ゼロのスタートライン/episode89

 目を覚ますとそこは自宅のベットの上だった。下の階から僕を呼ぶ声が聞こえる。


「おはようございまーす! 黎お兄ちゃん起きてますか?」


 一瞬、なにが起きてるのかわからず当惑する。


 ——本当にあの日に戻った。


 視界は前と同じく朧げだ。慌てて枕元に置いてあったメガネに手を伸ばす。ぼやっとした視界が一気にクリアになっていくこの感触……随分久しぶりだ。

 以前と同じようにちゃっちゃと朝食を食べ、身支度をして家を出る。時刻は八時を少し過ぎたところだ。

 玄関ドアを開けるとブレザー姿の少女が僕を待っていた。咲久来だ。

 彼女の顔を見た途端、これから起こることが脳裏を過った。敵として戦い、殺し合う……そう考えるとなんと口にしたらいいのかわからなくなってしまう。


「ごめん……待った?」


 挙句出た言葉は謝罪だった。


「いつものことだから平気だよ。謝るくらいなら普段から早起きしてよね、お兄ちゃん」

「ごめんって」


 返ってきたのはいつもの皮肉。ぷくりと頰を膨らませながら、遅起きの僕を咎める。本当にここは僕が過ごしていた日常そのものだった。


「お兄ちゃんはいつもそうなんだから、しっかりしてよね。私は高一になって、お兄ちゃんはもう高二だよ? こ・う・に!」


 咲久来はそそくさと先をいく。その姿をしばし眺めてしまう。


 ——このまま平穏な時間をただ過ごせばいいのだろうか?


 この時間に戻ってきたのはそのためだ。僕が争奪戦に関わらないことで、愛梨彩を楽に死なせること。苦しませないようにすること。それが目的のはずだ。


「お兄ちゃん?」

「ああ、今いくよ」


 ひとまずはこのまま普段通り過ごそう。僕は前を歩く彼女の後を追った。

 並んで歩いてみるが、上手く話すことはできなかった。咲久来はこの時すでに魔術師だったのだと知ってしまったからだ。

 知らないところでずっと修練を積んでいた。彼女の裏を知ってしまった僕はどうしても後ろめたくなってしまう。僕が魔術師だったら咲久来が隠すこともなかったのに、と。


「本当にどうしたのお兄ちゃん? なんか今日変だよ?」

「なんでもない! なんでもないんだ! 本当!」


 かと言ってこの時間の咲久来を問い質す勇気もない。やはり魔法のことも魔女のことも知らない、特別感ゼロの人間を演じ続けるしかないんだ。

 そんな折だった。不意に黒い影が視界に入ってくる。まじまじと見なくても僕は彼女が誰か知っている。


「九条愛梨彩……」


 愛梨彩を訝しむように睨む咲久来。それも当然だったんだ。彼女は野良の魔女で、咲久来は教会の魔術師ウィザード。敵対していたのだから。

 僕はもう愛梨彩を直視することができなかった。見つめれば彼女と過ごした時間を思い出してしまう。思い出してしまったら……僕は愛梨彩を救えない。彼女に安らぎを与えられなくなる。


「学校遅れるぞ、咲久来。ほら、いこ」

「え、あ、うん」


 だから僕はあの日とは異なり、無関係な人間のフリをする。


 ——九条愛梨彩に関わらない。


 今回ばかりは咲久来の忠告を鵜呑みにする。それで愛梨彩が楽になれるのなら、自分の気持ちを押し殺しもするさ。野良の抵抗がなくなり、教会が世界を支配することになろうと構わない。僕にとって大事なのは愛梨彩なんだから。

 そうして僕は危険なことや怪しいことから遠ざかり、安穏と過ごす。長い物には巻かれて生きていく。


「素晴らしい人生だよ、それは」


 言い聞かせるように独り言ちる。普通でいいんだ、普通で。

 やがて学校に到着した。僕は咲久来と別れて教室へと赴く。危うく席を間違えそうになるが、軌道修正して教室の中央へ。そして極力窓側に目を向けないように努力した。


「オッス! 黎! 今日も仲良くカノジョと登校か?」


 突然、僕の視界がぐらぐらと揺れる。そういえばこのタイミングだったっけ……緋色がくるのは。


「カノジョじゃないって何回言わせるつもりだよ」


 呆れた口調で振り返る。すると彼は僕の肩を抱きながら、「そうだよなぁ。お前のお気に入りは九条だもんなぁー」と満面の笑みを浮かべるのだった。


「いやでもやっぱ幼馴染が大正義かも。尽くしてくれるし、面倒見いいし、そばで見守ってくれるし?」


 僕は緋色に不敵な笑みを見せる。しかし親友は特に返す言葉もなく呆然とするだけだった。


「どうしたんだよ、緋色? なんか変なものでも食べた?」

「いや、その言葉そっくりそのままお返しするわ。お前が九条の話題で動揺しないとか……マジか。お前、マジか。保健室いくか?」

「大げさだってば!! 大げさ!!」


 そんなこんなでホームルームのチャイムが鳴る。彼が「わかルイ一四世」というつまらないギャグを言えなくなるほど驚くとは……そんなに変なのだろうか? 愛梨彩に惚けていない僕は。

