第6話 夜更け

 スマートフォンの基本フォントで綴られた文章が、懸命に謝っていた。絵文字も顔文字もなく簡潔かつ簡単に。

『ごめん、終電』

 公共交通機関で帰ってこられるなら良しとしよう。つい溜息を吐きつつメッセージを打ち込んでいく。

『乗り間違えたりしないでよ』

 送信ボタンを押そうとして。

 娘がぐずって声を上げた。

『駅まで行く』

 一言を付け足した。


 *


 夜更けの地下街は光ファイバーの光もなくなり補助照明も抑えられた薄暗い中にあった。住宅街フロアのこのあたりは、人気もなく静かだった。エレベータホールに行けば帰宅する人もあるだろう。繁華街のフロアならば、少しばかり賑やかなのかもしれないが。

 ぐずっていた娘は、おんぶ紐にくるまれて私の背中に固定され、今は少しばかりはしゃいでいる。きゃっきゃっと声がフロアに響き、少しばかり肩をすくめる。各家の防音は信じられるけれど。家でぐずっていたのは眠いからと言うよりも、強引に寝かせられようとしていたからだ。夕方の熟睡は正直失敗だったと思わなくもない。

「もー引っ張らないの」

 掴むことを覚え始めた小さな手は、こんな時ちょっとばっかり悪戯する。短いとは言えない私の髪は恰好の玩具らしく、抜けるほどに引っ張ってくる。正直、痛い。

 それでも、前で抱えるよりはずっと楽だった。

 エレベータの前を通り過ぎる。ホールの奧の陰へ回る。ホールの灯りの届かないそこには、フロアを結ぶ階段がある。階段はエレベータに沿いながらエレベータを囲うように、最下層から地上まで踊り場を挟みながら続いていた。

「さ、いこっか」

 暑いくらいに包んだ中で娘はあぅあと何かを話す。はいはい、そーだね。判らないながら頷き返し、私は最初の一段に足をかける。

 娘は今九ヶ月。体重は八キログラムともうちょっと。地上までは高低差約一〇〇メートル。段数にしておよそ四〇〇。ゆっくり登っても一〇分程度。今から登れば、徹が着くまで少しばかり時間がある。

