冷たい枕

三津凛

第1話

明け方に、冷たい枕の上で目醒める。

まだほんのりと昨晩飲んだアルコールの残り香が漂っているような気がする。

脚の上に、もう一つの脚が重なる。男の脚は視界の閉ざされた暗闇の中で感じると、硬く骨ばっているのだと気づかされた。でもその重みは、ちっとも私を癒さなかった。

男はだらしなく口を開けて眠っている。まだ酒臭い。

男は彼女がいると言っていた。あまり心は痛まなかった。他の女と、1人の男の身体を共有する不思議な感覚がした。

男が彼女の存在を明かしたのは、セックスが終わった後でだった。普通ならそこで怒るべきところなのに、私は既視感を持ってそれを受け入れた。

あぁ、やっぱりねという感覚だった。

私には心を込めて丹念に愛される資格はない。気まぐれに、無責任にこうして扱われるのが似合っている。

それでも狡い男だ、と起きない頰を眺めて思う。好きな女もいるくせに、好きでもない女をこうして抱ける。

でも私も狡い女だ。嫌なら頰の一つでも叩いてやって飛び出せばよかったのに、こうして男の隣でうずくまっている。結局、夜中重なり合っていた。


馬鹿だ馬鹿だ。


天井に浮かんだ染みを眺めながら、自分を詰る。何度こうして後悔しながら天井を見たのか分からない。それでも、未来のない相手と意味のないセックスをすることをやめられない。

これは何かの病気なのだろうか。まだ夜は開けない。私は眠れないまま、朝日が昇るのを独りで待った。隣の男は死んだように眠り続ける。



「……私たち、付き合ってみない」

「は?」

やっと男が起きた後で、私は大真面目に言ってみた。男は明らかに嫌そうな顔をした。

「だって、これはさ……」


たった一夜のセックスじゃないか。


尻すぼみになった語尾の先が手に取るように分かった。

「僕だって彼女いるし、納得してたじゃん……八代(やよ)ちゃんは可愛いけどさ……」


面倒なんだよね、こうしてたまに彼女に飽きた頃合いにつまむくらいがちょうどいい。


まだ突きつけられていないはずの言葉が、眼前に登ってくる。妄想と、現実の境目が次第に曖昧になってくる。

やっぱり私には、丹念に心を込めて愛される資格はない。片手間でもいいから、気持ちをくれればいいのにそれすらも叶わない。

本当は分かっている。こうしてすぐに軽くセックスをしてしまうからだ。目に見えない感情で引かずに、分かりやすく身体で引っ張るからだ。

「冗談だよ……本気にしたの?」

「や、やっぱりそうだよね。びっくりしたよ、あはは」

こんな男を信じて愛してる女は哀れだな、と私は思った。顔の見えない女を哀れむことで、惨めな自分を少しでも慰めようと束の間足掻く。

「ねぇ、まだ時間あるよ。1限はまだお互い休めるじゃん」

男はまだ裸の私の肩をもどかしそうに抱く。私も調子を合わせる。

「……じゃあ、昼からの講義に出る?」

「そうしようよ」

露骨に表情をほころばせて男は頷く。

「彼女って、どんな子なの?」

「どんなって、普通の子だよ」

「普通ね……」

男は鼻の穴を膨らませて、声を弾ませる。

「嫉妬した?」


馬鹿、自惚れるな。


私は唇を動かしかける。

男は全く気づかない様子で、私の腿に自分をすりつける。こんなもののどこが良いのだろうと、いまさら思った。

それでも私はやめられそうになかった。自分からそれを握って、男が悦びそうなことを必死にこなしていく。冷や汗の滲むような義務感だけが指を動かせる。

結局その日は昼過ぎになっても大学には行かなかった。



あの男は廊下や講義室で一緒になると、私を露骨に避けるようになった。少し神経を尖らせると、私の周りにはいつも微妙な空間ができていることに気がつく。

私には丹念に愛される資格がない。

異性の冷やかすような視線と、同性の非難がましい視線を見比べて、多分誰かが気安く私のことをぶちまけたのだと思った。

女には嫌われる。男には侮られる。

決して誰からも、男からも女からも愛されることがない。

どうしてこうなってしまったのか。

どこでこうなってしまったのか。

私は満杯の講義室を、夢遊病者のように抜け出て使われていない小さな教室に潜り込む。人波の音がまるで遠くの潮騒のように聞こえてくる。次第にそれが、全部私の悪口を言っているような心地になってくる。

何が気に入らないの、何がそんなに許せないの。

私は冷たい机に突っ伏したまま、夢を見る。忘れたはずの過去だった。


「母親がそんなんだから、こういうのも慣れっこなんでしょう」


見憶えのない、草臥れた女が涙交じりの瞳を向けて私を詰る。もう1週間も帰ってこない母親と、この女がどう関わっているのか次第に見えてきた。まだ小学生でも、それとなく男女の香りは勘付くものだ。

女は不様だった。髪はパサついて、所々掻きむしったのかはねている。涙のために瞼は厚く腫れて、青黒い隈がはっきりと眼の下に現れていた。頰は薄っすらとこけて、神経質な細い指と相まってまるで貧乏神のようだと私は思った。何も言わない私に業を煮やしたのか、女は憎々しげに言い放ったのだ。


