妖精はもういない

「あの子と初めて会った時、アタシはね、正直怖かった」

 

 ボクの前を歩く陽夜は、そんなことを言い出した。

 すでに時刻は夜の午前二時。

 本来ならば、もうベッドに入っている時間なのだが、今日は違った。

 陽夜の提案で事件現場に行くことにした。

 一度くらいは、彼女が飛び降りた場所をその時間に見ておく必要があるだろう。ボクもそう思って、彼女に同行している。


「中学一年のときに初めて同じクラスになって、教室の隅っこにいたあの子を見つけて思ったのよ。『作り物みたい』って。教室の窓から差し込む光に淡く照らされ、白くて細い腕で頬杖をついて本のページをめくる沙耶は、冗談抜きで誰かが作ったそういう作品みたいな感じがして、気安く話しかけられるような雰囲気じゃなかった」


「その割には、オマエは沙耶と仲良くしていたじゃないか」

「アンタとあの子の会話を見たからよ。アンタと喋ってるときのあの子の顔は、無邪気で馬鹿みたいに、子供みたいで。そんな表情を見たから、アタシはあの子に話しかけたのよ」

 

 気がつけば、すでにボクたちは屋上へと出るための扉の前に立っていた。鉄の扉の前には、立ち入り禁止と書かれたテープだけが取り残されたように張られている。

 

 悲しそうな怪物みたいな鳴き声をあげる扉を開けて、ボクらは外へと一歩出た。夜風が頬に触れて、この季節特有の生暖かい外気がボクらを包む。

 供えられた向日葵の花束が、否応なくボクらに、彼女の死を突きつけていた。


 彼女の自殺が、絶対である証拠は、機械の目にあった。このマンションの屋上には、一台の防犯カメラが設置されていて、そこに沙耶が飛び降りる瞬間が撮影されていたのだ。


「カメラの映像じゃ、沙耶一人だけだったって話だけど」

「らしいね。それも、彼女自身でこのフェンスを乗り越えて、飛び降りたっていう所まで撮ってる」

 

 フェンスは2mくらいあり、沙耶よりも高い。

 彼女の運動神経はあまりよくはなく、これを乗り越えるのも難しかっただろう。

 しかし、事実として彼女がこれを超えて、落ちて死んだという事実がここにある。


「わかんない。ホントに自殺なの? でも、だとしても動機とかが………」

 未貴と名乗る男からの手紙には、沙耶は殺された、と書かれていた。

 だが実際は、どうみても自殺だ。この現場には、沙耶一人しかいなかった。なのに彼女は誰かに殺された?


「ロマンチストなら、彼女は彼女自身を殺したんだ、とか言うんだろ―――う、ね」

 この矛盾を解決する答えが一つだけ見つかったのだ。

『どれほどあり得ない可能性でも、最後に残ったのが真実だ』


◆◆◆

 

 起きた、というより、起きていた。

 ボクは自分の部屋に、日の光が差し込む瞬間を久しぶりにみた。帰って来た時はすでに時刻は午前五時。

 それから寝ても、起きるのは七時なのだから、二時間しか寝ることが出来ない。

 

 ならばいっそ、とボクはそのまま起きていることを選択した。あの屋上で見つけた答えは、まさに未貴の書いた通り、『ありえないもの』だ。

 けれども、これ以外に矛盾なく全てをつなげる答えは見つからない。

 

 朝の仕事をこなすべく、ボクは郵便受けに新聞を取りに向かう。

 中にあったのは、新聞だけだった。未貴からの手紙は無い。


◆◆◆

 

『天音君は、妖精さんとお話しよう、って思ったことない?』

 

 広い図書室を贅沢にも、彼女と二人きりで使っていた中学の夏休みのあの日。

 ボクの過去の思い出を引きずり出した彼女は、幼い子供のように無邪気な笑みを浮かべて、言った。


 退屈で欠伸ばかり出る現代史の授業の最中、ボクは捜し求めていた答えを掘り出していた。

 もっと早く思い出していればよかったのだろうが、全ての行為はこの記憶を呼び覚ますためにしていた、とも考えられる。

 何かのきっかけを与えれば、それに関係する記憶が呼び覚まされる、というのを昔小説で読んだが、それは本当だったようだ。


『ないなぁ。だって、ちょっと怖かったし』

『そう? ワタシは凄い興味があった。だって、妖精さんじゃない。いや、ワタシのにはちゃんと名前があったみたいだけど』

『名前って、どうやって聞いたのさ。だって、妖精さんって見えないし、聞こえないものでしょ? ボクらが見れるのは、痕跡だけ』

『簡単なことよ。妖精さんが見るところに、ノートを置いておくの、交換日記みたいなのを』

『あぁ、なるほどね。で、どうだったの?』

『もちろん、ちゃんと妖精さんは書いてくれてた。彼女はとっても、明るくて、ワタシとは大違いだった。ワタシを励ましてくれたし、夜空に浮かぶ星を眺めてるのが好きらしいの』