「お父さん帰ってくるまでお月様見ようね」

 間違っても後ろに倒れたりしないように。ほんの少し前傾姿勢で。

「夜更けちゃったよ。午前様だよって」

 太ももとふくらはぎを意識して。

「呑んべだねーって」

 一歩、一歩と登っていく。

 ぶるんとポケットの中のスマートフォンが鳴動し。連携させたリストバンドに文字が浮かんだ。

『無事終電乗れました』

 娘が髪を引っ張りはしゃぐ。

 いたいいたいと話しかけつつ、次の一歩を踏みしめる。


 *


 娘は物怖じしない性格らしく、助かったと言うべきか勘弁してくれと言うべきか、私はまだ決めかねている。

 育児休暇中の職場から連絡が来たのは一週間ほど前の事で、吾川と会ったのは今日だった。休職したのは妊娠九ヶ月の時。吾川と会うのは一〇ヶ月ほどぶりだった。

「やだ、ちょっと丸くなった」

「しょうがないでしょ」

 開口一番、丸くなったと言い放った吾川は細くなったと私は感じた。元々細身ではあったのだが、あごのラインが更にシャープになっていた。

「仕事、大変? 今は訓練生募集している時期だったっけ」

「それはまぁ、毎年のことだけどね」

 うっかり娘の頬をつついたら、早速細くされていた。小さな手に指を握られ、吾川は頬を綻ばす。

「お父さん似かな。可愛いわ」

「ありがとう、と言っておく」

 目を合わせれば二人同時にクスリと笑う。一〇ヶ月。子供でも産まない限り何が変わるわけでもなかった。

「で、わざわざ来た理由は?」

 吾川に物怖じすることなくはしゃぐ娘を抱え上げる。吾川は娘をじっと見て。一度視線を落とした後に、私を覗き込むようにして、真剣な顔になった。 

「二ヶ月後、選考があるの」

「え?」

 娘が前髪を掴んでくる。少し横にずらしながら、瞬きしながら吾川を見返す。

 吾川はいたって真面目に冗談を言うでもなく。しっかりと漏らさぬように。同じ言葉を繰り返した。

「二ヶ月後」


 *


 考えさせてくれ、そう答えるしか出来なかった。吾川は待ってると呟いた。

 一つフロアを昇りきると上階のエレベータホールの脇に出る。そこだけ明るいホールを突っ切り、私は再び段へと足を一歩かける。

 前回の交代船で月基地へと向かった日本人作業員は、現地でアレルギーを発症したと吾川は告げた。過敏性肺炎だと、月基地の医療担当員は言ったらしい。今すぐの交代は不要でも、長く勤めることは難しいと、基地では判断されたという。報道はもちろん、されなかったが。

 ――次が最後かも知れない。

 吾川は静かにそう告げる。

 私は二八になる。復帰する頃にはもう一つ数字を加えている。作業員候補として入社して、研修を繰り返した。『若手に限る』三〇歳以下限定。募集の要項は案外厳しい。たった一人、一年以上勤務したなら、私はそれで月への切符を失うのだ。

 ――不運続きではあるけれど、その分チャンスが巡ってきた。

 二つ目のフロアを過ぎる。訓練がてら良く登った階段だったが、今はたったこれだけで息が上がり始めている。

 あと二ヶ月。――そこで狙うつもりがあるなら、体力は戻しておかなければならなかった。

「ほのちゃん。どうしたら良いと思う?」

 答えるように、いや、偶然に。娘は思いきり髪を引く。いたたと声を上げながら、私は段を一つ踏む。


 *


 すっかり夜の更けた地上はキンとすっかり空気は冷えていた。暗がりでもすっかり上がった私の息は白く凝って見えいた。

 エレベータホールから少し歩いて空を見上げれば、地上の星が減った代わりに戻ってきたぞとばかりに数多の星がきらめいている。

 昼間と夜を半分見せた月も、また。

「まどか」

「徹。お帰り」

 赤い顔した徹は白い息を吐き続ける。アルコールの匂いがするのはご愛敬だ。

「寒いだろ」

「階段できたから。ほのかが寒そうじゃなければ」

 コートを脱ごうとする徹へ首を振る。

 誰かが風邪を引くよりは、寒くない場所へ帰った方が賢いというものだ。

「帰りましょうか」

 最後に一度月を見る。遠くて、遠くて、けれど。

 視線を落とし、踵を返す。徹が後ろを着いてくる。

「なんかあった?」

「なんかってほどじゃないよ」

 ホールの中は、地下のほの温かさに包まれていて。

 終電組がちらりほらりとエレベータを待っていた。

「同僚がこの近くまで来てくれたの」

「それで」

「選考があるって。最後かも知れないでしょって」

 ポンと軽い音がして、エレベータのドアが開く。こんな時間、降りる人など居はしない。数人一緒に乗り込むと。徹は小声で呟いた。

「なんで最後なの」

 私の頭を乱暴に撫でる。がしがしと娘を撫でている気配がする。

「だって」

 応募要項が――。

 言おうとした私を待たず、徹は酔いに任せた怒り口調で先を続ける。

「三〇歳までっておかしいんじゃないかって思ってたんだよね」

 エレベーターが自宅フロアの到着を告げる。

 降りたのは私達、三人だけだった。だから。

「ほのかは計算外で、だけど、産んでくれてよかったと思う。けど」

「声、大きいよ」

「三〇なんて年齢で可能性を狭めるのはおかしい!」

 ホールに声が響き渡る。徹は目を見張って頭をかく。娘は背中でびくりと震え、泣かぬようにと私はあやす。

 そうして。

「帰ろうか」

 ごめんなー、ほのかー。

 娘の機嫌を取りながら、我が家への道を辿り始める。

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