真夜中の犬の散歩

池田蕉陽

第1話 出会い


 犬を飼った。動機は独身生活に耐えられなくなったからだ。現在28歳の僕は内向的な性のせいもあって、人生で彼女ができたこともなかった。今まで何度も積極的になろうと合コンにも足を向けたことはあるが、いざ女性と面と向かって話すとなると 、弁舌がおどおどとしたものになってしまい、噛み噛みになってしまうのだ。


 どこかの女芸人が犬を飼ったらおしまいだと口にしていたが、そういう理由もあり恋人が出来ないので、知ったことかとやけくそになり、犬を飼おうとなったのだ。


 そんな独り身で寂しかった僕の新たな同居人(犬だけど)には『ベイリー』と名付けた。僕は映画鑑賞を趣味にしていて、その作品の中で最も大好きな映画に出てくる犬の名前から取ったものだ。


 そして犬種はオスの柴犬、最初は可愛らしいチワワを飼うつもりだったのだが、ペットショップに入った瞬間ベイリーと目が合ってしまい、それに運命的な何かを感じたからだった。その時のベイリーの目はどこか悲しそうで、何かを僕に訴えかけているようにも感じられた。


 選んだ理由は他にもまだある。直感だが、ベイリーと僕はどこか似ているような気がして、親近感を抱いたのだ。独りぼっちという点ではペットショップにいた他の犬猫達も一緒なのだが、ベイリーだけは違う、なんの根拠もないのにそう思い込んでしまったのだ。


 しかし、ベイリーを飼う手続きをしながら店員の話を聞いているうちに、僕の直感らはあながち間違っていないことに気づいた。


 ベイリーには元々首輪が付けられており、そこには『リック』と書かれていた。前の飼い主がつけたのだろうと店員は言っていた。なぜ外さないかときいたところ、そうしようとすれば、ベイリーが噛んできて外させてくれないのだという。それほど前の飼い主に忠実心を抱いているということだ。


 では、なぜ前の飼い主はベイリーを手放したのか。それも店員に訊いていいことなのだろうかと逡巡しながらもそうしたが、あっさりと答えてくれた。それを聞いて僕は胸を締め付けられる感覚に陥った。亡くなったという。さすがに死因まではきけなかったし、知りたくもなかった。


 僕はベイリーのあの悲しげな瞳と親近感に腑に落ちることができた。


 実は僕の両親は僕が小さい頃に事故にあって死んでしまったのだ。ベイリーはあの時の僕と同じ境遇に立っている。それでさっき僕は親近感が湧いたのだと分かった。


 両親が交通事故にあい、それを耳にした時はかなりショックを受け、中々立ち直れなかった。僕がこんな性格なのも、これが影響しているのかもしれない。それでも、両親が死んでからは祖父母の家でお世話になり、なんとか学校にも通えることも出来し、徐々に精神面でも安定した。辛い時はいつも僕を支えてくれたし、勇気づけてもくれた。今の僕がいるのは祖父母のおかけだ。祖父母には筆舌に尽くし難いほど感謝している。


 そんな祖父母も2年前に他界した。当時は落ち込んだが、今では悔いはあるものの立ち直っている。悔いというのは、祖父母に僕の恋人を紹介できなかったことだ。祖父母は僕に彼女ができることをずっと楽しみにしていたが、とうとうその夢を叶えてあげることはできなかった。2年もたったが、彼女は出来ないし、挙句の果てにはベイリーも飼ってしまった。これではダメだなと分かりつつも、ほとんど諦念でいっぱいだった。


