第8話 氷点下
終電もなくなる時刻になれば、エレベーターホールから利用者は消える。そんな時間でなければ作業のできないメンテナンス要員が、機材を置いて作業を始めようとしていた。
四、五〇代と思しき作業員が一人。二〇代、いや、まだ成人していないかもしれない若者が一人。下の階には中年程度の男性と外国人らしき人がいて、上の階にも同じようにいるのだろう。
私はホールを横切り上階へ続く階段へと足を掛ける。軽く息を弾ませながら、ランニングで地上を目指す。引っ張り出してきたランニングウェアはまだ少しばかりキツかったけれど、少なくとも、キツくない状態にまでは戻しておかなければならない。
息を弾ませ階段をのぼる。程なく上階にたどり着く。ホールを横切る。作業員と目が合えば、軽く互いに会釈した。そしてまた、次の階へとステップを踏む。
フロアを出ると照明は極端に減る。階段についた淡いライトを目に映し一歩一歩上っていく。やがて、自分の足音と息と環境音である空調ノイズのその合間に遠くから、機械音やら話し声やら、彼らの仕事が響いてきた。
そっちだ、あっちだ、馬鹿言うな、これを、気が利かねーな、はい、すみません。おぉい、いいぞ、まてまてこっちが。準備OK。そちらは、どーぞー?
怒られているのは若者だろうか。怒っているのは親方だろうか。シャフトの上下で声を掛け合い、時には無線機へと声をかける。
次のホールへ踏み入れる。彼らの視線は私を認め、背景を見るようかに素通りしていく。
『メンテナンス中に付き、二号機、三号機は使用出来ません』彼らの脇のサイネージはお知らせの代わりにそんな文字を映していた。
そういえばいつもどこか工事をしている。再びステップへ足をかける。息を弾ませ、ぼんやり思う。
サイネージは地下都市の『おしらせ』を表示するものだった。昼間であれば、娘を抱きつつエレベーターを待っている間、何気なく眺めていることが多かった。生活に関わるものであれば個別の通知がされるから、ただぼんやりとその意味を熟考せずに、変化するものを追うだけの暇つぶしの延長で。
程なく地上階へと到達する。メンテナンスの要員と目が合い互いに会釈する。軽く息を整えようと足を止め、一角に表示された工事作業スケジュールへと目を留めた。
燻蒸スケジュール、数々のメンテナンス情報。エレベーター、空調設備、上下水道、浄水設備、変電設備、光伝設備、エトセトラエトセトラ。毎月毎週、作業は尽きることがない。
――それが、環境を保持すると言うこと。
「違うだろ! 手順確認しとけ!」
「でも、マニュアルには」
「でもじゃねぇ!」
緩く首を巡らせる。壮年の男性がまだ若い女性へと唾を飛ばして指示を出す。女性は不満そうな顔をしながら、男性の指示に従っている。男性はそして、無線機へと手を伸ばす。
私は手足を軽く伸ばす。そして。
月が見下ろす地上へと、ホールの扉を押し開けた。
特別冷え込む地域ではなくとも、放射冷却の厳しい日なら氷点下になることもある。
吸い込んだ空気が冷たい。ゆっくりとランニングの呼吸で吐き出せば、辺りを白く染めて程なく消える。それをゆっくり眺めることなく、自分のペースで足を運ぶ。
選考へ応募するか、まだ心は決まっていなかった。心は決まっていなかったが、一方へと決めたときのために、元の体力は必要だった。
選考に男女の区別は設けられてはいなかった。技術、体力、性格、能力。あらゆる面が考慮され、最適と判断されたただ一人がその中から選ばれる。選ばれそして月へ行き、実地の最期の訓練がそこで初めて始まるのだ。
街灯は足元ばかりを照らしている。人気もなく、遠くに隣接都市の街灯りが見えている。月は白々と照らすには足りない光を投げている。
私は目標としている自然公園の入り口で折り返し、地下都市入り口へと復路を一人辿り始める。
「手際が悪い!」
「すみません!」
扉を開けると怒声が飛んだ。女性は泣きそうになりながら、それでも機材を持ち上げている。男性は唾を飛ばして指さして、女性にあれやこれやと指示を出す。
ニュースではVRによる職業訓練も普及してきたと言っていても。試してみて叱られてそうして『モノ』になっていく構図は結局変わりはしないのだろう。それが経験というものなのだ。
下りの階段へ足をかける。一歩、一歩。踏み間違えたりしないように、段を見ながら。
一歩。一歩。
そして。ふと、思ったのだ。
――日本月面開発機構に、いや、日本に。
『親方』はいないのだ。
自宅階に帰りつく。自宅へと足を向ける。
背を向けたホールでは、メンテナンスの作業が続く。
明日から浄化槽の点検作業があるという。通風口の定期メンテナンスは六三号機が対象となる。
現場では、ベテランから新人まで、色々な年代が入り交じっているのだろう。若者は実地で学び取ることで、一人前へと成長していく。古株はかつて学び取った見識を若者へと譲り渡して行くのだろう。
チャイムを鳴らす。扉が開く。
「お帰り。どしたの?」
徹が僅かに首を傾げる。
私は。
「なんでもない」
笑顔をようやく、つくって見せる。
「そうそう、上は寒かったよ。良い天気で月も綺麗だったけど」
軽口を言いつつ、風呂場へ向かい。
熱いシャワーを全身に浴びる。
氷点下にまで冷え切ったようなこの気持ちを、忘れてしまえればいいと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます