第2話 再会


「しゅ、趣味はなんですか?」


 翌朝、河川敷で山下さんと並んで犬の散歩をしていた。僕はデートに誘う前に、何かと話題を振らなければと事前にすべらない話題を検索していた。


「趣味ですか? そうですね、日記とかですね」


「日記ですか?」


「はい」


 素直に驚いた。今時、日記をつける人はいないと思っていたからだ。


「柴田さんのご趣味は?」


「え、映画鑑賞ですかね」


 震える口調だが、どうにか会話のキャッチボールはできている。


「いいですね! どんな映画を見るんですか?」


 興味津々らしく、少し顔を近づけてきた。香水の匂いが一気に僕の鼻を刺激した。香水と言ってもきつすぎず、ほんのり甘い香りだった。僕の好きな香りだ。昨日は分からなかったが、近くで歩いているといい香りが漂ってくる。


「色々ですかね。ミステリーも見ますし感動系も見ますし。あ、ベイリーっていうのも僕の一番大好きな映画に登場する犬の名前から取ったものなんです」


「え、そうなんですか!?」


 こんなにも自分の話に興味を示してくれるのは気持ちよかった。僕は調子に乗り、更に映画の話をし始めた。


「僕のワンダフルライフっていう映画です。もしよかったら見てください」


「今度TSUTAYAで借りてみます」


「あ、あと恋愛系とかも」


 なにがおかしかったのか、山下さんはふふと笑った。


「ど、どうしたんですか?」


「あ、いえ。柴田さんが恋愛映画見てるのが少し意外で」


「そ、そうですか?」


 なんだかすごく恥ずかしくなった。顔が熱い。確かに僕みたいなやつが恋愛映画を見ていたらおかしな奴と思われるかもしれない。


「あ、別に悪い意味ではないですよ? とっても素敵だと思います」


 山下さんが微笑む。僕の心臓が締め付けられる。可愛すぎる。顔を直視できない。今なら勢いでデートに誘えそうだった。


 僕は足を止めた。隣でベイリーが応援してくれていた。


 数歩先で山下さんが「どうしたんですか?」と首を傾げている。


 僕は意を決して口を開けた。


「や、山下さん! あ、明日、ぼ、僕とデートしてくれませんか?」


 そのタイミングで昨日のランニングお爺さんが横を通り過ぎていった。一瞬こちらを振り向き微笑んだのを見て、また顔が熱くなった。


 返事が中々帰ってこない。僕は顔を直視できないので両目を力強く瞑っていた。


 すると、ようやく彼女から「喜んで」という言葉が耳に入ってきた。瞼を開けると、そこには満面の笑みの山下さんがいた。きっと今世界で一番美しいのは山下さんだった。


「ほ、ほんとですか!?」


 興奮を抑えきれなかった。今人生で一番嬉しい瞬間かもしれない。生きてて良かった。大袈裟ではない、僕にとっては。


「はい、明日は仕事も休みですし」


 山下さんが微笑む。僕はそこでダブルデートの件を思い出し、少し冷静になって説明をした。



「ダブルデートですか?」


 やはりダメだろうか。山下さんは少し驚いている様子だった。


「はい、仕事場の友達とその彼女さんとで。ダメですかね?」


「あ、いえ全然問題ないですよ。ただ少しびっくりしました。ダブルデートなんて誘われたことなかったから」


「そうなんですか? ふ、普通のデートは?」


 それを言った後で気づいたが、僕は結構深いところまで訊いているのに気づいた。迷惑だっただろうか。


 しかし、山下さんはそんな素振りを見せないで悠然と返してきた。


「普通のデートなら多少はあります。どれも上手くいきませんでしたけどね」


