第二章 魚は導く

09. クラスメイト

 胸を叩く強い衝撃に、亨は盛大に水を噴いた。


『矢賀崎! おいっ!』


 自分の名を呼ぶ声は、ボリュームを絞ったように聞きづらい。薄く目を開けた彼は、青く広がる空を見た。


『大丈夫か?』


 指に触れているのは、水でもガラスでもない。もっとザラついた硬い地面だ。意識が戻ってくると、自分が仰向けに寝ていると気づく。


 青空の下、何人もの顔に見下ろされて横たわっている自分の身体。姿勢は理解できたものの、状況を理解するのは至難の業だった。

 瞼を完全に開くと、安堵の声が四方から上がる。


「ヒヤヒヤさせやがって。これは何本だ?」


 目の前に突き出された指を見て、訳も分からないまま二本と答えた。


「よしっ。もう上がって、休憩しとけ」


 落ち着くにつれ、彼に話し掛けている人物をようやく記憶から引っ張り出す。“誰か更衣室まで付き合ってやれ”だったか。


「誰か更衣室に連れていってやれ」

「あっ、じゃあ、オレが行きます」

「頼んだぞ」


 このやり取りは、高校三年の夏に聞いた。プールで溺れた亨は皆に引き上げられて、体育教師に水を吐かされた。更衣室に付いて来たのは、これでサボれると喜んだ水泳嫌いの――。

 幸運だとばかりにニヤつくクラスメイトが、立ち上がる彼に手を伸ばす。


「つかまれよ」

「いや、平気だ」


 高校時代、亨に親しく話しかける級友は数えるほどしかいなかった。真田修さなだおさむはその珍しい何人かの内の一人だ。

 足元はしっかりしているので立つのに支障は無い。プールの四方を囲む高い壁を見つめたまま、亨はつぶやく。


「緑、か。そういやそんな色で塗ってあったな……」

「やっぱり肩、貸すぞ?」

「目が眩んだだけだよ。行こう」


 真田に付き添われ、彼は更衣室へと歩いていった。





 タオルで体を拭きながら、何度も手足を眺めては動きを止めた。若々しい皮膚には違和感しか無く、どうしてもしげしげと観察してしまう。たった十年差で老化を感じるとは切ない。

 先に着替え終わった真田は、そんな亨へ怪訝な声で体調を尋ねた。


「手が痺れるのか?」

「いや、そうじゃ……あー、そうかもな」

「寝不足なんじゃないの。いくら体育が苦手だからって、プールで溺れるなんてよっぽどだぞ」


 単に夜更かしが過ぎるという意味ではない。春に親を亡くしてまだ数ヶ月しか経っておらず、心労が溜まっているのではと案じてくれたのだ。


 これは夢だと、亨はまた考える。塩素の臭いがリアルであっても、級友の心配顔が真に迫っていても、これは現実ではない。本当の彼は三十に届きそうな歳で、こんな溌剌とした筋肉を失って久しい。


 そうであるなら、学校なんて抜け出しても問題はなかろう。大声を上げて校外へ走り出ても、起きてしまえば変な夢を見たで済む話だ。


 案外、奇行に走っても級友たちはやっぱりと頷くかもしれない。元々、誰ともつるまず、昼も一人で弁当を食べていた亨である。火事の後は腫れ物を触るような扱いになり、下手に構うと何をしでかすか分からないなどと噂する者もいた。


 その陰口とも言える噂を、彼に注進してきたのが真田だ。当時、大して親しくもない真田が話し掛けてくるのを亨は鬱陶しいと邪険に扱った。

 夏休みに至っては、しつこく遊びに誘う電話までしてきたため、最後は二度と掛けてくるなと怒鳴ったのを覚えている。受験に備えて夏からは美術の予備校通いを始め、その費用を捻出するためのバイトと合わせて遊ぶ余裕など無くなったからだ。


 善人ぶって、他人の生活を顧みない奴。馴れ馴れしく軽薄な男だと、過去の彼は真田へ辛辣な評価を下した。

 白いシャツのボタンを留めつつ顔を上げた亨は、未だ彼の指先を注視していた真田と目が合った。歳を食った彼なら、他人の気遣いを汲み取るくらいはできる。

 改めて見た級友への印象は、この短い時間で大きく塗り替えられた。


「ありがとう」

「……よせよ、水泳が嫌いなだけだ」


 亨から感謝が聞けると思っていなかった真田は、一瞬口ごもったあと、言い訳染みた言葉を並べ立てた。今日は朝から調子が悪い。五限が水泳なんてどうかしてる。挙げ句に六限が数学なのは、嫌がらせだろう。ペラペラと喋る同級生が随分と幼く見え、亨は口許を緩めた。


「なんで笑ってんだよ。数学が好きな奴なんていないぞ。お前は違うのか?」

「いいや。今も昔も、数字は大嫌いだ」

「な? そうだよな!」


 素直な物言いが嬉しかったのか、真田の饒舌が加速する。人懐っこい単純な男、それが新たな印象となった。ただ、この時期、なぜ彼が亨を構い始めたのかは、やはり不可思議ではある。


