第10話 16階
エレベーターの裏に回る。窓口に社員証をかざし、階段室の扉を開ける。静まり返った階段を一段一段上っていく。
1階、2階は商業施設。3階は受付とショールーム。4階に食堂があり、5階からがオフィスになる。5階まで一息に上がれば息は上がり始める。
『オフィス』の文字を非常口兼用の扉に見るようになると、一度踊場で足を止めた。疲れより気の重さが、次の一歩を鈍らせる。
正月まで義実家で過ごすはずだった。当日中にとって返せば数日という時間が丸々浮いた。徹は開いてないスーパーに苦り顔しつつ、娘の離乳食のバリーエーションを増やしていた。いつもより父母に構ってもらえる娘は始終ご機嫌だった。掴まり歩きも板についた。一人歩きも始まりそうで、パパかママか、最初の意味ある言葉を待っている。
その幸福で静かな正月の最中は。だから、調べごとにも最適だった。
一般的に月へ行くには、その国の宇宙関連機関にまず所属する。もしくは、アメリカ、ロシア、フランス、インド……宇宙関連機関のある国で国籍を取得する。
そこで訓練を受け、主導する国の機関での募集を待つ。月面基地であれば、NASAであり、もしくは、ロスコスモスとなる。言語を学び、何ヶ月も彼の国に滞在して訓練を受け選考を受ける。そして候補生として登録される。
日本であればこれが国内だけで完結する。――何故か。
少数精鋭であるべき基地のメンバーの中、たった一人、若く経験もない日本人がいる理由。
*
最初の一人は二年の任期を勤め上げた。宇宙ステーションにしばらくの間滞在し、地上に降りてリハビリした後、日本へ凱旋帰国した。
『日本食を食べたかったんです』
寿司を頬張り、水を飲む、そんな映像を覚えている。
*
次の一人は一年で中断した。筋力低下が止まらず、ドクターストップを宣告された。
テレビではほとんど放送されず、ひっそりとした帰国だった。
*
三人目は二年を勤め上げた。
四人目は事故で怪我を負った。命に関わるものではないが、半年の後に帰国した。
五人目・六人目は任期を勤め上げ。
七人目は、命を落とした先輩に当たる。
*
15階まで来れば軽く汗もかいている。おおよそ50メートル。地下都市の深さには及ばない。それでも体力を保持するためには適当な距離で時間だ。
15階のドアの前に立ち、16階を見上げる。最上階にあるのは代表の執務室に応接室に、会議室、そして、月面経験者達のデスク。各自専門が違うとおり、在籍する部署にもデスクはあった。同時に16階にもあるのだ。
目を閉じる。前を向く。15階のドアを引き開ける。
廊下であっても、コンクリートに囲まれた階段室とは音が違う。生活の音が聞こえ出す。
ほっと思わず息をつく。ほんの十ヶ月前まで馴染んだ職場の日々の音だ。
指定された会議室へと入っていく。休職中であったとしても、IDカードをリーダーに翳せば、無事私は通された。
時間ぴったりを信条とする吾川はやはり時間通りに現れた。
お疲れ様、お疲れ様。久しぶりの職場はどう、そうね懐かしいかしら。
身のないウォームアップの言葉を交わし、吾川が対面の椅子に落ち着く。会話が切れる。そして私は吾川を見た。
「選考、受けようと思うの」
吾川は私を見返した。少し笑んでそして頷く。
「あなたなら、そういうと思ってた」
吾川はノートパソコンを操作する。必要な手続きだとか、書類だとか。応募は既に始まっている筈だった。
「でもね」
吾川はキーを叩く手を止める。接続詞の先を待つように。
「その前に。いくつか確認させて欲しい。」
「確認?」
訝しむ色が混じっている。その手はまだ、キーの上だ。
私は頷き息を吐く。
「私は月に行きたい。月で常駐して開発する担当になりたい。月を人の住める場所にする、その礎の一人になりたい」
吾川は相槌のように頷いた。作業員候補者の想いはみな同じだ。
「最大二年」
宇宙空間や月のような低重力環境に長くいることは身体を保つ上で望ましくないとされていた。筋力の低下、骨密度の低下。地球に、1G環境に戻った後で行動できなくなる恐れがあった。それを防止するために長期宇宙滞在者の筋力トレーニングは義務でもあったが、トレーニングで補いきれない事もあった。
「もっと長く、は無理よ。国際法だもの」
「戻ってくることはいい。次は」
「次?」
吾川の目が眇められる。ノートパソコンから手が離れる。覗うように私を見返す。私の真意を。
「日本にはステーションも基地もない。ベテランの日本人作業員の所属はNASAかロスコスモス。Jaxaじゃない。民間団体でもない」
「それはあなたもよく知っているでしょう。日本には枠があるだけで主導権は彼らにある」
国際事業の一環として日本は多額の資金を出している。そして一枠を得ている……ともっぱら噂されている。
その一枠が三〇歳以下の作業員見習いだ。
「日本が宇宙事業に乗り出したときに経験者は必要になる。共同研究を進める上でのパイプにもなる。だから、」
「それは、いつ」
「え?」
何が。吾川の目は語る。眉を寄せ、首を傾げ。
「それ、とは?」
「日本の宇宙関連予算は頭打ち。民間の寄付と無重力研究の特許料がなくては立ちゆかない。」
他国と違い、日本の作業員の所属は日本のまま。日本がステーションや基地を持たない限り、『次』の保証はない。
「技術力のない若手だけが月へいく。二年が過ぎればそこで終わり」
吾川は両肘をつき口の前で手を組んだ。上目遣いで私を見据える。
私は。
背を伸ばしたまま、吾川の視線を受け止めた。
「先輩は食中毒。水に雑菌が混入していた」
「えぇ、そうね。こちらの検視でも痕跡は確認出来たと聞いたわ」
氷漬けのモノとなって帰国した先輩の身体は、日本で検屍を受けている。時間が経ちすぎてはいたものの、体内に食中毒菌が確認された、と、私は吾川に聞いたのだ。
「先輩が亡くなった後も月面基地に異常はない」
「水循環フィルタが検査され、原因が特定され、交換したとか、そんな話はあるけれどね。スケジュールに影響は出なかったとは聞いている」
消耗品について常にスペアは用意されている。次の便でなくなった予備を補充した。正常手順で。検討されていた通りに。
月面基地ではスペースコロニーと同様様々な実験が行われている。実験と実用を兼ねた植物栽培、低重力を利用した科学実験の数々、大気のない環境を利用した天体観測、そして、月で暮らすための測定、実験。
それらすべて。遅滞なく。
「先輩の代わりの人はアレルギー性の肺炎」
「事前の健康診断で呼吸器疾患は認められなかったのだけどね」
「病人を抱えていても、月面基地はスケジュール通りに業務をこなしている」
「そうね。アレルギーの比較的少ない棟でできることをやっている、とは聞いている」
月面基地には居住棟、実験棟、農業棟、倉庫など、いくつかの棟がある。倉庫は往還船のコンテナを使用したもので、一日の大半をそこで過ごしていると無責任な情報は告げた。
全て『正月』の隙間に知った。
「何が言いたいの」
吾川の首が傾げられる。
何故と、どうしてと、どうすればと、けれどと。
疑問と逆説が私の思考を支配する。
「何故若手限定なの。この先はあるの。この先に進むとしたら。私は月の歴史に立ち会いたいの」
吾川は口元を引き結んだ。視線が、逸れる。
「私達はいったい、なんなの」
私は吾川の上、天井を見上げる。
16階には、『それ』を終えた人たちがいる。
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