷い込む虫の如く亨はフラフラと近寄っていった。
煌々と照らされたライトの群れも、彼には意味を成さない。真っ暗な闇。ベッドの周囲は、焦点の合わない黒に沈む。
安置所に運ばれる前の遺体は全ての機器を外され、ただ青白い顔を晒していた。白く、作り物を思わせる顔を。柔らかさを無くした、彼のよく知る――。
――誰だ。これは誰の顔だ。
遺体に歩み寄る寸前で足を止めた亨へ、医師が今一度、説明を試みた。
「外傷は無く、疲労回復用の点滴中に昏睡状態となったのが一時間前。虚血性心不全が原因ですが、いわゆる突然死です」
「いや……」
「ご本人は、今朝から疲れが酷かったと仰っしゃられていました。しかし、血液検査はおろか、血圧値すら全て正常値でした」
報告が耳に入らないのは、先程と大差無い。突然死の説明など、流行りの悲劇ドラマをなぞった陳腐な演出だ。彼の関心の全ては、十代でも通りそうな若い遺体の顔へ向けられていた。
瀬那と遺体は別人、そう感じた印象も、閉ざされた瞼を見つめる内に萎んでくる。死して艶が残る肌は、彼と同い年の人間が持つそれではなく、黒髪も耳に被るくらいに短い。
それでも細い眉、真っ直ぐな鼻の稜線、意外と厚い唇は、妻の特徴を寸分違わず表していた――と思う。彼にはどうも自信が持てない。
遺体は地下に移す、
医師へ顔を向けもせずにベッドの端に立った亨は、遺体を覆う白いシーツを少し捲る。
顕わになった彼女の左腕には、手首の近くから肘まで続く火傷の跡が在った。これが決定打だ。見た目がどうあれ、彼女は亨の妻である。
恐る恐る伸ばされた亨の手が、瀬那の腕をつかんだ。冷えた触感が、彼女の死を強く主張する。
「所持品は既にまとめてあります。ほとんど残っていませんでしたが……」
「瀬那」
あんまりな幕切れだ。間違っている。
“そう、あなたは間違ってる”
開かれた二つの黒い瞳を、彼は見返した。
「そんな目で見ないでくれ。俺のせいなのか?」
死者の双眸は、全てを黒く塗り潰す。医者を、部屋を、彼を。看護師の足音を、頭に響く痛みを。
彼の生涯で最も長い一週間が、こうして始まった。
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