第59話 開いた袋を宙に掲げて

 今度こそ僕に平穏で平凡な日々が戻ってきた。


 一人で中学校に通えるまで足の回復した小楢はこれまで送り迎えをしてくれた兄の心配などさっさと吹き飛ばしてバレー部の朝練へと出て行った。さすがにコートに立つのは無理なので見学をするのだという。見学でも腹は減るらしく、朝から丼飯をペロリと平らげていった。

「あのくらいの女の子ってとにかくお腹が空くものなのよ」

 呆れている僕に有以さんが笑いかけた。電子レンジで温めなおしたコーヒーが二人分のカップに注がれるとキッチンに芳香が満ちた。

「ま、元気なことは良いことさ」

 僕はミルクを少々、角砂糖を三つカップに放り込むと息を吹きかけてからコーヒーを啜った。

「そういうこと」

 エプロンを外して父親の椅子の背にかけた有以さんは自分の席に腰かけてにっこりと微笑んだ。


「鮎川くん! セミが鳴いてる!」

 再び自転車の後ろを指定席に占めたツェラが後ろで足をばたつかせた。

 なるほど、どおりで暑いわけだ。日常は変わらなくても季節はこちらの都合など関係なくどんどん移り変わっていく。

「ツェラ、もうちょっと大人しくしてくれないか」

 緩い上り坂に差しかかり僕は自転車のハンドルを強く握った。

 登校する生徒たちを避けつつゆっくりと校門をくぐる。自転車を降りるとツェラは勝手に駆けていく。僕はいつものように昇降口へと向かう。

 日差しは強くなっても下駄箱の薄暗さに変化はない。それでもこれまでのジメジメしたホコリっぽさは幾分か夏の風に吹き払われただろうか。

 廊下を歩いて教室に入ればそこもまたいつもの日常が待っている。僕は何も気にせず自分の席に着く。クラスメートの笑い声をあちこちに聞きながら。僕は机に伏せる。傍目には孤独にすさんでいるように見えるかもしれない。けれど、僕の心は晴れやかだった。孤独で何が悪い。群れで行動する鳥もいれば、一羽で空高く飛翔する鳥だっている。飛びたいときに飛んで、休みたいときには休んだらいい。

 そろそろチャイムが鳴る。チャイムが鳴ったら今日もまたやる気があるのかないのか分からない北園があのドアを開けて入ってくるのだろう。


 昼休み。ツェラと弁当を提げてやってきた中庭には先に二人が待っていた。

「あちいな」

 ベンチに座った田村がシャツの胸元を開けてバサバサとあおった。

「武人さま、どうぞハンカチを」

 どこから持ってきたのか自分用の折りたたみ椅子に座ったネリがハンカチを差し出した。田村は照れくさそうにそれを受け取るとぎこちない手つきで額の汗を拭った。

 ベンチには燦々と陽光が降り注いでいた。僕たちはそれぞれ昼食の包みを広げた。

 予定地での任務が完了した後も僕たちはたまにこうして中庭で昼食を共にするようになっていた。かといって元スポーツマンの田村と誰かさん曰く図鑑の僕のこと。これといって弾む話題があるはずもない。けれど、少なくとも僕は不思議と居心地の良さを感じていた。田村も田村で教室で多くの友人に囲まれている時よりもどこか肩の力が抜けているように見えた。心の友に言葉なんていらない。そんな柄にもないことを思っては自分で恥ずかしくなっている。

「ネリちゃん、はい、あーん」

「ツェ、ツェラ姉さん、卵焼きくらい自分で食べられますから……」

 ともかくツェラとネリが楽しそうだからそれでいいと僕は納得している。

「おやおや、本日も二人で楽しくお食事?」

 食べ終わった頃に登場するのは例の誰かさんである。

「なんだ黒田、悪いか」

 黒田叶映はにんまりと笑いながら僕らの方へ歩み寄ってきた。

「武人くーん。そんな言い方ないでしょう?」

 その不敵な笑みはこのあいだ図書室の前で見せた悲痛な表情とはまるで別人のようだった。けれどこれでこそ黒田叶映、僕のたった一人の幼馴染みだ。

「なんだい叶映、いやにもったいぶった顔をしてるじゃないか」

「そうそう。お二人に食後のデザートなんてどうかなと思って?」

 黒田は後ろに回していた手を胸の前に持ち上げて見せた。

「叶映、僕らだってさすがに同じ手は食わないよ」

 その手に提げられたあのドーナツ屋の紙袋を見て僕が言うが早いか田村がベンチからすっくと立ち上がった。まさか田村の奴、その同じ手を食おうというのではあるまい?

「なあ黒田、お前はそのドーナツ、もう食ったか?」

 そりゃあ紙袋を持っているくらいだから食べただろうに。いったい何を言い出すのかと黒田も同じことを考えたらしい。

「もちろんあたしは食べ……」

「おおっと、みなまで言うな」

 田村は彼女の返答を手で制すとズボンのポケットに手を入れた。

「俺はなあ、俺は……、昨日食ったんだあ!」

 頭上高く挙げられたその手にはしわくちゃになった小さなビニール袋が握られていた。それはまさしく駅前のドーナツ屋のものだった。わざわざ例のドーナツを食べたことを証明するためにポケットに空き袋を入れてくるなんて、見上げた執着心だ。

 ふっふっふ、と勝ち誇った表情で黒田を見る田村。対する黒田はやはりと言うべきか余裕の顔である。

「そっかあ、じゃあ武人くんはいらないねー」

 黒田は紙袋から中身を取り出すと田村の目の前をこれ見よがしに横切らせて僕に紙袋ごと手渡した。その中身はどうも僕の知っているパッケージとは違うようだ、と思うや、田村がわなわなと震え始めた。

「く、黒田……。それはまさか」

「そ。知る人ぞ知る激レア商品。数量限定のヘブンズドーナツね。はい、篠生。全部食べていいよー」

 一度は勝ち誇った田村の目には涙すら浮かんでいた。

 この後の展開は分かっている。

 田村の必死の懇願を受け入れる直前、黒田は僕の耳に口を寄せて、ありがと篠生マン、と囁いた。


 そうだ。僕には放課後、行かなければならない場所があるのだ。

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