二人の話

 『ボク、実は孤児だったんだ』


 ボクが中学生だったころ。

 図書委員の仕事の最中にそんなことを言った。

 ちょうどその日は、夏休みの真っ只中で、誰もいない図書室の番をボクらはしていた。この学校の学生たちは、誰一人として読書をする余裕もないらしい。

 夏休みも後半戦に突入したせいか、みんな急に引きこもりになってしまった。ほかの図書委員たちは、友達を呼んでクーラーの効いた部屋の中で騒いでいたようだが、ボクらが声をかけたヤツらは、素っ気無い返事をしてくれた。


 結局、広い空間にボクと沙耶の二人きり。

 

 彼女は見かけによらず、意外と人の『不幸』が好きだった。

 誰かが階段から落ちたと言えば、目を輝かせたし、見知らぬ土地で迷子になった話を聞けば、笑い声をかみ殺すのに必死になっていた。

 不幸の基準は明確にあるらしく、笑えないような話ほど好んだ。そして、そんな話をすべて聞き終わった後で、聖母のような笑みを浮かべて、話した人間を励ますのだ。遠くからそれを見ていたボクは、それが何かの儀式のように見えた。

 まるで、彼女が他人の不幸を吸って、より美しくなっていくような。だから、その日、ボクは初めて彼女が最も好む『笑えない不幸な話』をとうとう口にしたのだ。


『ボクがまだ小学二年生のころなんだけどね、お母さんが交通事故で死んだんだ。それから、その一ヵ月後に、お父さんもガンで死んじゃって、結局ボクだけが残ったんだ。でもね、悲しくはなかった。両親はね、ボクのことが大嫌いだったから。叩くんだよ。やめて、って言ってるのに、何度も何度も。ご飯が貰えない日が何日もあった。死ぬかと思った。記憶が飛ぶことなんて、しょっちゅうさ。気がついたら夜だった、っていう日も』

 

 あの時の感情を思い出しながら、ボクは口を開いた。言葉にすることの難しい開放感と、そして安心感。全身の力が徐々に抜けていくような、死ぬほどの脱力感。


『ボクはね、すごくホッとしたんだ。ボクを牢に閉じ込めていた悪魔に、天罰が下ったと思ったのさ』

 

 視線を沙耶に向ける。そこにはボクが望む表情はなかった。彼女はただ、目をかすかに潤ませて、ボクを見つめていたんだ。


◆◆◆


 相変わらず睡眠不足ぎみな体を起こして、ボクは目をあけた。

 見慣れた天井が出迎え、窓から差し込む日の光が朝を告げる。目覚まし時計は騒音を奏でていて、メガネはいつも通り机の上で寝ていた。時刻は午前七時。ベッドから降りて、そのまま郵便受けまで新聞を取りに行く。

 

 昨日のシャリアの首輪は一体なんだったのだろうか。理沙との交流は、交換日記を見る限りでは五年前に終わっているようだが、一年前から買われていたシャリアの首輪には彼女の名前があった。

 

 そして『未貴』という名前。理沙の正体は結局、あれ以上判明することはなく、靄のようにいまいち人物像がつかめないままだ。未貴についても同じで、男なのか女なのかも分からない。

 郵便受けの中をのぞく。そこには新聞紙の上に丁寧に置かれた白い手紙があった。


『やぁ、またまたお手紙を書かせてもらったよ。

 園部沙耶の事件は、順調に捜査が進んでいるかい? 

 キミはとても聡明で賢いだろうから、もしかするともう事件の真相にたどり着いているかもしれない。

 でももし、分からないのなら、名探偵の格言を思い出すんだ。

 どれほどあり得ない可能性でも、最後に残ったものが真実だ。

 発想を自由に、頭をやわらかく。物事を決めてかかってはいけない。


 追伸 

 言い忘れていたけど、オレが未貴だ』


◆◆◆

 

 授業中、頭の中を飛び交うのは退屈な国語の文法用語などではなく、手紙の送り主の最後の一言。

 未貴の正体は思わぬところで明らかになった。

 彼はどうやら、ボクのことを監視しているようだ。そして、事件の解決を願っている……かもしれない。

 現段階では、あまり確信に迫ることは出来ない。

 だが、前の手紙と今回の手紙を見る限りでは、未貴は何かを知っているのだろう。

 沙耶の死の原因に、何か関係のある人物なのだろうか。


◆◆◆


 『で、でもね。ボク、それから施設に送られて、一年後には今のお父さんとお母さんに、引き取られたんだよ』

 

 と、潤んだ瞳の彼女に、ボクは慌ててハッピーエンドを付け足した。

 それを聞いて彼女の表情は、変わりはしたけど、笑顔になったわけではなかった。

 当時中学生だったボクには、涙目の女の子になんと声をかけていいのかが、全く分からず、ただ困惑するばかり。それに、正直こんな反応は予想外だったのだ。


 中学校の二人きりの図書室には、静寂が訪れ、鳴いているはずのセミの声さえも、とうとう鼓膜に届かなくなってしまった。ただ彼女に見つめられ、ボクは何も言えずに固まる。


『ずっと、ずっと一人だったの?』

 彼女は白い手をボクのほうにすっと伸ばして、頬に触れて、愛しむようになでた。目を細くして、猫のように見る彼女をぼうと眺めて、熱に浮かされたような気分になった。


『―――いや、そんなことはなかったんだ』


 あれはいつのことだっただろうか。ボクは忘却の海のそこに沈んだ記憶を引きずり出しながら、彼女の質問に答える。


『目には見えないけど、誰かがボクを守ってくれてたんだ。知らない間に傷の手当がされてたり、布団をかぶらずに寝たのに、朝起きたら毛布が掛けられてたり、とか。ボクは妖精さん、って勝手に言ってたんだけどね。でも、もう随分昔のことだから、どこか記憶違いがあるかも。小さい頃って、不思議な体験の一つや二つは、皆するものだし』

『それ、本当? 誰かが知らない間に、勝手に何かをしてるって話』

『うん。ボクの記憶に間違いがなければ、だけど。その時はボクも気持ちが大分消耗してたし』

『実はね、ワタシも昔そんなことがあったの。でも妖精さんじゃない。ちゃんと名前があったわ』


◆◆◆

 

 思い返せば、あれが沙耶と親しくなるきっかけだったのではないか。

 昼休み、ボクは校内の自販機の前で何を買おうかと迷いながら、そんなことを頭の片隅で思っていた。

 『妖精さんの話』をしてから、より一層彼女との交流は深くなったのだが、妙にその先がぼやけている。

 ただ、その話で親しくなったのは事実で、彼女の家庭内の事情も知ることができた。


 沙耶の母親は、彼女が小学生のころに病死している。その後すぐに父親は再婚したらしいのだが、沙耶は新しい母親とはなじめず、一人で暮らすことを選んだと、彼女は言っていた。

 彼女の父親は、金持ちだったので、沙耶のために家を買い与え、家政婦までも雇った。その結果、沙耶は長い間一人で暮らしていたのだ。

 

 幼少期に寂しい思いをした、という点でボクと彼女は同類だった。小学校の頃は、友達が出来ずに読書ばかりをしていたらしい。

 中学にあがって初めて、親友と呼べる友人が出来て『嬉しい』と、語ってくれた。

 

 飲み物をファンタ・オレンジに決めて、ボクは財布の小銭入れを開く。

 ―――おかしい。この間、文庫本を買ったときのお釣りが、小銭入れの中にない。

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