 山下さんが顔を赤らめた。意外だった。山下さんならデートの時はすぐにでも男の心を掴めそうなのに。男の方に問題があったのだなと勝手に解釈させてもらった。


「な、なら今彼氏は……」


 このタイミングで気づいたが、これはもっと前から聞くべきだった。そして同時に、彼氏がいたらどうしようなどという不安が襲いかかってきた。しかし、それは杞憂に終わる。


「お恥ずかしながらいません。もしいたら、柴田さんのお誘いも断ってますよ」


「そ、そうですよね」


 我ながら阿呆だ。にしてもさらに意外だ。こんなに可愛いくて美人な山下さんに彼氏がいないとは。いた時期はあるだろうが、いない時期に僕が山下さんと出会ったことがまさにラッキーだった。明日死んでもおかしくないレベルで運気を吸収されているようだ。


「あ、なら連絡先交換しますか?」


「え!? あ、あ、は、はい」


 自分から連絡先を聞くつもりだったが、まさか山下さんから来るとは予想もしてなかったので、かなりキョドってしまった。気色悪いと思われたかもしれない。それでも僕には仕方なかった。なんせ女性から連絡先など聞かれたことなどなかったので、免疫がついてないのだから。


 山下さんがカバンからスマートフォンを取り出す。カバーの色はジャージの薄ピンクと被っている。ピンクが好きなのだろう。女性らしいというか、女子っぽかった。


「これ、私のLINEです」


 山下さんがスマートフォンの画面を僕に見せる。LINEのQRコードがうつっていた。僕は慌ててLINEを開き、友達追加からQRコードを読み取るの所をタッチした。カメラモードに切り替わり、山下さんのQRを読み取る。すかさず、僕の画面に名前の『薫』とモコちゃんのプロフィール画像が出てきた。僕は追加ボタンを押す。


 女性とこのようにLINEを交換するなど初めてだった。社内ではもともとグループが結成されており、このようにQRコードを読み取らなくても友達追加はできるので、勿論女性社員とそのようなことをしたことはなかった。


 僕は少し感激しているとLINEが来た。山下さんからだった。


『ダブルデート楽しみです!☺️』


 隣にいるのに、LINEでわざわざ送ってくるのがまたなんとも可愛らしく僕の心臓をドキドキさせた。山下さんの顔を一瞥いちべつすると目が合い、恥ずかしそうに逸らした。


 僕もなにか返そうと画面を指で走らせた。


『僕も楽しみです!』


 また山下さんと目が合い、今度は二人で笑いあった。








 その日の夜、僕の家で透と飲むことになった。今日、透は取引先のとこにいたので顔を全然合わせていなかった。昼飯もボッチだった。明日のデートのことで色々話すつもりで飲むことになったのだ。



「いやー、にしてもデートの誘いに成功するとはね〜」


 僕の家に向かう途中、透がからかうようにして目線をこちらに向ける。その同時に、昨日の女子社員たちの会話がよみがえる。しかし、僕はそれを伝えるつもりはなかった。透を信じていたからだ。


「どういうこと? 透から誘えって言ったんじゃないか」


「正直断られると思ってたぜ」


「あのね……」


 呆れるが、それがいい方向に転がったので良しとする。


 他愛のない話をしていると、僕の家に着いた。


「前も思ったが、一人で一軒家は贅沢すぎやしないか?」


 僕は祖父母と暮らしていたので、独り身になった後もずっとここに住んでいる。見た目はボロいが、透の言う通り確かに一人で暮らすには広すぎる。しかし、僕にはこれを軽々と手放すことは出来なかった。


