第9話 こたつ
あぁそうかと、居間に足を踏み入れて改めて思う。
ドアを挟んで空気が変わる。雪でも降りそうな冷えた空気は消えさえって、汗ばむくらいの室温になる。部屋の真ん中に陣取ったこたつ、部屋の隅には反射式の石油ストーブ、ストーブの前には猫が三匹。こたつの上にはみかんの小山。ストーブの上には音を立てる大きなやかん。絵に描いたような家庭の一幕。
これが日本という国のありきたりな冬のシーンだと思い出す。
「お帰り」
義父はこたつに足を突っ込んだまま、老眼鏡をずらしながら徹を見上げる。
「ただいま」
徹は慣れた様子で上着を脱ぐ。当たり前のようにその辺に置き、台所へと向かおうとした。
「邪魔。こたつにでも入ってなさい」
声は台所からだった。徹はやれやれと頭をかいて諦めたようにこたつへ向かう。
「まどかさん、良く来たね」
「お世話になります」
「ほのかちゃんも」
姿勢を正して会釈する。娘は耳元で何かを私に訴えた。
「ほのか、かして」
徹がこたつから手を伸ばす。私のコートの襟を掴んだ小さな手を離させる。小さな手は慣れた父親の胸に納まり、しがみつくようにセーターの端を掴み直した。
「ほのちゃん、こたつだよー」
こたつの布団を深めに引いて、娘の腰までかけてやる。大好きな父親の手で膝の上に座り直した娘は、正面の自分の祖父を伺っている。
「小さい子には危ないと思ったけど」
「従兄弟をね、こうして入れてるのよく見たんだよね」
おじいちゃんだよー。
徹は娘の小さな手を取る。義父は雑誌を置いて対面から娘を覗き込む。前に来たときを覚えてなどいないだろうが、娘は人見知りも発動しないまま不思議そうに見返していた。
「まどかさん、手伝って!」
徹の視線が飛んでくる。私は軽く頷いて見せた。
「はい、ただ今」
コートと着替えと娘の荷物を徹のコートの傍に置く。長袖をまくりながら、慣れない台所へと入っていく。
「どう、二人でやれているの」
義母は大きな急須へやかんのお湯を注いでいた。
テーブルの上にはお盆と茶菓子と人数分の湯飲みが伏せて置かれている。持って行けば良いのだろうか。
「徹は在宅が多いですし、私もまだ休暇中ですから」
盆に手をかけ、持ち上げようと。
「あら、辞めたんじゃないの」
「え?」
義母は急須を持って居間へと向かう。私は止まった手を慌てて動かす。盆を手に取り後に続く。当たり前だと言わんばかりに、義母はこたつで待っていた。
盆を置く。湯飲みを返す。急かすように急須を傾け茶を注ぐ。少し入れ、他の湯飲みへ。また少し入れ、他の湯飲みへ。
入らないの。徹は目でそう気遣ってはくれるけど。
「地下都市(あちら)と違って寒いでしょう、こたつで温まって頂戴」
言われるまで入れる気がしなかった。
「失礼します」
お茶が置かれる。どうぞとばかりみかんが置かれ。いただきます、と手に取った。
「地下都市(あちら)は暖かいんですってね。こたつを見たことのない人も多いってテレビで言っていたわ。本当なの」
「冬は低めに設定されてるけど、外ほどじゃないね」
義母の問いに徹は当たり前のように返す。義父はちらりちらりと私へと視線を投げつつ、手元のみかんを剥き始めている。私は義母へ曖昧な笑みを見せて応える。
「寒さを知らなくて大丈夫なの?」
「知らないっていったって、外へ散歩には良く行くし」
「日の光を浴びなさすぎて病気になる人もいるって聞いたわ」
「実際病気になんてなってないし」
「なるかもしれないでしょ?」
徹はみかんに手を伸ばす。溜息を誤魔化すように皮を剥き、早速一房口の中へと放り込む。欲しいとあぶあぶ訴えた娘の頭を撫でる。今度は丁寧に内皮を剥き、娘の口元へと持って行く。
甘いみかんは娘の好物だったから。
「あんた、器用ね」
「毎日やってるからね」
「あんたがやってるの?」
義母の視線に私は気付かないふりをする。みかんを剥く。筋を取る。一房つまむ。水気が舌の上に広がる。どうにも味を感じない。
「帰ってらっしゃいよ。正月だけと言わず」
「仕事。通えないし」
「あんたもともと、こっちで仕事してたじゃない」
「俺じゃないよ」
徹は結婚する前、ほんの一年半程前まではこの実家で暮らしていた。職場へ通うとなると少しばかり距離があるが、大半を在宅ですませていたからそれで問題なかったらしい。
通えないのは私の方で、地下暮らしは元々私の生活だった。
義母の視線が飛んでくる。刺さるようにも感じるほど。
――義母が面白く思っていないことくらい、知っている。
「だってまどかさん仕事辞めるんでしょ。小さい子を置いて何年も出歩けなんてしないわよね」
「だから……」
「ほのかちゃんを、そんな自然じゃない環境で不健康な子に育てるなら、こっちで山で遊ばせてのびのび健康に育てればいいのよ」
「母さん……」
義母の声は止まらない。徹の言葉も届かない。
「自然もいっぱいだし、野菜も美味しいのよ。夏は暑くて、汗も当たり前に沢山かくから熱中症になるようなこともないわ。ほら去年の夏、ニュースでやっていたでしょう? 地下都市の子供達が旅行先で集団熱中症になったって。怖いわよねぇ。月だって、食中毒だっけ? 怖いところじゃないの。わざわざそんなところに旦那と子供置いて行くなんて」
「母さん、いい加減に」
「いい加減はどっち」
「辞めません」
私は歯を食いしばる。義母を正面から見かえした。
月の事だけは、言われたくない。
「私は仕事を辞めるつもりはありません。徹とも相談済みです」
義母の目がひるむように確かに揺れた。揺れて、けれど、険しさを増す。
私は目を逸らさない。背筋を伸ばす。
「月面でそんな事故がしょっちゅう起こっているわけじゃありません。過酷で死と隣り合わせの危険な職場であることは事実ですが、そうじゃない環境に誰かがしなければならないんです」
あぁそうだ。私は自分を思い出す。
宇宙エレベータが運用を開始した。月面基地の建設が加速した。最初は単なる憧れだった。大学に入り専門を選択する時、初めて『何を』を考えた。
みんなが訪れる事のできるそんな場所にできるように。安全で、安心で、気軽に行かれる場所になれば。――そんな場所を、作りたい、と。
「私はそんな仕事に関わりたいと思っています」
胸を張る。今はまだ経験のない一作業員候補でしかなかったけれど。必ず一人は月に行ける。そのチャンスをモノにしたいと願うだけの存在だけれど。
「ほのかちゃんを放っておくの」
義母の目が眇められる。批難するように私を見る。
けれどそれは、もう何度も。私達の間で悩み話され確認してきた。迷うような事ではない。
「留守にはします。でも放っておくつもりはありませんし、それが良かったか悪かったかは、未来のほのかが決めることです」
私は母親ではあったけど、娘の気持ちなどせいぜい想像するしかない。私にできることしかしてあげられない。何を望むか、今まだ聞く事なんてできやしない。
娘は父親にも母親以上に懐いている。徹は娘の世話を見られる。どうにもならなくなった時に、初めて実家を頼れば良い。そう、二人で決めたのだ。
「あなた、母親としての自覚ってものを……」
「私はほのかの母親です。そして、月へ行きたいと思う技術者の端くれです」
こたつを出る。徹からほのかを預かる。小さく頷いた徹も暖かく幸せなこたつを出た。
「え、どこへ」
「申し訳ありませんが、帰ります。こんな気持ちでは正月を迎えられそうにありません」
義母にとって、得体の知れない不健康の塊のような場所であっても。
「年末年始をご一緒できなくて残念です。失礼します」
地下都市の居心地の良い、自宅へ帰る。
――徹は、躊躇も見せず、私についてきてくれた。
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