 だからせめてものの、僕と同じ境遇に立たされたベイリーをどうにかして元気づけよう、そう心に誓ったのだ。





 そして、新たな一日をスタートさせるアラームが鳴り響いた。僕は唸りながら、スマホの画面をタッチしてアラームを止めた。


 枕元に置かれたメガネをかけ、スマホで時刻を確かめる。午前5時半、木曜日。


 こんな早起きは久しぶりなので、さすがにきつい。今にも二度寝してしまいそうだったが、ベイリーの顔が頭を過り、なんとか堪えベッドから起き上がった。


 今日から出勤前の早朝に、ベイリーと散歩することに決めたのだ。朝の散歩は健康にもいいということで、一石二鳥だった。


 洗面所の鏡に間抜けな顔が映し出され、両手で頬を叩き洗顔した。適当にクシで髪を整え、押し入れの奥に眠っていたジャージを取り出してそれに着替えた。


 朝ごはんと歯磨きは帰ってからにする。散歩終わりの方が、腹も空かせているだろうと思ったからだ。


 スポーツシューズに履き替え、玄関扉を開けた 。外はまだ薄暗く、これから明るくなってくる頃だった。庭にまわると既にベイリーはお目覚めの様で、僕に気づくと散歩と分かっているのか、吐息と舌を出し尻尾を左右に振っている。


 改めて思ったが、やはり大きい。11歳と店員は教えてくれたが、こんなにも大きいのかと驚かされていた。柴犬だからだろうか。犬には詳しくないので分からない。


「おはよう、ベイリー」


 ワンッ! と元気に挨拶を返されて、思わず感激した。


 ちゃんと僕の言葉分かるんだ。


 柴犬は犬の中でも特に頭がいいと聞いたことがあった。他の柴犬もこうなのだろうか、それとも前の飼い主が余程上手く手懐けたのか。首輪を外そうとすると噛んでくるくらいだから後者かもしれない。昨日ベイリーを連れて帰って、試しに首輪を外そうとして噛まれたのを思い出した。


 いつか僕が選んだ首輪をつけてくれる日が来るのを願いながら、僕は庭ベンチの脚にベイリーの首輪を繋ぐリードが無造作に巻かれているのを外した。いつまでもこれでは格好がつかないので、近いうちに犬小屋を買おうと今決めた。


「じゃあ行こっか」


 僕の掛け声にベイリーがワンッと返し、僕達は初めての散歩に出かけた。





 20分ほど経った頃、河川敷に着いた。陽も顔を出し、辺りは先程と較べ明るくなっている。主にシニア層を占めているが、人もちらほらと見かけるようになった。


 犬を連れるのもそうだが、朝こうして散歩するのは初めてで、もっと前からしていればと後悔した。最高に清々しいのだ。秋の早朝は肌寒かったものの、歩いているうちに温まり、脳が活性化されていくようだった。嫌なことがあって心がかげっていても、それを浄化させる効果があるのではと期待するくらいである。


 そんな風に物思いにふけりながら、左手側の河を眺める。丁度、朝日と河のツーショットで、もし画家さんが手を施せばいい絵になりそうだった。


 そんなワンショットシーンを邪魔するかのように、なにかが視界を横切っていった。それに目を奪われると、ライニングをする爺さんだった。健康に気をつかっているのだろう。将来、自分もああなるのかなと先を見据えながら老人の走り去っていく背を見つめていると、女性が前方から歩いてきて老人とすれ違った。


 今度はその女性に目が移る。どうやら僕と同じで犬の散歩のようだ。茶色い犬を連れている。ここからでは犬種は分からない。徐々に顔のパーツがはっきり分かるくらいまで近づいてくる。


 しっかりと瞳に女性の輪郭を捉えられる。


 その瞬間、僕は雷を打たれたような衝撃を食らった。


 これが一目惚れと分かるのに、3秒もいらなかった。


 少しタレ目気味で鼻筋は芸能人のように通っており、唇の厚さはやや細め。きめ細やかな肌は芸能人以上と感じられた。髪型はロング、身長も女性にしては高めなのでモデルをやってるイメージだ。服装は薄ピンクのジャージだが、私服はイケてるに違いなかった。


 いつの間にか僕の足は金縛りにかかったように動かない。


 女性が僕の横を通り過ぎようとした瞬間、ベイリーの「ワンっ!」の鳴き声でそれは解けた。


 女性は少し驚いたようで、肩を一瞬ビクッとさせた。


「あ、す、す、すみま……」


「ワンっ! ワンっ! ワンっ!」


 僕の情けない謝罪を遮るのはベイリー。どうしたことか、ずっと女性とその茶色い犬に吠えている。


「お、おいベイリー、どうしたんだよ」


 宥めようとするも、ベイリーはそれ以上に大きな声で吠え続ける。訳が分からなく、僕がおどおどとしていると、さっきまで困り顔だった女性がベイリーの前でしゃがみ込んだ。


「ん? どうしちゃったのかな? もしかしてモコちゃんに惚れちゃった?」


 女性は赤ん坊をあやす様にほっこりとした笑みを浮かべながら、ベイリーの頭をさすって落ち着かせようとした。すると、元のベイリーに戻り、安心したのか「クーン」ともらす。