「祖父母の形見の一つだからね」


「まあ、確かに手放せねーわな」


「あ、家に入る前に庭のベイリーと挨拶してきてよ」


「お、いいぜ」


 僕達は玄関扉から左に曲がり、次を右に曲がる。庭があり、ベイリーがリラックスしていた。


「い、意外とでけーな」


「でしょ?」


 さすがに透もこの大きさには驚いたようだ。無理もない。多分予想より1.5倍はでかかったのではないかと思った。


 ベイリーが僕と透の存在に気づくと、鼻をヒクヒクさせ、リラックスをやめた。


 するとどうしたことか、透に鋭い視線を向け吠え始めた。


「ワンワンワンワンワン!!!」


 リードで移動距離を制限しているので、こちらまでは辿り着けないが、今にもそれを破って透に噛みつきそうな勢いだった。


「おいおいおい、俺めっちゃ嫌われてるじゃん」


「な、なんでかな。ベイリー、ベイリー、こいつは僕の友達だよ。だから吠えなくていいよ」


 宥めるも、まるで効果がない。そう言えば初めて山下さんと会った時も吠えていた。でもあの時はすぐに山下さんが宥めて落ち着かせていた。散歩の途中、何人もの人と出くわしているので、誰にでも吠えるという訳では無いのは知っている。ベイリーを飼って三日目だが、こんなに吠えているのは初めてだ。


「い、犬って匂いに敏感だろ? もしかしたら俺臭いのかな……」


 透が自分のスーツのあちらこちらを匂う。僕も顔を近づけそうしてみるが、少し汗臭いだけで、特に独特の何かは臭わなかった。


「た、多分顔が気に入らないんじゃない」


 僕は冗談を抜かす。


「あほ抜かせ、犬からにも告白されるレベルのイケメン顔やわ」


「どんな顔だ」と僕は笑った。


「現に彼女の犬からは懐かれてるんけどな」


 だったら何故こんなにもベイリーが吠えるのだろう。やはり、顔が気に食わないとしか考えられなかった。


「まあ、とりあえず飲もうぜ」


「そうだね」


 僕達は吠え続けるベイリーの元を後にして、家の中に入った。


 しばらくしてから、ようやくベイリーは静かになった。家に入っても吠え続けていたのだ。


「やっぱり、俺が臭かったんだな」


「そ、そうなのかもね」


 透が缶ビールを飲み干し「ぷはぁー!うめぇ!」と顔に皺を寄せる。僕もつまみの柿ピーを口に放り込み、ビール飲む。味が絡み合って最高に上手い。この一言に尽きる。


 僕は机に置いてあったリモコンを何となく手に取り、テレビをつけた。


 ニュース番組だった。丁度事件が報道されている。


『昨夜、山口県の〇〇山で遺体が発見されました。遺体は土に埋められていて、登山者により発見された模様です。亡くなられたのは 東京の一般企業に勤める、佐藤 光彦みつひこさん、26歳。警察はこれを殺人事件として捜査を進めている模様です』


「物騒な世の中だなー」


 柿ピーを食べながら、他人事に呟く透。もし、殺されて土に埋められていたのが佐藤 光彦という人ではなく、透だったら僕はどうしただろうか。と何故か僕はそんなことを考えてしまった。きっとこの佐藤 光彦という人物は誰かに恨みを買っていたのだろう。それに比べ、透はそんな奴ではないと僕は十分理解している。


 テレビの画面に佐藤 光彦の顔写真が映し出される。見覚えはない。当然だ。死体が発見された場所は山口県で、ここは東京、軽く遊びに行ける距離ではない。


 佐藤 光彦の顔は予想していたものより温厚で優しそうな人物だった。恨みを買っている風にも見えないが、人は見かけによらない。


「あ、そうだ。ダブルデートのこと彼女にも伝えないと」


 透がスマホを取り出し、彼女にLINEを送っている。僕はそこである不安を覚えた。


「もし彼女が断ったらどうするつもり? ダブルデートはキャンセルするって伝えるの?」


 それはいくらなんでも僕の印象が悪くなりそうだ。いきなりデートをキャンセルするなど、もし僕がされる立場なら約束を守らない子だと認識しそうだった。


「日曜は仕事も休みでいつもデートしてるから多分いけると思うけどな。まあ、もし無理なら二人でいけばいいだろう」


 透がLINEしながらそう言う。僕は「うん」と不満げな意味合いを込めて頷く。僕の心配は杞憂だったようで、透がニンマリと笑った。どうやら、OKの返事が返ってきたみたいだ。


「ほら、OKだってよ」


 透が証拠にスマホ、LINEのトーク画面を僕に見せてきた。確かに透の誘いに彼女が承諾していた。


 僕は自然と彼女の名前とプロフィール画像に視線を移す。その刹那、心臓をえぐられる感覚に陥った。


「え」


「ん? どした?」


「あ、いや……」



 そんな……嘘だ……。



 透の彼女は僕の好きな人、山下さんだった。透が見せた彼女とのトーク画面、彼女の名前が薫でプロフィール画像が茶色いトイプードルだったから間違いないだろう。


 僕はそれを口走りそうになったが、なんとか堪えた。


 僕の胸中を黒いもやが覆い尽くしていく。対して頭は真っ白。完全に困惑状態だった。


 一体どうして? 透の彼女は山下さん? でも山下さんは彼氏がいないと言っていた。山下さんが嘘をついている? そうだとしたら山下さんは浮気をするつもりなのか?


 僕は透の彼女が山下さんであることを確定させることを思い出した。透は透の彼女が最近茶色いトイプードルを飼ったと言っていた。あの時は単なる偶然かと思ったが、そうではなかった。


 山下さんが透の彼女なら、どうして僕の誘いに乗ったのだろうか。やはり、浮気をするつもりでいたのか。


 あれ?


 疑問が浮かび上がる。今透の彼女、山下さんはLINEでダブルデートの誘いをOKした。僕との約束があるならさすがに断るだろう。でも山下さんはそうしなかった。つまり、山下さんは透から誘われた時点で、僕が関わっていることを知っていたのか? だったらどうなる?


 僕の中で最悪な結末が出来上がってしまった。


 山下さんは僕と透をハメるつもりなのだ。それは透がグルではないことを信じたらのことだが、透がそんなことをするはずがない。そうだと信じたいだけかもしれないが、そう考えないと僕の頭はどうにかなりそうだった。


 山下さんが僕と透をハメるつもりなら、目的は僕と透の友情崩壊だろうか。男同志の友情に女が絡むと必ずいざこざが起こり、関係は穏やかではなくなるはずだ。目的がそうだとしても、そうする理由は僕には分からなかった。


 もしかすると、透は山下さんに恨みを……?


「おーい、おいって。聞いてんのか」


「え、あ、な、なに?」


 考えを巡らせすぎていたようで、透の言葉が耳に入ってこなかった。それほど僕は動揺させられていた。


「一体どうしたんだよ。顔色一気に悪くなったぞ」


 透が心配してくれる。


「あ、いや、お腹痛くてさ」


 上手くごまかせたかはわからない。それでも透は「なんだ、じゃあ早くうんこ行けよ」とトイレを指した。


 僕はトイレにもって、どうするか再び思考を巡らせる。


 いや、既にもう決まっていた。


 山下さんが僕と透の仲を引き裂く目的なら、僕は絶対に易々とそれに引っかかるつもりはない。


 僕は山下さんを好きになった。しかし、透との仲が悪くなるくらいなら僕はこの恋を諦める。少し残念ではあるが、仕方がない。


 僕は友達を選ぶ。


 そのために翌朝、山下さんにきっぱりとダブルデートをキャンセルすることを伝えよう。そしてもう二度と会わない。


 そうすればまた元通りに戻る……はずだった。






 一睡も出来ずに夜が明けた。深夜2時くらい眠りにつきそうだったのだが、外でベイリーが突然吠え始め、目が冴えたのだ。一分くらいでおさまったが、その後は色々と考えてしまい、寝付けなかった。


 昨夜はトイレから出た後、意味の無いダブルデートの計画を練って、2時間くらいで透を帰した。


 酒を飲んだにも関わらず眠りにつくことが出来なかったので、頭がぼーっとする。お腹も少し痛いし体が重い。それに思考も鈍っている。いつにも増して間抜けな顔が鏡に映し出され、そのまま洗顔した。