『凄いね! じゃあ、ボクもやろうかな』

『ううん、やめといたほうがいいよ。妖精さんが日記を書いた日の、次の朝のことだったんだけど。自分の右手を見て、ワタシ気づいちゃったの。妖精さんの正体は―――』


◆◆◆

 

 昼休みの学校の屋上で、ボクが考え付いた答えを陽夜に言った。

 未貴からの手紙も、妖精さんの話も、全て陽夜に説明した。

 ――当然、手紙のことを黙っていたことで怒られたが。

 その際に蹴られた右足の脛の痛みは、多分一生忘れない。


「理沙が、沙耶?」


「そう。沙耶以外に、もう一人理沙という人格が中にいたのさ。理沙は沙耶のために存在していた。一人で、孤独だった彼女を励ますために、自分自身で生み出した、もう一つの心。それが理沙。二人は交換日記で互いに知り合った。傍から見れば、自分宛に日記を書いて、自分宛に返してる風にしか見えなかっただろうけど。それでも、『二人』には、交流が存在していた。だがある日、沙耶は理沙が自分自身であると、気づいてしまったんだ」


 ボクは握りこぶしを作って、小指のほうを陽夜に見せた。

「―――もしかして、黒くなってた?」

「そう、それ。妖精さんが書く日の次の朝、沙耶は自分の手が鉛筆で黒くなっていたのを見つけてしまったんだよ。理沙が消し忘れていたのかもしれないし、わざとだったのかもしれない。けれども、なんにせよ、それで沙耶は虚しくなって、交換日記をやめてしまったんだ」


「じゃあ、シャリアの首輪は? あそこにも理沙の名前はあったけど」

「あぁ、そうだ。理沙はね、まだ生きていたんだよ。沙耶が忘却の彼方へと追いやろうとしたけれど、彼女は生きていたんだ。そして、あれがその証だったんだよ。消え行く彼女が唯一残せる、生の証」

「ってことは、シャリアを河川敷に連れ出してたのも、理沙の仕業ってわけ?」

「多分、ね。未貴からの手紙通りに『沙耶が殺された』というのを額面どおりに受け取ると、状況から言って、殺せるのは―――」


「理沙」

「そして、彼女は飛び降り、死んだ」

 ボクと陽夜はしばらく見つめあったまま、時を過ごしていた。

 答えは見つけた。だが、それも結局のところは『自殺』。


「妄想の一言で片付けられる答えだけどね。でも、最後に一つだけ確かめる方法があるんだ」

「どうするの?」

「未貴に会うのさ。彼は理沙を知っていたから、沙耶が殺された、なんて手紙をボクに送れたんだ。彼は理沙とその正体を知っている」

「でも、どうやって会うのよ。そんな正体不明な人間に」

「未貴はボクをずっと見張れる奴だよ。じゃあそいつは一人しかいない」


◆◆◆

 

 これほど星が美しいとは思ってもいなかった。

 アタシはそんなことを思って、夜の河川敷に寝そべっていた。

 昼間、貴理に頼まれた通りのことをしている。アイツの言うことが本当ならば、もうすぐ未貴が来るだろう。


 時刻はすでに午前三時。

 明日が休みだから良いようなものの、二日連続で徹夜というのは、少々お肌によろしくない。

 草のにおいと、どこかから聞こえる虫の音。夜風は妙に暖かくて、時折吹き込む突風に煽られて、赤紫色の花びらが幻想的に舞い散る。


 もし、未貴が貴理の言うとおりの人間だとしたら、アタシは果たしてどんな顔で接すればいいのだろうか。心臓の鼓動は徐々に早くなっていく。


「アイツから、言われてきたんだけど? えぇーっと、確か朝霧陽夜さん、だよね。初めまして、オレが未貴だ」

 頭上から声が届く。アタシは起き上がって、向かい合った。

「初めまして」

 いつもなら、『貴理』と呼ぶ少年に、アタシは今は『未貴』と呼んだ。


◆◆◆

 