「あ、あの、ど、どうもすみません」


 僕は上司に謝るように何度も頭を下げた。


「いいんですよ全然。慣れてますので」


 彼女は僕に笑顔を見せると、よいしょと立ち上がった。


 慣れてるって、普段から犬に吠えられているのだろうか。犬に好かれないのか。でも犬を連れてるし、それにベイリーも今は大人しくなっている。犬から見ると、第一印象が悪く見えてるのかもしれない。


「そ、そうなんですか」


 我ながら震える声が気持ち悪い。もっとかける言葉があるだろ、と自分を責める。このままではこの女性が行ってしまう。せっかく今が仲良くなるチャンスなのに。もし僕の反対でコミュニケーション能力が高い人ならそれは容易いことだろう。しかし僕の場合、女性と面と向かって話すとなると頭の中が真っ白になり、ろくに話すことが出来ないのだ。


 ああ、ダメだな。


 この恋も想いを告げぬまま、儚く散ってしまうのだろう。


 はぁ……とため息が漏れる瞬間。


「リックっていうんですか?」


「え?」


 まさかの出来事に、僕は無意識にそんな間抜けな返事をしてしまった。彼女から話を切り出してきたのが、僕にとって幸運のようで情けなかった。


「あ、いえ。ベイリーです」


 すると彼女は首を傾げて「え? でも首輪にリックって」


 彼女がもう一度しゃがみこみ、ベイリーの首輪を確かめる。


「あ、そ、それ前の飼い主がつけた名前みたいなんです。外そうとしたんですが、余程思い入れがあるようで中々そうさせてくれないんですよ」


「え!? そうなんですか!?」


 やはりこんなことは稀なようで、女性はタレ目を見開かせ、口元に手を覆いかぶせた。


 僕の口調はやはりおどおどとしていたが、言葉は自分でも驚くくらいにスラスラと出てきた。さっきの思いもよらぬ出来事が、僕のリミッターを解除してくれたみたいだ。普通の人からすれば、大したことではないのだろう。しかし僕からすれば、女性からこんなふうに話を切り出してくれる人などいなかったのだ。


 いや、1人居た。その子は会社の同期で、誰にでも平等に接する言わゆる八方美人だった。その子からもよく話しかけられたりするのだが、かなりグイグイと来るタイプで僕にはついていけないのだ。


