第7話 くすりゆび

 学歴、四年制大学卒以上。二五歳まで。日常英会話必須。

 社の募集欄にはそんな文字が並んでいた。この後に、職種、給与、諸手当、勤務形態などが続いている。

 作業員候補はまず、研修を二年行う。社の研修があり、月面基地の運営本部であるアメリカでの研修がある。帰国して技術的な研修を更に重ねる。全て終えて初めて候補として社の中で名を連ねる。現役合格、ストレート卒業で、速やかに進んだとしても、この時点で飛び級などしていなければ二十四という歳になる。

 作業員の募集は運営側からの募集になる。期に一人。任期は通常二年以上。多額の資金でもって参画する日本への割りあては、毎期かならずあることになっている、らしい。

 その制限が三〇歳。

 日本には技術的な蓄積が乏しく、それ故、若者を育てるためと聞いていた。NISS(New International Space Station)の経験者や、月基地作業員経験者は、帰還後、後進の育成に、技術顧問として、様々に活躍してはいるものの、月面基地へと返り咲いた者は誰一人としていないのが現状だ。

 日本には未だ主管する宇宙ステーションも月基地もない。軌道エレベータへも建設や事業への参画はあるものの、地理的にも近いとは言えず、資金と技術を供与するに留まっている。宇宙へ行くなら旅行者として赴くか、軌道エレベータ関連の職員となるか、NISSを目指すしかない。

「NISS、か」

 NISSへの道は月面基地より更に険しい。JAXAの試験をパスし、研修をこなすだけでは足りない。

 軌道エレベータが実用化し、月面基地が運用されている今、ISSは無重力を利用する実験設備の代名詞ともなっていた。設備的な専門家を除けば、各分野のスペシャリストばかりが集っている。学士程度の月面作業員候補が入れるような場所ではない。

 ならば、エレベータの職員か。

 しかし、エレベータ職員は技術力、語学力、その他、高スキルを要求され、何よりも世界中の若者の憧れの職種ともなっていた。

 技術力が全くないわけでは、ないけれど。

 娘をぽんぽんと叩き続ける。さすがに夜更けの散歩は疲れただろう。ようやく呼吸は寝息に代わり始める。

 NISSにしろ、エレベータ職員にしろ。本気で目指すつもりがあるのなら、もっともっと学んで磨かなければならない。

 夫と娘を置いて。

 月面の作業員に選ばれたとしても、同じではあったけれど。


 ――私は、そうまでして月へ、宇宙へ、行きたいのだろうか。


 *


 ようやくと居間へ戻ると徹は迎え酒を傾けていた。酔いに潤んだ目が私をみ上げて、更に潤んだ。

「まどかも」

 もう一つグラスがあった。アイスペールから氷を入れると、ブランデーを注いでくる。構わないかと、受け取った。

「飲み過ぎないでよ」

「これで終わりにするから」

 グラスを掲げて待ちに入る。はいはいとグラスを合わせた。

「乾杯」

「何に?」

 一口含む。甘さがとろりと口の中へ広がって、アルコールが鼻を抜けていく。

 グラスを掲げたまま視線を彷徨わせた徹は。

「日常に」

 言ってようやく口を付けた。

「日常ってなによ」

「毎日だよ。まどかがいる。ほのかがいる。毎日さ」

 こくりこくりと徹の喉が動いている。

 ひとくち、ひとくち、私は含む。

 含み飲み干すそのたびに、アルコールが熱に変わる。

 時計の音が響いている。氷が軽やかな音を立てる。

「まどかは」

 静寂を破ったのは徹だった。

 グラスを揺らし氷の音を響かせながら、目はそれを見つめながら。ぽつりぽつりと言葉を続ける。

「後悔してない?」

 何を? 言おうとして、呑み込んだ。

 徹の目はグラスを見つめ続けている。

 私はテーブルを回り込んだ。徹の正面に陣取ってグラスを置き。徹の両手、グラスを持つ手にそっと添えた。

 律儀な徹のくすりゆびでは、契約の証がこんな瞬間にも柔らかい光を反射している。

「選んだのは私」

 徹とは学生時代からの付き合いだった。私が月に憧れていることを知っていて、応援したいとも言ってくれた。卒業して、私が研修ななんだと飛び回る間も関係は続いた。月へ行って、帰ってきて、落ち着いたら、なんて会話をそこの頃はよく交わしていた。

 そして、九十九パーセントの『安全』は一〇〇パーセントではなかったのだ。

「馬鹿だって言われても、無理だって言われても、私は選んだ。徹は頷いてくれた。そうでしょう?」

 最もありふれて世の中にどこにも溢れていて、けれど当人達にとっては時には何よりも重要で。紙切れ一枚で、指輪の二つで、それだけで交わされてしまう契約の形態を。

 私達は決めたのだ。

 徹の目を見る。私よりずっとロマンチストで繊細な徹の目はアルコールで潤んでいる。潤み続ける。

「時間もチャンスも限られているのは確かだけど、後悔だけはしてない」

 だから。

「もし、叶ったら」

 もしも、作業員に選ばれたなら――。

「おれはまどかの邪魔はしない。ほのかの面倒はおれが見るし、二年間、可愛いほのかを見続けてまどかを悔しがらせてやるって思ってるし!」

 私の手を振り切って、徹はすっかり薄まったブランデーを一息で呷った。帰ってきたときよりよっぽど不確かにになった足元のまま、寝室の方へと歩き始める。

「もう、寝る!」

 扉が閉まる。思わず止めていた息が漏れ、思わず口元が緩んでいく。

「あぁもう、片付けないと」

 アイスペールとグラス二つとをキッチンへ運び、シンクへと置き、水を流し。

 ほんのりほてった手の先を水流に曝しながら。

 ――くすりゆびの契約は、間違っていなかったと思うのだ。

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