 最近になって習慣化したことを全て為し、戸締りをして庭にまわった。


「ワンッ!」


 反してベイリーはいつにも増して元気一杯で、早く散歩に連れて行けと言わんばかりだ。


「はいはい」


 地面に放られたたリードを気だるに掴み、いつのも河川敷に向かった。




 河川敷に着くと左側の河をぼんやりと眺めながら、頭の中でデートキャンセルのシミュレーションを行っていた。理由を聞かれたら用事と応えよう。透と僕の関係も、山下さんは既に知っているに違いないが黙っておく。


 3回シミュレーションが終わると、いつものようにランニングお爺さんが横を颯爽と抜けていく。そしていつも(いつもと言っても3回目)のようにその背を眺めて、前方で山下さんとお爺さんがすれ違う……。


 あれ?


 今日はその姿がなかった。僕はそこで今更ある可能性に気づいた。


 もしかして日曜日は犬の散歩はしないのかもしれない。


 だったらどうしよう……。


 頭を抱えてしまうが、幸いにもすぐに対策を閃いた。LINEを交換していたことを忘れていた。


 僕はスマホを取り出しLINEを開く。山下さんのトーク画面を開くと、昨日最後に僕が打った『僕も楽しみです!』という文面が一番下にきている。あれから一言もメッセージを送りあっていない。


 どう打とうか。


 画面の上で指が止まっていると、ベイリーが「ワンッ!」と吠えた。


 僕は隣のベイリーに目をやると、ベイリーは前方に向かって吠えていた。


 山下さんが来たのか。


 そう期待し、僕もベイリーと同じ方向に向く。しかし、知らないシニアしかいない。


 と思った束の間。なにかがこちらに走ってきた。目を凝らしてみる。山下さんの茶色いトイプードル、モコちゃんだった。


 モコちゃんとすれ違う人が全員何事かとモコちゃんに視線を奪われる。その視線を浴びたまま、モコちゃんは僕とベイリーに元まで駆け寄ってきた。


「ワンワン!」


 ベイリーと比べれば迫力はないが、代わりに可愛らしさがあった。懸命にモコちゃんは僕に向かって吠え続ける。


 どういうことわからない。何故モコちゃんだけが河川敷に来ているのだろうか。モコちゃんだけで散歩をしに来たわけでもなさそうな気がする。


「ど、どしたのかな」


 勿論この受け答えにもモコちゃんは「ワン」としか返さない。


 参ったな、どうしよう。


 そろそろ周りの視線も気になり始めたところでモコちゃんが背を向け、来た道を引き返して行く。時々こちらに振り返ってはまた吠える。


「ついて来いってこと?」


 そう捉えることしかできなかった。僕はベイリーと一瞬目を合わせると、走ってモコちゃんの後を追った。




 河川敷から走って約5分が経ったところで、モコちゃんがようやく足を止めた。僕は久しぶりに走ったものだから息が上がっている。


 ついてやってきたのは住宅街。モコちゃんはある一軒家に向かって吠えている。


 僕はベイリーを連れその家の前まで行くと、表札を確かめた。


『山下』


 僕とベイリーはモコちゃんに山下さんの家に案内されてたわけだ。灰色の立派な一軒家。一人暮らしにしては大きすぎる。家族と一緒に住んでいるのかとも思ったが、透は頻繁に彼女の家に入っていると自慢げに話していた。かといって、透が山下さんの家族と仲がいいとも思えない。


 腑に落ちぬまま、一方何故ここに連れてこられのか考えていた。


 嫌な予感が膨らんでいった。


 あの後透に家に帰るように促したが、もしかしたらそのまま彼女の山下さんの家に向かったかもしれない。そこで何かが起きてしまったのではないか? 例えば僕との関係がバレて喧嘩になって……。