 その子を除けば初めてになる。そもそも仕事場の人間なので、ある程度のコミュニケーションはしなくてはいけない。それに比べ今この現状は特別と言っていいだろう。


「でもそれくらいの親密関係があったのに、なんで飼い主さんは手放したんでしょうか」


 女性が不思議そうにして、当然の疑問を口にする。


「ど、どうやら亡くなったみたいなんです。事故か病気かは分かりませんが。ペットショップの店員さんが言っていました」


「そうなんですか……気の毒ですね。なにより残されたワンチャンが1番可哀想です」


 今度はベイリーに同情する表情をみせた。感情表現が豊かなのかもしれない。女性は「よしよし」と励ますように何度もベイリーの頭をさすった。


「だから僕が一緒にいてあげようと決めたんです」


 言った間も無く、少し恥ずかしさが込み上げてきた。それでも彼女は嘲笑することなく、微笑んで「優しいんですね」と返してくれた。


 僕はそれが何よりも嬉しくて、舞い上がってしまい興奮を抑えることができなかった。こんなことは初めてだった。


「いえ、全然そんなことは……そ、それよりそちらの名前は」


 僕は女性の隣でずっと退屈そうに座っている茶色いトイプードルに視線を向けた。ベイリーと比べて一回りも小さい。


「あ、この子? モコちゃんっていうんです」


 そう言えばさっきモコちゃんって言ってたことを思いだした。


 女性はベイリーからモコちゃんの方に体を向け、今度はモコちゃんの頭をさすった。モコちゃんは気持ちよさそうにしていて、今にも眠ってしまいそうな目をしている。


「先月飼ったばかりなんです。知り合いのワンちゃんと遊んでたら、私も欲しくなっちゃって。知り合いのワンちゃんは柴犬なんですけどね」


 その知り合いの犬と一緒かと思いつつも、それより僕は先月飼ったばかりというところに共感性を抱いた。


「せ、先月ですか? じ、実は僕昨日飼ったばかりなんです」


「え!?」


 これまた女性が驚く仕草を見せる。


「お、お互いまだ日も浅くて、慣れてないって感じですかね」


 僕がはははとぎこちない笑顔を浮かべる。


 彼女が立ち上がり「すごい偶然ですね。なんだか一気に親近感が湧いてきました」


「ぼ、僕もです」


 沈黙の間、彼女と見つめ合う。気のせいか、彼女の頬が紅潮している。時が止まってるかのようで、世界に僕と彼女しかいないようだった。


「ワンっ!」


 ベイリーの鳴き声で我に帰る。彼女もハッとしたようで、僕から目を逸らした。それもなんだか恥ずかしそうに。


「あっいけない。もうこんな時間だ」


 彼女が腕時計に目をやる。この後仕事があるのかもしれない。そこで僕も思い出し、焦って自分の腕時計を見るが、まだ少し時間の余裕があり安堵した。


「それでは今日は帰りますね」



 彼女が一礼し、来た道を引き返そうと背を向ける。


 僕はあっ、と口から漏れるのをなんとか我慢したが、刹那寂しさが襲いかかってきた。このままずっと一緒にいたい、そんな想いが僕の中で渦巻いていた。


 僕はそこで一つ聞き忘れていたことに気づいた。


 僕は勇気を出して「あ、あの! すみません!」


 いつの間にか出勤している人や学生達も何人かいて、注目を浴びる形になった。しかし、そんなことを気にしていられないほど、僕は興奮していた。


 数メートル先で彼女が振り向いた。


「ぼ、僕、柴田 博貴って言います! あ、あなたの名前は!」


 こんな大声を出したのは初めてかもしれない。今日は初体験が多い。


 少し遠くで表情を読み取りづらかったが、微笑んでいるようだった。


 すると彼女も僕と同じくらいの声の大きさで「山下 かおるです!」と。


 山下さんはまた僕に頭を下げると、今度こそ帰って行った。


 なんとも不思議な気持ちだった。これが恋というやつなのか。今まで恋(もちろん片想い)はしたことはあるが、こんなにも燃えるような恋は初めてだった。今までとは違うのは明らかだ。


「ワンっ!」


 ベイリーと目が合う。もしベイリーがあの時吠えてくれてなかったら、僕は既に死ぬと分かっている恋心を抱き続けたまま、日々苦しむに違いなかった。


 ベイリーは僕の恋のキューピットになったのだ。きっとベイリーは僕の恋心にいち早く察し、山下さんと結ばれるようあの時吠えてくれたのだ。きっかけをくれたのだ。ベイリーを元気づけると心に誓った僕が、まさか逆の立場になるとは考えてもいなかった。


 僕はベイリーと出会ったことで、人生が変わり始めたのだ。










「犬を飼った!?」


 会社の昼休みのオフィス、隣の席の松崎 とおる愕然がくぜんとした口調でオウム返しをした。


 透は僕がここに入社したタイミングが一緒の同期で、仕事場で一番仲がいい。他の同期の人、もちろん男とも多少は仲がいいが、その中でも透はコミュ障で内向的な僕に反して、人懐っこいタイプなので馬が合ったのだ。透がもし女性だったら、逆にそうはいかなかっただろう。男友達としては相性がいいのだ。


 僕は「うん」と頷いた。


 透が目をぱちぱちさせながら「またなんで犬を?」


「寂しかったからかな」


 なんだか少し恥ずかしくなり、それを紛らわすために僕はコンビニのおにぎりにかぶりついた。


「寂しかったって、お前は女か」


 語尾を強調させると同時に、透は割り箸をパキッと割った。まだ2分くらいしか経っていないのに、待ちきれないのか透はカップ麺の蓋をはがして合掌すると、すかさず麺をすすり始めた。


