第5話 雨上がり
間に合わせのビニールシートでも初めて見る雨に娘はキャッキャと興奮している。大きめの傘でも足元までは覆いきれない。靴選択を失敗したなと思わなくもないけれど。
「上がると思ったんだけどなぁ」
徹はベビーカーを押しながら傘を傾け空を見上げる。空を灰色に覆う雲はそれでもところどころに切れ目を見せる。切れ目からは光りが差し込む。天使の梯子。雲の上へと向かうための祝福された道と言われれば、わからなくもない。
「こういうのも良いと思う」
バスから降りて歩き始めた海岸へと続く道の、広く整備された歩道に人影は見られない。季節が季節なら天気が天気なら、海水浴にサーファーに観光客に犬の散歩に生活に、ひっきりなしに人が行き交う道なのだろう。そこを今は三人きりでのんびり歩く。
「まぁ、雨なんて久しぶりだしなぁ」
徹は大きく傘を振る。雫がベビーカーを覆うシートにぼたぼた落ちる。薄ら曇ったシートの下で娘が動く気配がする。
「専用カバー、買っておけば良かった」
少し止めてビニールシートを持ち上げる。生暖かい空気が流れ、娘の小さな手が動く。間に合わせのビニールシートは少しばかり息苦しそうだ。
「つっても使うと思わなかったしなぁ」
「私も」
信号を待ち、横断歩道をのんびり渡る。バス停からまっすぐ続いた道はこの交差点でTの字を描く。道は左右に伸びていき、目の前にはコンクリートの護岸が迫る。護岸の先は、海だった。
コンクリートの階段を上る。私は思わず深呼吸を繰り返す。
徹は娘を抱き上げた。娘は指をしゃぶりながら、知らない景色に見入っている。
かろうじて天然だという砂浜に、押し寄せる波は少し荒い。散策するような人影はないが、波の上にはサーファーらしき姿があった。
「寒そう」
「ドライスーツなんじゃないかな」
あっちに言ってみたい店があるんだ。徹はのんびり歩き出す。
散歩の歩調に、ベビーカーを畳んで追いつく。
「どれくらい?」
「少し歩くかなぁ」
並んで歩くのは、嫌いじゃない。
*
徹の目指した店は、賑やかな通りを抜けた先、こじんまりとした一角にあった。
キッシュやサラダ、スープなど新鮮野菜を中心としたフランス風の田舎料理が並んでいく。
「離乳食、持ち込みになっちゃうんですけど」
「構いませんよ」
バイトではなく雇う側だろう。エプロンを着けた年かさの女性は日焼けが抜けきらない顔をほころばせ、迷う事なく子供用の椅子やらスプーンやらを出してくれる。他に客がいないのも、店にとっては困ったことでも、私にとってはありがたかった。
「美味しいって聞いたんだよね」
「美味しそうね」
「美味しいよ。期待通り」
徹がキッシュをかじる間、娘の口へと味付けた粥を流し込む。うむうむと娘は口を動かし、素直に食べてくれそうだった。
徹が代わって、今度は私がキッシュにありつく。
卵の味をまず感じた。冷め始めは猫舌の私にはありがたく。ベーコンの風味、ほうれん草の青みが広がる。
「美味しい!」
ほうれん草とベーコンのキッシュは材料がそれぞれ味を持ち。けれど上手にまとまっていて。地下都市では葉物は工場製品が多い。卵もベーコンも廉価な製品が出回ってる。こんなにしっかりした味に出会えることはそうそうなく。
虫もおらず農薬もなく調整された栄養価で、安全安心誰の口にも合う味が嫌いなわけではなかったけど。
「お口に合ったようで良かったです」
エプロン姿の女性はコップに水をなみなみと注ぐ。
少しばかり丸い顔が零れんばかりに笑んでいる。
「野菜は地元のものを使うようにしています。葉物は朝取ったものを。歯ごたえが違いますでしょう? それに水も違うんですよ。湧き水を毎朝汲みに行ってるんです」
シェフの拘りでね。
女性は氷を抜いたコップをよろしかったらと添えてくれる。娘が水を飲むのならと、を使ってくれたのだろう。