「母親がそんなんだから、こういうのも慣れっこなんでしょう」


私の母親は弱い人だった。いつも誰かの腕を必要としているような人だった。父親独りでは、だめだったのだ。

女は紙袋を持っていた。それがこの辺りでは有名な和菓子店のものだということに気がついて、私はその紙袋ばかり見ていた。

女はまだ何か言いかけた。今度はもっと酷い言葉を言うつもりだったに違いない。

「それくらいにしなさい。子どもに何を言ってもだめでしょう」

もう1人の女が隠れるようにしていたことを、私はそれで初めて知った。

そこから先はどんなやり取りをしたのか憶えていない。

ただ、紙袋だけが玄関先に置かれているだけだった。私はそれを居間に運んで包みを丁寧に開けた。一等高い和菓子の詰め合わせだった。

そこにどんな嫌味があったのかも知らないまま、私はその中の一つを無心に頬張った……。



私には丹念に愛される価値がない。

終いまで講義を受けずに、廊下を歩きながら私は思った。

母親はあの後、3年ほど帰ってこなかった。父親は母のことは何も言わなかった。今思えば、勝手に離婚届でも出されていたのかもしれない。母親は3年経ってようやく帰ってきた。私はもう中学を卒業する頃だった。


「男と別れた」


謝罪も悔いもない、ただの報告だった。私も父親も、まさか帰ってくるとは思わず何年も前に死んだはずの人が玄関先に立っているような心地だった。亡霊を見るように、母親を見た。心なしか、母はいくらか若返ったようだった。

「あいつは男の精を搾り尽くして若返った」

父親はそう呟いた。その母親を手放すのが惜しかったのか、愛おしかったのか父親は邪険に扱うこともなくむしろ執着した。それから母親は大人しかったが、まだ若いうちに子宮癌で死んだ。

父親はそれから女には興味を失くしたようだった。

母親の葬儀で、口の悪い叔母が私のそばで言い放った。


「お前は自分の母親に捨てられた子だよ」


醜い顔だと思った。美しかった男たらしの母親にこの人は嫉妬しているのだ。憎んでいるのだとその時思った。

けれど、この言葉は呪いのように私を縛った。

母親のいない、空白の3年の虚しさを思い出すにつけ私は間違いなく捨てられた子どもなのだと思い知らされた。

私には丹念に愛される資格がない、価値がない。

それから、私もあの母親と同じように男の上をふらつくようになった。



私もいつか、母親と同じように子宮癌で死ぬのだろうか。穢れた子宮、使い古された子宮は早晩病むに違いない。

私はどこからが自分の妄想で、現実なのか分からなくなった。大学の長い、騒めく廊下がそのまま私を嘲笑っているように感じる。

「ちょっと、あんたでしょ」

ぼんやり歩いていると、強い力で肩を引かれた。

振り返ると、どこかで見憶えのあるような女の子が私を睨んでいた。

「雅之とやったでしょ」

一瞬誰のことなのか分からなかった。どの男のことなのだろう、と眉間に皺を寄せる。女は馬鹿にしたように嗤った。

「やり過ぎてどの男か分からないんでしょ」

「そうだけど」

自分でもびっくりするような言葉が口から出た。

「ふん」

女の子は少し怯んだようだった。私はどんな罵詈雑言を浴びるのかと少し怠く思った。

簡単につまみ食いされるような女が悪ければ、手を出す男も下衆だ。誰も彼もが女を詰り、男を庇う。

ふと、夢に出てきた母親に夫を盗られた哀れな女の顔がよみがえる。

「あんな男、いらない。あんたにあげる」

女の子は挑発的にこちらを見る。

「私も別にあんな男いらない。好きで寝たわけじゃないし」

私は淡々と言い返す。言えば言うほど、何か自分の内側が露わになっていくような錯覚を憶える。

「あんた、有名だよ」

「なにが」

「誰とでもするって、本当?」

「……そうだね」

女の子はちょっと興味深そうに眉毛を開く。

「病気じゃん」

女の子は軽く言い放つ。私にはなにを言っても許されるという傲慢さが透けていた。

いっそのこと、本当に病気だったら良かったのになと思う。

そうすれば少しは誰かに憐れんで優しくされたのかもしれない。

「本当に、病気かもしれないわ」

私の言葉に女の子は笑みを消して、白けた表情になった。

「なんで、誰とでもするの」

私は卑屈に笑った。

「さぁ……」

私は丹念に愛される資格がない。

母親にも捨てられるような子どもだ。母親を亡くした父親だって、忘れ形見を愛でるようには接してくれなかった。

それでも、何かに縋りたかったのだ。

「なんか、あんた病んでるね」

女の子はそれだけ言って、薄気味悪いものを見るような素振りで私の元から去っていった。

それからしばらくして、本当にあの雅之という男が彼女と別れていたことを噂で知った。


良心は痛まなかった。

動かされない心が、平然と私たちの元に帰ってきた母親と重なる。まだ不様に私を詰ったあの貧乏神のような女の方が人間だったのだ。

心は痛まない。

私もいつか、遠くないうちに母親と同じ子宮癌で死ぬだろうと確信した。

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冷たい枕 三津凛 @mitsurin12

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