 僕は息を飲み込むと、インターホンを押した。数秒経ったが反応はない。念の為もう一度。しかし同じく応答しない。


 やはり身動きできない状態になってるとしか考えられなかった。モコちゃんがわざわざ河川敷に僕を出迎えてくれたくらいだ。嫌な予感がますます増していく。


 僕は「お邪魔します」と小声で呟いた後、門扉を開け、玄関扉の前に立った。


 一応ノックする。やはり先程と同じだ。僕は意を決して取っ手を引いた。鍵はかかっていなくて、あっさりと開いてしまった。それがますます僕の胸中を不安で一杯にした。


 玄関扉を開けた瞬間、モコちゃんがすかさず中に飛び込んでいった。思わず肩がビクついてしまうが、僕も後を追うように足を踏み入れる。リードを握る力が強くなっていることに気づいた。隣を一緒に歩くベイリーを一瞥して心を落ち着かせようとする。


 中に入ると、背後で扉が閉まる音がした。


 家中はまず玄関、左を曲がったところに短い廊下が続いている。


 その廊下に誰かが倒れていた。


 仰向けだったので、すぐに誰か分かった。


 透だ。


「透!」


 大きな声で呼びながら、横倒れになっている透の元まで駆け寄る。僕は仰向けなった透の姿を見て悲鳴を上げた。


 死んでいたからだ。



「と、透! 透!」


 腹部にナイフが刺さっており、辺りは血溜まりができている。瞼は開いているが、生気が感じられない。焦点が定まっていなくて、一点を見続けている。


「な、なんで……」


 僕は膝から崩れ落ちた。


 どうしてこうなってしまった。いや、原因は僕だ。僕が変な気を起こさなければこんなことにはならなかった。透はなにも悪くないのに、透が殺されてしまった。


 涙が頬を伝い、そのまま肉の塊となった透の顔に落ちていく。何度も何度も。


 殺したのは山下さんしかいない。


 途端に恐怖が僕を襲った。


 それはまだこの家に殺人鬼がいるかもしれないと感じたからだ。


 僕も殺される?


 その瞬間「ワンッ!」と廊下の先のリビングから聞こえてきた。モコちゃんが呼んでいるようだ。


 僕はガクガクになった足をなんとか立たせ、ベイリーを連れてリビングに立ち入る。


 リビングにはテレビや本棚といったごく普通の家具が設置されていたが、周りは荒らされたように散らかっている。


 そしてリビングの真ん中、モコちゃんが吠えている目の前に山下さんの死体があった。死んでいるのは一目瞭然だった。なぜなら首が抉られてるように一部欠けているのだ。透より広大な血溜まりが出来上がっている。


「え、え……?」


 動揺を隠すことが出来なかった。頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。


 な、なんで山下さんも……?


 ではさっきの透も、ほかの誰かが殺したのだろうか。第三者がいるというのか。


 僕が困惑の嵐に襲われていると、リードが手から離れた。突如ベイリーがリビングへと繋がる台所へと走って行ったのだ。


「ベイリー!」


 僕はすかさず追いかける。追いかけながらも早く警察に連絡しなければと考えていた。


 ベイリーに追いつくと、ベイリーは地面に落ちたある物に吠えていた。どうやらそれは日記のようだ。それも何故か少しボロボロになっている。山下さんが日記を趣味にしていたことを思い出す。


 ベイリーはそれを読めと言わんばかりに吠え続ける。こういうのは警察が調べるので、放置していた方がいいのだが……。


 しかし、僕は読まずにはいられなかった。



 赤い日記本を手にする。なかなか分厚い。1ページ目をめくった。



『7月12日(日)今日から日記を始めようと思います。』


 約3ヶ月前のことだ。引き続き7月12日の出来事を綴れた文章を読む。


『今日、私は人を殺しました。カッとなって光彦さんをナイフで刺してしまったのです。でも、悪いのは光彦さんです。私が浮気した程度で、私の頬をぶったのですから。そもそも光彦さんと私の関係だって、浮気から始まりました。光彦さんの前の彼女は能天気な馬鹿女といった感じです。私が光彦さんと寝たのがバレて、その女に今でも恨まれています。怖いですね。光彦さんの死体はバレないように遠くの山に埋めようかと考えています。山口県くらいがいいですかね』