「そんなことじゃいつまで経っても彼女ができないぞ」


 麺をすすりながら、モゴモゴと喋りながら割り箸をこちらに指してきた。いつもなら、余計なお世話だ、と返すところだが、今日の僕は違った。


「それが今日、運命的な出会いをしたんだ」


 透はゴクリと飲み込んで口の中を空っぽにすると、いぶかしそうに「運命的?」と返してきた。


「そうなんだ、今朝初のベイリーと散歩、あっ、犬の名前ベイリーって言うんだけどね? そのベイリーと散歩してたら、向こうから僕と同じで犬を連れた女性が歩いてきて、その女性に一目惚れしちゃったんだ」


 頭の中で今朝会ったばかりの山下さんの顔が思い浮かぶ。やはり何度思い返しても、山下さんは僕には高嶺の花としか言いようがない素敵な女性だった。


「まじで? っで話しかけたんだろうな?」


 透が目を細め、僕を睨んだ。


「うん、話しかけたよ」


「な、なに!?」


 途端に勢いよく透が椅子から立ち上がり、そのまま後ずさりした。世界が明日滅亡することを報された時のような顔になっている。


「お、大袈裟すぎるよ」


 透が大きな声を出すもんだから、周りの視線がこちらに集まり居ずらくなった。原因である当の本人は全く気にもとめていない様子だが。


「い、いやあの博貴がか!? あのコミュ障で陰キャで声が小さくてメガネでもやしみたいな体つきをしてる博貴が女性にナンパしただと!?」


 メガネは悪口なのか?


 そんなどうでもいいことが頭をよぎったが、すぐにほかの悪口が的を射すぎてることに気づき、少しむっときた。


「言い過ぎじゃないか?」


「でも事実だろ?」


「確かに……」


 正論で言い返せなくなりしょんぼりとすると、透はまた席に着いた。


「てか、僕のしたことってナンパなのかな」


 先程透が口にしたナンパという単語に僕はあまりいい印象を持ってなかった。東京の繁華街や海辺でチャラい男がするイメージがある。僕はそんな人種と同じことをしたのかと気になりきいてみた。


「初対面で異性に用もないのに話しかけるってナンパ以外になにがあるんだよ。まあでも、お前にはそれくらいの積極性が必要だ」


 腕を組んで目をつむり、うんうんと何度も透は首を縦に振った。


「博貴がナンパせずには居られないくらいに、その子は可愛かったのか?」


「うーん、可愛いのは確かだけど、きっかけはベイリーなんだ」


「ほお、ベイリーが何をしたって言うんだ」


 興味津々と透が身を乗り出してくる。


「僕が一目惚れしてその場で固まっていたら、その女性が僕の横を通り過ぎる際にベイリーが女性に向かって吠えてくれたんだ。しかも何度も」


 あの情景が蘇る。あの時は恋と困惑が混じり、パニックになっていた。


「その契機で会話が始まったわけか」


「そうなんだ」


「ならそのベイリーはお前の心情全て読みとって、お前のためにそうしてくれたんだな」


 まさにその通りだった。いや、確定ではないがそうに違いない。今考えても、ベイリーは僕の中で芽生えた恋を察し、臆病な僕に最後のチャンスを与えるために吠えたとしか考えられなかった。感謝でしかない。帰りに高級ドックフードを買って帰ってやろうと決めた。


「ベイリーは本当に賢い犬だよ」


 女芸人の犬を飼ったらおしまいという言葉が僕の中で消滅していた。むしろ始まりだった。ベイリーを飼って本当に良かったと痛感している。もっと前からそうしておけばという後悔も少しある。


「ついに博貴も彼女ができるのかー」


 透がポケットに手を入れ背を椅子にもたれさせ天井を眺めながら呟いた。


「いや、まだできたわけでは……」


 その時、後ろの人の声で僕の言葉はかき消された。


「え、嘘!? 柴田くん彼女できたの!?」


 例のあの子。同期の清水 早苗さんだった。透とは少し違うグイグイとくるタイプの人だが、女性なので親しくなることなんてできなかった。しかし清水さんは、いつもキョドってる僕でも嫌がらず皆と平等に接してくれる八方美人だ。優しい人には違いないのだろうが、僕としては無視してくれている方が気が楽だった。