 不幸な者を放っておけない正義感から? そこまで利他的な人間ではなかったと思うが――十年も経てしまっては、考察する材料に乏しい。真田について考えている内に、夢だからと出鱈目な行動をとる気は失せた。


 五限の残りは更衣室で時間を潰し、喋り続ける友人へ適当に相槌を打って過ごす。横着な体育教師は授業が終わるまで覗きに来ることなく、最後にもう平気だと伝えて校舎へ帰った。


 意識して昔を思い出そうとしても、教室の位置ですら不確かだ。自分の靴箱、席、教科書の在り処と、一々亨は行動につっかえた。ところがヤケクソ気味に適当な選択をすれば、それが正解で驚く。どれもに身を任せることで、自然と相応しい行動を取れた。


 自席についた彼へ近寄る者はおらず、黙って六限が始まるのを待つ。一応、教科書とノートを開いてはみたものの、数式はもはや呪文にしか見えない。体育の時間が二番目に憂鬱だとすると、一番は数学だ。数字そのものが生理的に受け付けず、他人の誕生日や電話番号を覚えられる人間は異星人に思える。


 これで当てられると厄介だと、戦々恐々と一時間を過ごした彼は、終了のチャイムに胸を撫で下ろした。無益な暗号解読から解放されても、夢はまだ続く。


 高校生の彼なら、放課後は直ぐに帰宅して、叔父の家で受験勉強でもしただろう。叔父夫婦は今も健在で、年始の挨拶くらいとは言え、顔は合わせている。夢で殊更会いたい人物でもないので、他に行きたい場所はないかと思案した。

 皆が動き出す中、腕を組んで座り続ける亨は、名を呼ばれて振り向く。


「矢賀崎くん?」

「ん?」


 隣のクラスの水原みずはら……めぐみ――一拍おいて、声の主を思い出す。すっかり忘れていたが、高三の夏、彼女も妙に彼を構いに来た人物だった。


「今日は空いてるって言ってたでしょ。チケット貰ってきたよ」

「えーっと、ああ……」


 水原がヒラヒラさせている二枚の招待券は、歳を食った亨の方が馴染み深い。赤を基調にした“TO-OH”のロゴ、真波駅前にある東王百貨店のものだ。


 夏前の催事と言うと、新進の洋画家の作品を集めた『芳画展』のチケットであろう。東京を皮切りにして東王系列の百貨店を回る展覧会は、十年後も継続して開催されていた。


 美術部員の彼女は、亨が美大志望と知ってから話をしにくるようになる。こうやってちょくちょく展覧会や美術館へも誘われた。


「矢賀崎くんも興味あるよね?」


 緊張した眼差しは、質問というよりお願いだ。「まあね」との答えを聞いて、彼女の表情はパッと明るく晴れる。


 実際の過去なら一度も申し出を受けたことはなく、いつも逃げるように帰った。こんな顔も出来る子だったんだなと彼女についての印象も修正していると、横から真田が口を挟んでくる。


「へえー、二人で映画でも行くのか?」

「違うって。展覧会、遊びじゃないんだから」

「そっかあ……美術の勉強なんだ」

「そうそう、受験勉強の一環よ」


 チラチラ視線を送りながら喋る水原を観察した亨は、自分が如何に他人に関心が無かったかを思い知った。水原は彼の気を引きたくてアプローチしている。真田の関心事も判明した。これを気づかないとは、鈍感にも程がある。


 当時それを知ったところで、彼女と付き合うような進展は無かっただろう。だからと言ってお節介焼きという見方は穿ち過ぎだと反省する。


 若い亨は、自分の世界だけを見て生きていた。幼い頃から内向的だった性格は火事を機により強まり、成人してやっと少しずつ溶かされていく。自分を他者から隔絶する殻は、つい最近まで存在した。


 殻が消えれば他者の機微を知り、相手の印象はガラリと変わる。

 水原が惹かれたのは亨、そして、水原と親しくなりたいと願っていたのが真田だ。真田は何も下心だけで動いていたわけではないだろうが、水原に近付きたかったのも本音に違いない。


 彼らのやり取りを微笑ましいと思うくらいには、二人と歳が離れてしまった。苦笑いを浮かべた亨は、腹の探り合いを続ける彼らへ提案する。


「真田も一緒に、三人で行こう」

「えっ、でも、チケットは二枚しか……」

「俺と割り勘でいいよ」


 意外な展開に、真田がバシバシと亨の背中を叩いた。


「気前いいな、亨! よっしゃ、俺もたまには芸術鑑賞してみるか」

「会場で騒ぐなよ」

「トーゼン。いや、本当に興味はあるんだぜ」


 満面の笑みの真田とは逆に、水原は見るからに消沈する。ただ、彼女からすれば亨が積極的に会話すること自体が珍しく、学校を出た頃には機嫌は戻っていた。

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