 いつの間にか手が震えていた。恐怖からだ。


 昨夜報道されていた殺人事件の犯人が僕の好きな人、透の彼女だったのだ。


 僕に見せていたあの優しい笑顔はなんだったのだろうか。僕は人を殺すような人の笑顔に惹かれていたのだ。考えただけでも自分が情けないし、ゾッとする。


 僕は躊躇ためらいながらも、ページをめくっていった。次のページには山下さんのその浮気相手が透だということを記されていた。


 それからも捲っていくが、暫くは普通の日常が綴られていた。次に僕が目を留めた日にちは10月3日。僕とベイリーの初めての散歩、そして山下さんと出会った日、つまり二日前のことだ。


 しかし、どういうわけかそのページは破れていて読むことが出来なかったのだ。勿論その裏に書かれているであろう10月2日のこともわからない。


 ならば10月4日、昨日の出来事を読むことにした。昨日の出来事が書き記されていて、どうやらこれを書いたあとに何者かに殺されてしまったらしい。


『10月4日(土)


 まさか透さんと柴田さんが仕事場の友人同士だったなんて……さすがに驚きました。透さんからダブルデートの誘いが来た時に気づいたのです。幸いにも、うまいことに柴田さんと私の関係には透さんは気づいていない様子です。透さんは馬鹿なところがあるので助かりました。それにしても不味いことになりました。さっき、たまたまテレビをつけると、光彦さんのことが報道されていました。案外早くに見つかってしまったのが、想定外です。これは明日にでも透さんと柴田さんも始末しておいた方が良さそうです』


 人は見かけによらない。改めて思い知らされた。こんな人間と関わりを持とうとしていたなんて、そう考えるとやはり鳥肌が立つ。


 気にかかったのは最後の一文。なぜ、僕と透が殺されることになっていたのか。僕と透が生きていると、なにか不都合が事があるというのだろうか。佐藤 光彦を殺した犯人が山下さんだと警察にバレないように、殺そうとしたのか。だとしてもおかしい。なぜなら僕は佐藤 光彦と接点なんか何一つない。透もそうだろう。ニュースを見ていた限り他人事だったので、知り合いではないはずだ。


 では一体どうして?


 考えてみたが、一向にわかりそうにない。


 僕は日記を閉じると、ふとあるものを見つけた。台所の机の下に紙切れが1枚落ちている。僕はしゃがんで机の下に手を伸ばし、紙切れを拾った。


 表には、10月2日(木)の日記がつづられていた。こんなところにあった。


 なぜその場にちぎられて放置されていたかは分からないが、これでまた真相に近づける。モヤモヤと霧がかった心がようやく晴れそうになっている。


 10月2日の日記を読んだが、これはいつも通りの日常だった。問題は10月3日。ここに事件の真相を明らかにする何かが書かれている、そんな気がした。


『10月3日(金)


 こんな偶然信じたくはありません。あの犬が……リックがいたのです。光彦さんがとても愛していた柴犬のリックです。リックは私が光彦さんを殺したところを目撃しています。唯一、私が犯人だと知る動物なのです。そのリックと目が合った時、吠えられた時は焦りました。犬ごときで何を焦ってんだと自分でも思いました。しかし奇跡と言うべきか、今日、私は初めての香水をつけていました。なので一瞬疑われはしたものの、匂いで違うと判断されたようで、すぐに手懐けてやりました。本当に馬鹿だなと、滑稽で笑いそうになるのを堪えるので必死でした。リックは既にもう飼われていたようで、新ネームはたしかベイリーだった気がします。どうでもいいのであまり覚えていません。飼い主は内向的な性格の様です。喋り方が少しむかつきました。私に好意を寄せていることが見え見えだったので、少し遊んでみることにします。これからどうなるのか楽しみです』