 コーヒーが3つ乗ったトレイを運んでいる最中だったが、どういうつもりか僕のデスクの上に一旦置いて会話に入ってきた。


「あ、いやちが……」


 魔法にかかったみたいに僕の声は虫みたいに小さくなり、清水さんの耳に届いているのかも不明だった。そんな僕のためか、透が代弁してくれた。


「もうじきできる予定だ」


 やはり、余計な事を口にした。僕は頭を抱えたくなる衝動に駆られた。会社内ではあまり広がらないよう注意を払うつもりだったが、1日でこのザマだ。


「え!? なになに!? 好きな子できたの!?」


 清水さんが鼻息がかかるくらいの距離まで顔を近づけてきた。僕の心臓は飛び跳ねるが、清水さんは何ともない様子だ。女性特有の良い香りがしたが、それを堪能する暇はなかった。


「い、いや……う、うん……ま、まあ」


 僕は清水さんと目を合わせず、隣の透を見て助け舟を求めたが、透はずっとニヤニヤしていた。


 透め……。


「え!!! 聞かせて聞かせて!!!」


 どうやら透以上にグイグイとくる性質のようだ。一般から見ると彼女は社交性があり、慕われるのだろうが、僕にとっては迷惑でしかなかった。もっと迷惑だったことは、清水さんと透の提案で、前に僕の家で飲み会をすることになったことだ。


「え、えーと……」


 僕が返答に困っていると、ようやく透が助け舟に乗ってきた。


「清水、これは俺と博貴の男同志の大切な話なんだよ。悪いが簡単に清水に話すわけにはいかない」


「なによそれ」


 清水さんがさっきと打って変わって冷めた口ぶりを透にぶつけた。透に下品なものを見るかのような眼差しを向けている。


「だからおばさんはすっこんでな」


 透が悪戯な笑を浮かべる。


「は!? おばさんって私はまだ28よ! 私がおばさんだったらあんたはおっさんよ!」


「怒ったら皺が増えるぜ?」


「うっさい!」


 まるで小学生のようなやりとりだ。20年前にもこんな光景を見た気がする。もちろんこの二人とは会社で出会った仲だが。僕はそんなやりとりが少し羨ましく、微笑ましかった。


 二人は仲が悪いようで仲がいい。社内で交際疑惑が広まったくらいだ。本人達は断じて有り得ないと言い張っているが、周りのものはほとんど鵜呑みにしていない。


 本当は付き合ってるのでは?


 ふとそう思ったが、よくよく考えると透には彼女がいることを思い出した。確か付き合って3ヶ月くらいは経つだろう。どんな子かはまだ見た事はないが、とても美人だと自慢げに話していた。


 二人が睨み合っていると休憩所から清水さんを呼ぶ声がして、清水さんは透にあっかんべーをすると、僕の机に置いていたトレイを持って休憩所に向かって行った。


「あれじゃいつまで経っても彼氏は出来ないな」


 透が去っていく清水さんの背を眺めながら毒づいた。


「そうかな、清水さん綺麗だし出来そうだけど。今はいないの?」


「あんなのが綺麗って? お前趣味悪いな。ここずっといないらしいぜ、頭が小学生のまんまなんだよ」


 透が言うか?