注がれた水を含んでみる。言われてみれば、カルキ臭さは感じなかった。水は舌の上で広がって柔らかく口中を満たしていく。味のなさが水の味。美味しい。
「地下住まいの方の中には殺菌してない水なんて飲めないって方も居ますけど」
そういう方はお断りしているんです――。
女性は僅かに肩をすくめる。
雨に降られて虫が這い、強すぎる日に干され時には葉を萎れさえ。そうして育てた地元の野菜を、美味しいと感じた湧き水を、誇りを持って。例え言葉にされなくとも、一口食べれば。
「美味しいです」
徹と私とかわりばんこにフォークを持つ。娘はお店自慢の水も気に入ってくれたらしい。
ごちそうさまでした。
夕方の支度に掛かるまでのんびり食事させて貰い、私と徹は箸を置く。
*
水たまりには幾本も天使の梯子が映っている。店の前の開けた場所で立ち去りがたくて脚を止める。海面はうねりを見せつつ、あちらこちらで天使の梯子を支えている。
天井がないと不安になる人も居ると聞く。けれど私は。息が出来る気がしてしまう。
娘が不意に声を上げる。
「お?」
徹が頓狂な声を出す。
なぁお。
声を出させた犯人、もといキジトラの犯猫は、半分濡れた状態で。
「あ、あー!」
徹の脚に自身の背中をこすりつけた。
娘はきゃっきゃとはしゃいで手を伸ばす。耳に切れ込みを入れた猫は娘の差し出す手を嗅いで。甘えるように擦り寄せた。
「濡れたままやるなよー!」
「良い匂いでもしてた?」
「あー、なー!」
娘の手を取る。もっと触ると主張する手を、除菌シートで丁寧に拭く。
「猫ちゃんに触ったら綺麗にしようね」
徹は途方に暮れている。拭き取れるものではないし、それでバスに乗って電車に乗ってエレベーターに乗るしかない。帰れば全部洗濯なのは同じだけど。
「あら、お客さん。もしかしてやられました?」
店の女性店員だった。エプロンのまま小皿を抱え、大きな身体を揺すっている。
「この猫、誰にでもすり寄るんですよ。濡れてても砂まみれでも」
みーこ、ほらほら。
なぁん。
みーこと呼ばれたキジトラは娘のベビーカーへついでとばかりに身体を擦り寄せ、女性の元へ向かっていく。
「お腹が空くと特にね」
魚の頭、捨てるのだろう内臓部分、葉物野菜の切れっ端、飲食店らしい猫まんまを『みーこ』は夢中で食べている。
「残り物を上げてるんですか?」
「捨てるより有意義でしょう?」
ちょっと傷んでいても猫は気にせず食べてしまう。人が嫌がる部分でも猫にとってはご馳走だ。
「でも最近、舌が肥えてきちゃてね」
女性は猫の背を撫でる。丁寧に丁寧に。口調はぞんざいでも、撫でる手はどこまでも優しい。
*
「ペットも良いよな」
車窓を夕闇が流れて行く。雨の後の夕日の色は思うよりもずっと濃い。
「飼いきる自信はないよ?」
娘は指に唾液を絡ませたまま、静かな寝息を立てている。雨を見て海を見て空を見て猫を見て。今日一日はさぞやめまぐるしかったろう。
「野良猫くらい居ても良いんだけどなぁ」
「地下じゃぁ難しいね」
徹は地方の出身だった。地下都市どころか地下街もなく、昔は日焼けが耐えなかったといつか鏡の前でぼやいていた。
「野良ってさ、結構好きなんだよね。何でも食うし、強かだし、弱いところなんて見せないし、当たり前にそこに居て、当たり前に甘えてきて。けど、ある日突然、消えるだ」
「飼い猫はもっと繊細だものね」
地下としてペットをかわいがっている知人達を思い浮かべる。餌は何が水は何が、病気で怪我でと我が子のように忙しい。いや、我が子と同じか。
娘の手を除菌シートで拭いてやる。掛布代わりのタオルの中へそっとしまう。
――次は……です。お降りの方は……。
荷物を軽く背負い直す。ベビーカーの取っ手をとる。
窓の外では太陽を追うように細い月が沈んでいく。
交代の作業員はもう月の基地に馴染んだだろうか。
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