 散らばったピースがようやく繋がったような感覚だった。ベイリーにあの首輪を付けたのは佐藤 光彦だったのだ。ペットショップの店員は亡くなったと言っていたが、山下さんによって殺されていたのだ。ベイリー、いやリックは目の前で自分の主が殺され、孤独となったのだ。


 ベイリーが首輪を外させてくれない意味を完全に理解した。


 そして同時に、そんな孤独化したリックを飼わなければ透は殺されずにすんだ、という後悔も生まれてしまった。自分が最低な人間だと自覚した。


 山下さんは、警察に辿られないよう事件に関連する全てを抹消しようとしたのだ。そのためにベイリーの飼い主である僕と彼氏の透を殺すことにしたのだ。


 


 ベイリーとは運命の出会いと勘違いしていたが、違うかった。恋のキューピットでもなかった。


 では何なのだ……考えても分からない。


 分からないのは、透と山下さんを殺した犯人もそうだ。


 その時、僕の頭の中で電流が走った。


 昨夜、透は山下さんのこの家に出向いた。そして落ちていた日記。きっと透はこれを見つけてしまい読んでしまったのだ。自分が裏切られていたことを知った透は、山下さんと争いが起きたはずだ。それはリビングの荒れようで検討がつく。そして挙句の果てに、透は廊下で刺殺された。


 そして問題なのは、誰が山下さんを殺したかだ。透と相打ちになったのは考えにくい。それは死体距離が離れていたからだった。相打ちなら同じ場所に死体があるはずだからだ。


 では誰なのか。


 それは多分、清水さんだ。


 清水さんは元々山下さんの家をなにかの理由で知っていた。もしくは昨夜、清水さんは僕と透を尾行した後、僕の家の近くで待機していて透が帰ったところを追跡した。


 次に動機についてだ。


 一昨日の女性社員達の会話を頭の中でリピートする。聞こえてきた話では、清水さんは3ヶ月前の7月頃に彼氏を奪われ、その泥棒猫のことを恨んでるということだった。その彼氏というのは、佐藤 光彦のことだろう。泥棒猫は山下さんだ。先程の7月12日の日記と照らし合わせると、時期が一緒なのだ。


 しかし、清水さんの不運はそれで終わりではなかった。次に透を好きになってしまったのが、次なる不幸だったのだ。それは、透に彼女がいたからではない。勿論それも含まれているが違う。最悪なのは、その彼女が山下さんだったからだ。かつて彼氏を奪った女が、新しい男、それも自分が好きになった透という恋人を作っていたからだ。そこから生まれた憎しみが、今回の犯罪の動機に繋がったのだろう。


 全てを悟ったところで、虚しかった。犯人が分かったところで、透は戻らない。透を殺した山下さんが既に殺されているので、復讐芯が芽生えることもない。残されたのは虚無感だけ。


「ワンッ!」


 そんな僕を励ますようにベイリーが吠える。


 そうだ。僕にはベイリーが残っていた。さっきは冷静でいられなかったので、ベイリーがいなければこんなことにならなかったと酷いことを考えてしまったが、可哀想なのはベイリーも一緒なのだ。お互い大切な人を失ったもの同士、これから一緒に生きていく良い相棒になりそうだった。


「さっきは酷いこと考えてしまってごめんね」


「ワンッ!」


 元気に吠えるベイリー。口を開けて、舌を出し、吐息を漏らしている。



「え……」



 僕は目を疑った。今目のあたりにしている光景が信じられなかった。同時に僕の先程の推理が、全て覆されてしまった。


 そんな……そんなことって……。


 ベイリーは口を開けている。そこから覗かせていたのは牙。


 赤い牙だった。

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真夜中の犬の散歩 池田蕉陽 @haruya5370

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