雨の水曜日に、わらいながら床をみがく

フカイ

掌編(読み切り)








 あの日も、雨の日だった。


 お夕飯を食べて、俊介を寝かしつけてたら、あなたが家を出てゆく音がした。


 コンビニにでも行くのかな?、ってその時は思ったんだっけ。


 もうタバコもやめた人が、こんな時間に、二〇階のマンションのお部屋から、わざわざ出かけていくなんて。


 愚図る俊介には、「お化けなんてないさ」を歌い、絵本を二冊読んでやっと、寝かしつけて。


 リビングに戻ると、LINEが来てた。




「友だちが、事故にあったみたい。ちょっと出かけてくる。先に寝てて」




 と、あなたからメールが来てた。クマがお願いする仕草のスタンプとともに。


「大丈夫?」って返信したけど、結局その日は返事が来なくて。


 わたしはハードディスクに撮り溜めしといた海外ドラマを3本まとめて見た。ドラマ嫌いのあなたがいると見られないし、俊介が起きてたらよけい、テレビに集中することもできないから。


 一話一時間のドラマを三本も見ると、すっかり真夜中。


 おっかしいなぁ、こんなに遅くまで何してるんだろ?、って思ってもう一度LINEしてみた。


「大丈夫? 何時ごろに戻る?」


 お茶を飲みながらしばらく待ったのだけど、そのメッセージは既読になることはなかった。


 わたしは歯を磨いて俊介の寝てる部屋にいった。枕からすっかりずれたところで寝てる3歳児を、起さぬようそっと動かして、その背中からお布団に入る。そしてわたしはシュンの髪の匂いをかぎながら、ゆるゆると眠りについた。




 翌朝起きてくると、無精ひげを生やしたあなたが、ダイニングテーブルにつっぷして寝ていた。


「大丈夫? どうしたの?」


 わたしの声に驚いて、あなたはのっそりと起き出す。わたしに手を引かれた俊介におはようの挨拶をしてから、あなたは眠そうに言った。「事故でね。でも大したことじゃなかった。命に別状はないって。」


「交通事故?」


「うん」


「手術とかだったの?」


「それはもう、終わってたよ」


 精気のない目から、夕べが徹夜か、それに近い状態だったことが察せられた。


 わたしは俊介をソファーに座らせて、牛乳を温めながら、あなたに「何か飲む?」と聞いた。


 あなたは濃いコーヒーを、と答えて。


「会社、今日いくの?」


「ん? なんで?」


「だって寝てないんでしょ?」


「大丈夫だよ」


 小さくククっと笑って、あなたはシャワーを浴びに部屋を出て行った。歩きざまに、俊介の頭を一度、撫でながら。








 あなたを送り出し、俊介を保育園に連れて行くと、わたしも仕事にでた。


 会社に向かう電車の中で、天啓のように、それはひらめいた。


 そうか、女か。


 わたしも鈍いな。どうして気づかなかったんだろ?


 きっと女と何かあったに違いない。じゃなきゃ、あんな夜中にでかけて、朝まで戻らないことがあろうか?


 友だちの事故といっても、親族でもあるまいし、真夜中に病室まで出かけていくような深い関係の友人などいないじゃないの。


 けど、それに気づいても、自分がちっとも心配してないことに、また気づく。


 ウワキなのに。フリンなのに。どうしてだろ?


 そう思った瞬間、ちいともそういうのじゃないことに思いいたった。


 浮気とか不倫とか。そういう気の効いたことがあなたにできるわけない。本当に事故だったのかもしれないし、なにか別のトラブルかもしれない。でも、もし仮にあなたが本気で恋をしたなら、そんなのとっくにわたしにばれてる。たぶん、恋心をいだいて、その思いの丈を相手に打ち明ける前にきっと、わたしが気づくからだ。


 だって、あなたはそういう男だもの。会社では大人のフリをして、課長さんだかなんだかやってるらしいけど。わたしに言わせれば、そんなのはちゃんちゃらおかしい。あなたはいつまでもちっぽけな少年。うそがつけない、純真な、身体の大きな少年だから。