 穏やかな朝日と共に、ボクはようやく目を覚ました。

 いつもは煩い目覚まし時計は、今日はやけに大人しい。

 ベッドから上半身を起き上がらせて、ボクは机の上のルーズリーフを確認する。

 昨日、学校から帰ってきてすぐに書いたボクの手紙の、未貴からの返事が、びっしりと書かれていた。


『おめでとう。キミは真実へとたどり着いた。

 とはいえ、世間からすれば園部沙耶が自殺だということに変わりはないだろう。 

 でも、オレにとってはとても重要なことなんだ。

 この世界で一番怖いことは、一人ぼっちで誰にも知られずに死んでいくことなんだ。オレたちは、それに怯えていたんだよ。


 彼女もそうだった。

 理沙も一人ぼっちだったんだ。

 もとは沙耶の寂しさを紛らわせるために生み出された存在だったけど、産みの親に見離されて結局孤独になったのは彼女だった。

 しだいに彼女の自我は薄れていって、夜のほんの数時間しか表に出てこれないようになってしまったんだ。

 理沙の趣味はね、夜空に浮かぶ星を眺める事と、夜を楽しむことだった。

 だから毎晩外に出て、彼女は星を眺めたのさ。

 シャリアを飼い始めてからは、彼女を連れて外に出かけた。

 なにせ、彼女だけが理沙を知る存在だったからね。

 

 ただ、シャリア以外にも彼女を知る存在が現れたのさ。

 そうオレさ、未貴だ。オレも似たような境遇だった。

 オレもまた夜の街を歩いていたんだ。昼間出ればキミに迷惑がかかるだろうけど、でもこのままぼんやりと消えていくのは嫌だった。

 だから、最後の悪あがきに、せめて夜は貰おうと思ったのさ。

 

 そして、偶然にもオレと理沙は出会ってしまった。

 シャリアを連れて河川敷で、星を眺める彼女を見つけて、沙耶が言っていた妖精の名前で彼女を呼んだんだ。

 

 その日から、オレたちは夜、あの河川敷で会うようになっていった。

 理沙と喋っていると気が楽で、やっと独りから開放されたと思えて。

 シャリアを頑張って懐かせたときは、ものすごく嬉しかった。理沙と一緒に馬鹿なこともしたりした。

 

 でも理沙は、それだけじゃ足りなかったんだ。

 心のどこかで、自分を忘れていく沙耶のことが許せなかった。

 勝手に自分の都合で生み出しておいて、そのくせ要らなくなれば、ためらいなく捨てる。そんな沙耶を理沙は恨んでいたんだろう。


 だから、彼女は精一杯の生きた証を残して、園部沙耶を殺したんだ。

 オレには止められたかもしれない。

 でも理沙は沙耶だ。オレもキミだ。

 主人格から生まれた以上、それは絶対の原則のはずなんだ。


 でも時々分からなくなる。

 オレは、本当は独立した『魂』なんじゃないかって。

 これを書いている今も、オレの心は悲鳴を上げて、涙を堪えるのに精一杯だ。

 

 もう二度と、外に出ないと誓おう。

 オレはこのまま消える。

 でも、覚えておいて欲しい、オレがいたということを、理沙が生きていたということを。

 さようなら。 

 

 追伸

 勝手にキミの小銭を使ってゴメン。

 理沙は向日葵が好きで、あの花束はオレが買ったヤツなんだ。

 お金を返すことは出来ないけど勘弁して。

 それから、ルーズリーフもあの手紙のために拝借した。

 目覚まし時計は切っておいたから、今日はぐっすりと眠ってほしい』


◆◆◆


 その日の昼、ボクは近所の花屋さんで沙耶の好きだった百合の花を買った。

 店員はボクが買いに来たのを見て、何か言いたそうな顔をしたが、多分それは前に未貴がここで花を買ったからだろう。


 未貴が置いた向日葵の花束は、まだ健在だった。

 ボクはそこに百合の花束を置いた。


 青いビニールシートの側で立ち尽くす。

 風と共に花の香りが辺りに広がっていく。

 明日から毎朝起きるのは、きっと楽になるだろう。

 睡眠不足で授業中に眠たくなることもないだろう。


 妖精はもうどこにもいないのだから。

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