第60話 ここにもいつか七色の光が

 直射日光の遮られているぶんだけ図書室は涼しく、開けられた窓からは心地よい風と部活動に勤しむ生徒たちの掛け声が吹きこんでいた。

 今日はカウンター前の定位置ではなく窓際の席に陣取った。涼しい風が僕の頬を撫でる。放課後の気だるさもあって、僕は自然に目蓋を落とし、ときどき机についた頬杖をガクッと揺らした。

 向かいの席では僕の〈絶望〉が真剣な目でスマホを睨んでいた。

「ねえツェラ、まだ粘ってるのかい?」

「うん。いつか出るかもしれないから!」

 そう言うとツェラは、ふんっ、とスマホをタップした。

 例の噂を聞いてから今でもツェラはレイボで虹を出そうと奮闘していた。あれから自分のクラスはおろか別の教室でも実際に虹が出たという話はついぞ聞いたことがない。やっぱり誰かの冗談だったのではなかろうか?

 目を転じればカウンターでは朝吹さんがせっせと業務に励んでいた。僕は今日、朝吹さんから借りた元素図鑑を返そうと思っている。しかし、夏休みを前に本の貸し出しが増えているのか、いつになく彼女は忙しそうであり、それが僕の出足を鈍らせていた。

 そういえばこの図書室だったっけ、あの選考結果を目にしたのは。自分の力を出し切って一本の小説を書き、とある新人賞に応募した、あの時の僕の勇気は今頃どこを彷徨っているのだろう……。

「よし」

 僕はそう口にした。

「どこ行くの、鮎川くん?」

「僕は行かなければならないんだ。一輪の花咲く荒地へね」

 思い切りくさい台詞を吐いてから僕は図鑑を手にカウンターへと向かった。

「あの……」

 ちょうど業務が途切れた朝吹さんは顔を上げると、あ、と驚いたような顔をした。

「本、どうもありがとう」

「鮎川さん、こちらこそありがとうございます。あの……」

 図鑑を受け取った朝吹さんはどこか落ち着かない様子だった。そして隣の図書委員の生徒に、ちょっとごめんね、と断ってから僕を手招きした。どうやら僕を図書室の外へと誘っているらしい。

 僕の中に戸惑いと、ものすごい期待とが駆け巡った。

 図書室を出た朝吹さんが僕を連れていったのは廊下の掃除用具入れの陰だった。ここはちょうど図書室を出入りする生徒からは死角になる場所である。僕はほとんど気が動転していた。

「叶映ちゃんから聞いたの。私のこと心配してくれたって。本当にどうもありがとう」

「いやあ、そんなこと……。こちらこそ元素が本当にキレイで」

 僕は何を伝えるべきか見失っていた。

「それでね、実は……」

 朝吹さんは少し考えるような顔をすると僕の予想を一足飛びに上回りその場で唇を尖らせた。

 まさか……。

 いけない! 僕にだって心の準備というものが……。


 ピーーーーッ!


 目を白黒させる僕の期待を順調に裏切り、朝吹さんの唇から出たのは鋭い口笛だった。

「え……? うわっ!」

 突然、僕の足から腰を伝い、背中、肩、そして頭上へと何物かが駆け上った。思わず頭へ手をやると、僕の手はなにやら毛むくじゃらの物体を抱えた。それは一匹の動物だった。

「これって……、ミーアキャット?」

 鮎川さんは笑顔を弾けさせて手を叩いた。

「やっぱり鮎川さんには見えるんだあ!」

 僕の脳内にはあの予定地からすごい速さで駆け出していった〈絶望の卵〉の中身の姿が蘇った。

「ってことは……」

「この子ね、私が病院から帰るときに私の前にやってきたの。なぜか他の人にはこの子の姿が見えないみたいで混乱しちゃったんだけど、でも不思議なんだよね。なぜかこの子といると私、気持ちが楽になって」

 朝吹さんは話し続けた。

「昨日、実は覚悟していたの。検査の結果次第ではもう今までみたいに本を読んだり絵を見たりすることを諦めなくちゃいけないって。でもね、本当に奇跡的なんだけど、さしあたり病状の進行は無いだろうって! 今までみたいに本を読んだり図鑑を見たり出来るって!」

「そう、それは良かった」

 僕はあらためて安堵の息を吐いた。

「それでね、その帰りにこの子と会って。不思議ね。心が通じ合うっていうのかな、きっとこの子は私が不安だったり、ちょっと落ち込んだり、そういう気分がこうして形を持って現れてくれた子なんだってそう思ったんだ」

「うん、きっとそうだと思う」

 さすが朝吹さん。尋常ではない勘の鋭さだ。

「それで、なんでだろう? もしかしたら鮎川さんにもこの子が見えるんじゃないかって、そう思ったの。もしかしたらこの子が教えてくれたのかもしれない」

 ミーアキャットの姿をした朝吹さんの〈絶望〉は僕の肩にしがみついた。アヒルやカモは卵から孵って初めて見た物を自分の親だと思い込む習性があるらしいけれど、まさかね。

 あ、そろそろ戻らなきゃ、と朝吹さんは腕時計に目をやった。

「それじゃあ、この子ともどもこれからもよろしくね」

 朝吹さんがペコリと頭を下げると彼女の〈絶望〉は僕の肩から飛び降りて朝吹さんの足下に擦り寄った。

「うん、こちらこそ」

 僕も頭を下げた。

「あ、あと」

「ん?」

「鮎川さんの前に座ってたあの女の子にもよろしく」

 うふっと笑い、振り向いて図書室へと帰っていく朝吹さんとミーアキャットの後ろ姿を僕は一人見詰めた。

〈絶望〉と出会った人間は他人の〈絶望〉も知覚することが出来る。うん、そうだ。

 ということはさっきツェラに告げた歯の浮くようなくさい台詞もひょっとしたら朝吹さんの耳に届いていたんじゃ……。

 僕は図書室のドアを開けるとカウンターには目もくれず窓際の席へと一直線に進んだ。

「えいや!」

 自分の顔が真っ赤になっていることを自覚しながら椅子を引くと、目の前ではツェラが相変わらずスマホをタップしていた。

 僕たちはこうしてそれぞれの〈絶望〉と共にありながら、それでもいつの日かこの手の中に小さな虹が架かることを夢見て生きていくしかないのかもしれない。たとえそれがどんなに小さかろうとも、現れたと思えばすぐに跡形もなく消えてしまうようなものだとしても。

「あっ!!」

 場違いなツェラの大声に朝吹さんだけがニッコリと笑顔を寄越した。

 僕は彼女に情けない笑みを返すと窓の外を眺め、目を細めた。


 まばゆい夏がこの町にもやってきていた。

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それでも愛しい世界とドーナツ 石田緒 @ishidao

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