 地下鉄のドアが開いて、人の波が押し寄せてくると、わたしの思考は中断される。






 水曜日。


 お仕事はおやすみ。


 やっぱり今日も雨降り。


 二〇階のこのお部屋。あとローンは二六年残っている。笑っちゃうな。二六年だって。ふたりして、ドキドキしながらローン申込書に判子押したのに、いまではそれも単なる日常。


 窓を開けるとバルコニーがあって、その向うは雨に煙るレインボーブリッヂ。そして東京湾。お台場のビルが、グレイのかすみの中に溶けかかってるのが見える。


 フローリングの床を、モップで拭きながら、わたしはまた、あなたのことを思う。


 結局、なにひとつ訊かなかった。


 あなたもあの夜のことについては、何も言わなかった。


 だから、きっと女なのだろうと、わたしは確信した。確信したけど、それと同じぐらいの堅さで、あなたがウワキやフリンなんかに手を出してないことも確信している。






 どんな女なんだろう?


 あなたをあの雨の降る夜に慌てて走らせた女は。


 でも、あなたは帰ってきた。地図も持たない鮭が、自分の生まれた川に戻るように。コンパスも持たない鶴が、エベレストを越えるように。さも当然に、ここへ帰ってきた。


 なぜならあなたには、ここしか帰る場所がないから。あなたにとって、わたしと俊介しか、戻るところはないのだから。


 あなたは心の底で、ずっと青春を引きずっているように見えるときがある。いつまでも若々しくいたがっているように思えるときがある。


 けれど、わたしたち、いつまでも少年や少女のままではいられないのよ。


 世間知らずで向こう見ずな若者からは、どんどん遠ざかっているの。俊介が日々、大きくなっていくのと同じスピードで、わたし達も老いてゆく。


 あの、結婚したての時の情熱やエネルギーはいつしか消えちゃった。だけど、そのカラフルなギフトがなくなっても、わたし達にはずっしりと重い何かが日々、積み重なってく。こうして毎日、ささやかな暮らしの中で積み重ねられてく、大事なものが。


 あなたもそれをわかってるから、あの日、あの朝、ここへ帰ってきたのね。


 あのまま消えてしまわなかったのね。






 わたしもそう。


 ハグの時間が短くなり、キスがおざなりになり、セックスの回数が減っても。


 あなたのことを求める気持ちは少し減ったかもしれない。あなたが求めても、わたしが身体を開けない時も増えた。


 だけど、そんな行き違いよりも大事なものが、わたしのなかに育ってきた。


 それは、たぶん、あなたのことを誰より愛しているというシンプルな感情。


 そしてあなたも同じように、わたしを愛しているということ。


 それがこの世でいちばん大事なこと。






 見て。


 窓の外は、一面のグレイ。


 雨に煙る東京湾の風景。けれど、わたしたちはあの低く垂れ込めた灰色の雲の向うに、抜けるように透きとおったブルーの空があることを、信じて疑わない。例え雨が降っても。嵐が来ても。


 だからわたしは、笑っていよう。


 棚から竹内まりやのCDを出して、プレイヤーにかける。


 モップを持つ手に力を込めて、わたしは雨の水曜日、わらいながら廊下をみがく。


 あきらめたくない。


 つまらない不安に負けそうになる、自分に。


 ばかげた空想に足を止めそうになる自分に。


 だから、ずっとそばにいてね。


 わたしがいちばんそばにいるからね。




 ―――竹内まりやのやさしい歌声が聞こえる。










 誰もがみんなちょっとずつ


 年をとってゆくから


 何でもない一日が 実はすごく大切さ




 今日が


 誕生日じゃなくっても


 記念日じゃなくっても


 給料日じゃなくってもね




 そう


 毎日がスペシャル


 毎日がスペシャル


 Special day for everyone


 毎日がスペシャル


 毎日がスペシャル



 Everyday is a special day!










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