第58話 終わらせないために
僕は膝から崩れ落ちそうだった。
失敗だ……。
フライアウトは取れなかった。〈絶望の卵〉は捨て身で飛び込んだ田村の勇敢さも虚しく、冷たい砂利の上にコロリと転がっていた。
まもなく新たな〈絶望〉が生まれてしまうのだ。そして、それは朝吹さんに最悪の結果を……。
と、僕のそばでネリが大きく息を吸うのが聞こえた。
「バックホォーーーーム!」
それまで聞いたことのないほどのネリの大声は倒れ込んだ田村の元へと風を裂いて渡っていった。
田村は膝を立て、痛みを堪えた表情で落ちた〈絶望の卵〉へと駆け寄った。そして、呆然とその様を見詰める僕の視線の先で、転がる〈絶望の卵〉を拾い上げ、強く握り締めると大きく振りかぶった。
「バアァック、ホォォーーーーム!!」
田村の叫びもまた広大な予定地に轟いた。
「うっああああーーーー!!」
元野球部のエースピッチャーによって〈絶望の卵〉はレーザービームのように猛スピードで投じられた。
バックホーム。
その言葉を僕は理解していた。得点圏にいる相手チームの走者がホームベースを踏む前にタッチアウトにするため本塁のチームメイトに送球をするという、そんな意味だ。
つまり田村によって投げられたあの球を誰かがキャッチしなければならない。取り落とすことなくしっかりと。
誰が?
疑いの余地は無かった。田村の放った剛速球は他の誰でもない、僕を目がけて一直線に飛んできていた。
無理だ。出来っこない……。
両手を胸の前に上げては見たものの、その指は細かく震えていた。剛速球が高速で目の前に迫ってくる恐怖ばかりではない。僕はきっと自分が背負っている責任の重大さに怯えていたのだ。
球を放った田村は右肩を押さえてその場にうずくまっていた。
ネリは再び両手を組んで目を瞑っていた。
藁にもすがる気持ちだった。迫り来る〈絶望の卵〉を注視しつつも、僕は視界の端にツェラを捉えていた。自分の〈絶望〉を……。
ツェラもまた両手を組んでいた。そして、何かを祈るようにまぶたが閉じられた。
『それはバチンと僕の顔面を直撃してから偶然にも開いた手の中に収まった。』
突然の衝撃に体勢を崩し、尻をしたたかに打ち付けた僕はそのまま後ろに倒れ込んだ。
「ううっ!」
仰向けのまましばらく全身の痛みを堪え、ようやく目を開けた僕が見たのは空一面を覆う真っ黒な雲だった。
「鮎川くん!」
僕は混乱していた。どうなったんだ?
やがて徐々に体の感覚を取り戻すにつれ、全身の痛みと共に、お腹の上に組み合わせた掌の中に丸くて少しだけ温かい卵のようなものが包み込まれていることに気が付いた。
「ア……、アウトです!」
顔をもたげると、不安げに僕を見詰めるツェラの隣でネリがビシッと親指を立てていた。
やった……、のか?
「やったああああー!!」
ツェラがネリの手を取ってピョンピョン飛び跳ねた。そんなツェラの様子にいつもなら困惑するであろうネリも涙ぐんで何度も頷いていた。
成功だ。
最悪の〈絶望〉を阻止してやったぞ!!
「鮎川くん、平気?」
ツェラがしゃがんで僕の顔を覗き込んだ。
「おお、僕は大丈夫。それよりもタケちゃんを」
右肩を押さえながら歩いてくる田村にネリが駆け寄った。
「武人さま、大丈夫ですか!?」
「ギブス取れた翌日に全力投球はさすがに無茶だったわ」
痛みを堪えながらも田村は口角を上げた。
ネリに支えられながら僕のそばまでくると田村は無事な方の手を僕に差し出した。
「ナイスキャッチ、シーナ」
「うん。タケちゃんこそナイススローだったよ」
友人から差し伸べられた手を僕は掴み、ぐっと握り返した。大きな手の温かさが僕の体に流れ込んできた。
それは絵に描いたような青春の一ページだった。あまりにも僕らしからぬその光景に、僕は倒れ込んだ痛み以上に全身にむず痒さが駆け上ってくるのを感じた。もちろんそれはけっして嫌なむず痒さではなかった。
気持ち的な気恥ずかしさだけかと思ったが、そうではなかった。どうもお腹の上がむずむずすると見れば、へその上に乗せた掌の中で何物かが動いているではないか。
「うわっ!」
思わず上げた大声に全員の視線が僕のへそに集中した。
「シーナ、なんか動いてるぞ」
「落ち着いてください。生まれます」
生まれる?〈絶望〉は阻止したのではなかったのか!?
「鮎川くん、そーっと、そーっと」
〈絶望の卵〉はしばらくもぞもぞ動いていたが、ピタッと動きを止めたかと思うと、次の瞬間、ポンッと弾けた。
「!?」
慌てて手を開くと全身毛むくじゃらの、猫のような、しかしよく分からない生き物がお腹の上に着地し、僕たちがその正体を確認する隙もなくすごい速さで駆け出し、あっという間に視界の向こうへと消えていった。
あっけにとられていた僕だったが、ハッと息を飲んだ。
「ひょっとして朝吹さんのところへ行ったんじゃ?」
「はい、おそらく」
ネリは落ち着いたトーンで答えた。
「それじゃ、やっぱり朝吹さんに〈絶望〉が……」
「シーナさん、心配しないでください。初段階で地に落ちたため孵化はしましたが、その後のお二人のナイスプレーで最悪化を食い止めることは出来たはずです。あの子が朝吹さんと接触したところで彼女に絶望が訪れることはないでしょう」
「それなら良かった……」
僕は胸をなで下ろした。ホッとしたのと同時に力が抜けてまた仰向けになりそうだったけれど、僕の手は再び田村に力強く握られた。
「よし! そんならこんな湿気たところに長居は無用だぜ。とっとと帰るべ」
片手を田村に、もう一方の手をツェラに引き上げられて僕は体を起こした。安堵と達成感、そしてドッと押し寄せた疲労から僕たちはゆったりとした足取りで予定地を後にした。疲れてはいたものの、めいめいの顔には心から湧き上がる喜びが滲んでいた。
いつの間にか空を覆っていた重苦しい黒雲は流れ去り、はるか向こうに浮かんだ雲の底は紅く色づいていた。
途中で田村とネリとは別れ、僕とツェラは家路を歩いた。自転車に乗らなかったのにはまだ腰が痛むという理由もあったが、僕は今日のことがなんだか名残惜しくもあったのだ。
余韻を味わうように僕とツェラは言葉少なに歩みを進めた。
「良かったな、うまくいって」
ふと、僕はそんななんでもない台詞を口にした。
「うん!」
夕陽を浴びたツェラは目を細め、嬉しそうに笑った。
その夜、僕のスマホが震えた。見ると朝吹さんからのレイボの着信であった。恐るおそるアプリを開くと画面いっぱいに映し出されたのは遠くに望む森林のような深い緑色であった。
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