第57話 僕らの祈りは重力よりも

「ウフーッ、首いたい」

 映画館で最前列に座ってしまったかのように首を上げ続けていたツェラが堪らず砂利の上に仰向けに寝転んだ。

「ツェラ、服が汚れるよ」

「へーきへーき。ほら、こうすれば楽チンだよ」

 ツェラはあっけらかんと答えた。

「そうですね。もっと近づいてきたらわたくしが伝えますので、皆さん、楽な姿勢で待ちましょう」

 確かにネリの言うとおり、こうして立ったまま首を上げて陰気な空を見続けるのは心身共に消耗しそうだった。僕はその場に体育座りになった。体育座りは僕の一番得意な座り方だ。

「タケちゃんは平気かい?」

「ああ、俺は大丈夫だ」

 田村は仁王立ちで上空を睨んだままグローブをバンバンと叩いてみせた。それはようやくギブスが外れて自由になった右手の感触を確かめているようでもあった。チャンスは一度きり。まるでその緊張感を楽しんでいるかのような集中力と気迫は元エースピッチャーのそれであり、見上げる僕に軽く畏怖を感じさせさえした。

 言うまでもなく捕球役を担う田村だけに任せておけばよいというわけではない。今回の作戦は空から落ちてくる〈絶望の卵〉をいかに早く発見するかが勝利のカギとなってくる。

 これまでツェラとネリが僕や田村の前に現れたときにそのどちらにも泥などの汚れが付着していなかったことから、おそらく今回の〈絶望〉も草むらではなくアスファルトか砂利地帯に落下してくるだろうとの予測が立った。それにしてもショッピングモールの駐車場並の広さである。四人がそれぞれの目によって空を注視し、一瞬でも早く存在を見つけなければ田村による捕球は難しい。

 それに今回〈絶望〉に狙われているのが朝吹さんである以上、僕にも責任の一端はある。意地でも成功させ、彼女を救わねばならない。それは黒田叶映との約束でもある。

 僕たちは思いおもいに体勢を変えながらその時を待った。

 しかし、何かを待つ時間はとかく長く感じるものである。時間はゆっくりと流れていった。

 四人の間を夏の気配を含んだ風が吹きすぎていった。上体を起こし、地面に手を付いて足を投げ出したツェラの髪が涼しげに揺れた。

 考えてみれば放課後にこんなふうに、気の置けない仲間と、過ぎていく時間を過ぎていくままに過ごしたことなど僕にはこれまで無いことだった。

 それはある意味では穏やかな時間だった。正直に言えば、僕は一瞬だけ、この状況をちょっと良いなと思ってしまった。これが心のどこかで僕の望んでいた景色であり、時間なんじゃないかって。

〈絶望〉なんて落ちてこなくたっていい。このままこうして四人で言葉少なにぼんやり空を見詰め続けていられたら……。

 しかし、そんな僕の思いはネリの鋭い声に脆くも破られた。

「近づいてきました」

 四人の間に緊張が走った。

「どの辺か分かるか?」

 これまで一度も腰を下ろすことなく空を凝視していた田村がいっそう目を光らせた。

「分かりません。けれど、落下地点はこの一帯であることは間違いないかと思われます」

 僕とツェラも立ち上がった。僕たちは互いに背を向けあって四方へそれぞれに視線を据えた。

 風が一段と強まった。黒い雲は速度を増し、ごうごうと流れた。その様はあたかも地上に暮らす僕たちの矮小さを嘲笑うかのようでもあった。僕たちは雲を睨み返すことで上空からの圧力に必死に抵抗を試みていた。

 どれほどそうしていただろうか。やがて僕の視線が黒雲に一点の穴を穿った。

 針の先ほどの小さな穴は、徐々にその存在を明確にし始めた。強風にも関わらず、それは吸い寄せられるように一直線に地上めがけて近づいてきた。

「あれ!」

 全員が僕の大声に振り返り、その指差す方へと目を転じた。瞬時に四人の視線が一点に集中した。

「あれです! 間違いありません!」

 ネリが言い終えるかどうかというタイミングで一瞬だけ腰を落とした田村が猛烈なスピードで発進した。

「うぅおおおおおおおおーーーー!」

 唸り声を上げて弾丸の如く駆けていった。シューズの蹴り上げる砂利が規則的に舞い上がった。それはまるで数週間ぶりに鎖から解き放たれた猛犬のようでもあった。

「いぃっけええええーーーー!」

 ネリが見たことのない形相で絶叫し、そして両手を組み合わせて目を瞑った。

「がんばれええええーーーー!」

 ツェラもまた両手をメガホンのように口に当てて叫んだ。

 一方、僕はわなわなと足を震わせていた。何か声を発そうとしても喉に息がつかえて出てこなかった。

 いけない。僕ばかりが怯えて無言のまま立ち尽くしているなんて。ただ状況を見守っているだけだなんて……。

 僕は両手を固く握りしめた。荒い鼻息を吐いた。そして、ほとんど頭が真っ白のまま大きく息を吸い込んだ。

「タ……、タ……、タケちゃああああーーーーん!」

 何を言っていいか分からないまま僕は遠ざかっていく背中に祈りをぶつけた。

 全員の声援を背に受け、全速力の田村は〈絶望の卵〉の落下地点へと飛び込んでいった。空から落ちてきたそれは本当に野球のボールほどの大きさの球体で、いまや誰の目にもはっきりと捉えられた。


 間に合うか……?


 皆が息を飲んだ。

「うぅああああ!」

 大地を蹴った田村の体が水平に宙に浮いた。

 しかし、懸命に伸ばしたその左手の僅か向こうを〈絶望の卵〉は通過した。

「あっ!」

 無情にも地上に落下した球体はポーンと高く跳ね上がり、滑り込んだ田村を上から見下ろしてから、何度かバウンドをしてコロコロと砂利の上に転がった。


 間に合わなかった……。


 呆然とする僕の隣でネリが深く息を吸った。

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