 そう口に出そうだったが、心に留めておいた。


「そう言えば透は彼女とどうなの?」


「あ、俺か? まあ順調ってところだな。先週も彼女の家でやったし」


 その光景を思い出しているのか、透の顔がいやらしそうに弛緩している。


「へ、へー」


 僕はまだ未経験なので、そういった類の話にはついていけなかった。苦手と言うわけでは無いが、どう反応したらいいのか分からないのだ。


「あ、そういや彼女も最近犬を飼ってたな」


 思いついたように透が口にした。


「え、そうなの?」


「おお」


「種類は?」


「んーーーーなんだったかな。聞いたけど忘れた。犬に詳しくないからな。お前の犬は?」


「柴犬だよ」


「柴犬か、柴犬ではなかったな。もっと、もふもふしてそうで小さかったんだよなー。茶色くてさ」


 僕はそこで山下さんの連れていた犬を思い出した。


「もしかしてトイプードル?」


「あ! それだそれ! 確かそう言ってたわ。いやーモヤモヤが晴れたわー」


 スッキリしたそうで、透は「あ、ラーメン忘れてた」と口にし、麺を勢いよくすすっていく。僕も再びおにぎりをかじった。


 山下さんも最近茶色いトイプードルのモコちゃんを飼ったと言っていた。僕はこんな偶然もあるもんだなーと不思議な気持ちに浸っていた。もしかしたら、女性の間では茶色いトイプードルが流行っているのかもしれない。確かに女性受けが良さそうなので、もしそう言われると納得しそうだ。


 透はラーメンを平らげると「あ、そうだ!」と声を上げた。


「どうしたの?」


「明後日の日曜、俺と俺の彼女と、お前とお前の好きな子でダブルデートしようぜ!」


 おにぎりが器官にはいり、咳き込んだ。


「だ、ダブルデート!?」


 何を言い出すのかと思えば、とんでもないことだった。もちろんそれは僕にとってはだ。今までデートを誘ったことも誘われたこともないので、デートの経験はない。ダブルデートなんてもってのほかだ。


「そう、結構いいらしいぜ。カップルとまだ付き合ってない2人でダブルデートすると、その2人が結ばれる確率があがるらしい。なんでもその2人がカップルを見て羨ましく感じて自分もそうなりたいなーって願望するからなんだってよ」


 どこでそんな情報を仕入れたのかは知らないが、僕にとってはハードルが高そうだった。


「いやでも、僕まだ普通のデートもしたこともないのに、ダブルデートなんか自信ないよ」


「アホか、普通のデートよりダブルデートの方が簡単に決まってるだろ」


「え、そうなの?」


「特にお前なんか二人っきりだと石みたいに固まって、なんにも喋れなくなるだろ」


「た、確かに……」


 言われてみればそうだ。山下さんと二人っきりでデートをする想像をしてみたが、悲惨なものだった。聞きなれないダブルデートに偏見があったようだ。冷静に考えてみると、ダブルデートの方が気が楽そうだ。


「んじゃ、明日も一緒に散歩する気なんだろ? そのこと伝えとけよ」


「え、えー」


 ダブルデートが良いとは分かったが、デートに誘えるかどうかは別だった。入社面接の如く噛み噛みになることは、火を見るより明らかだ。


「デートは早い段階で誘っておいた方がいい。いいかわかったか? 絶対誘えよ」


 そう言葉を残し、透はトイレへと向かった。


 誘えと言われても、やはり自信がなかった。本当に大丈夫だろうか。断れないだろうか。既に緊張していた。今緊張しててどうするんだよと自分で自分を責めていた。


 そうだ、ベイリーも一緒なんだ。


 ベイリーが傍にいてくれるだけで少しは緊張は和らぐのではと考えた。鼻っからベイリーを頼っているようでなんだか情けない。改めて思うが、最初と今で立場が逆転している。逆転と言っても、僕はまだベイリーには何もしてあげれてないのだけれども。


 僕は一口サイズになったおにぎりを口に放り込んだ。


 その時、後ろの女子社員二人が会話しているのが耳に入ってきた。


「清水さん、松崎くんのこと好きみたいね」


「え、ほんとに? でも松崎君って彼女いたよね?」


「そうなのよね〜、でも本人は諦めてないみたい。それに清水さんいつもあんな感じだけど、一時期病んでたみたい」


「え、あの清水さんが?」


「そう、表向きでは明るく振舞ってるけど、内心すごく病んでたみたい。友達から聞いたわ」


「もしかして彼氏に振られたとか?」


「それより酷いかも。なんでも他の女に寝とられたとか」


「嘘!?」


「ほんとよ。確か3ヶ月前くらいのことかな。それでその女のこと憎んでるっぽいのよね。でも最近松崎君に夢中みたいだから、もしかしたら立ち直ってるかもね」


「清水さん、松崎君が彼女いること知ってるのかな」


「知ってるって友達から聞いたわ」


「え!? じゃあ今度は清水さんが……」


「そんなこと考えたくないわね。変な気を起こさないといいけれど」

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