 ともかく今は学校で過ごすことに集中しよう。それが今の僕にできる愛梨彩への思いやりなのだから。



「黎、帰ろうぜ」


 いつものように緋色が帰りを促してくる。僕は「うん」と返し、スクールバッグを持って教室を後にする。


「明日英語で小テストだったっけか? はぁ、帰って勉強しないとかなぁ」


 階段を下りながら緋色がため息を吐き、ぼやいた。踊り場で足を止め、階段の窓から外を眺める。


「部活を勉強しない言いわけに使うなよな」

「なんでわかるんだよ!? お前こえーわ!」

「ふっ、伊達に長く一緒にいたわけじゃないからね。あとついでに言うと緋色は今日マンガに夢中になって結局勉強しないから」


 緋色を置いて階段を下りていく。

 僕が半年長く親友をやっていることを緋色は知らない。未来からきた僕がこの先起こることを知っているのも、彼は知らないのだ。


「お、そうじゃん! 今日発売日じゃん! そりゃ勉強しねーわ。黎、コンビニつき合えよ!」

「やっぱそうなるのか……」


 どうやら何度やっても彼が勉強をする未来には繋げられないらしい。僕がなにを言っても彼は勉強しない未来へと足を進めるのだ。

 緋色が階段を一気に飛び降りる。並んで歩き始めると、最近ハマっているマンガの話をし始める。

 悪い緋色、その話二回目なんだよ。全部聞いたことあるよ。自分の名前と同じ意味を持つ主人公にシンパシーを抱いていることも「やっぱマンガのヒーローはカッコいいよなあ」と惚けることも……全部覚えてる。

 彼の話を聞いているといたたまれない気持ちになってくる。緋色が争奪戦に関わったのも僕のせいかもしれないから。

 僕が争奪戦に参加せず、二人で部活に励んでいたら……あの日あのラーメン屋でフィーラを助けることもなかったろう。

 緋色には申しわけないけど、君がヒーローになる未来は奪わせてもらう。僕が黙って選択肢を奪っていたことを知ったら……緋色は怒るんだろうな。「お前は間違ってる」って。

 前の時と同じように物思いに耽っているうちに駅前のコンビニに到着した。


「んじゃ俺ちょっくら買ってくるわ」

「わかった。外で待ってる」


 緋色はすぐさまコンビニの中へと消えていく。風が通り抜けるように吹き荒ぶ。春なのに秋風を思い出させるような涼しい風だった。

 取り残された僕はおもむろにスマートフォンを取り出してしまう。教会で紛失する前の、やりこんだアプリゲームのデータが詰まったスマホだ。

 彼を待つ間にゲームのクエストは消化できないだろう。相変わらず僕はSNSを眺めてしまう。

 ずっと忘れられなかったトレンドニュース——「都内の刑務所から囚人脱獄」。これが綾芽のことだと知った今となっては「陰謀が蠢いているんだな」と冷めた目で見ることしかできなかった。

 「中二病おつ」と自嘲することもなかった。この平穏な生活が素晴らしいんだと身をもって知ったからだろう。

 二回目の世界はなにもかもが色褪せて見えた。原因はなんなのか……わかっているようで、わからないフリをする。


「おっまたせ! よし、駅いこうぜー」

「おけ」


 そうしてコンビニから出てきた緋色と駅に向かう。この後にすることは……駅前で駄弁ることか。それも乙かなと思う。このまま夜になるまで緋色とこうして喋っていればいい。酷い目に遭う前の親友と幸せな時間を噛み締めればいい。


「あ、そういえば九条のことどうなんだよ!?」


 だがそうは問屋が卸してくれないらしい。しばしの間マンガ談義に花を咲かせた後、急に緋色が話したくない話題を振ってきたのである。


 ——このマイペース鈍感野郎!


 僕が内心憤るのも無理はない。これもこれで彼の魅力だとわかっているが、今はちょっとだけ怒らせてくれ。


「もういいんだよ、愛梨彩のことは」

「愛梨彩って……お前下の名前で呼ぶほど好きなんじゃんか!」

「あ……いや」


 つい痛いところを突かれてしまう。この時間の僕は「九条さん」と呼んでいたはずなのに、「愛梨彩」と言ってしまった。

 僕はしばらく黙りこんでしまう。なぜだかわからない。緋色の指摘を否定したくない自分がいた。「愛梨彩」のことをもう「九条さん」と呼べない自分がいた。


「なんか今日の黎おかしいぜ? 冷めてるっていうかよ。なんか悩んでるのか?」

「それは……」


 言えない……言えるわけがない。この後愛梨彩が教会で死闘を繰り広げることを言ったってこの時間の緋色が信じてくれるわけがない。なにより……愛梨彩のためにも僕らは無関係でいるべきなんだ。

 不意に視界に入った駅の中の時計。もうすぐアインと愛梨彩が会敵する時間だ。


 ——ダメだ。ダメだ。無関係でいるんだ。


 騒めく自分をぐっと押し殺す。僕がここにきた意味を失わせるわけにはいかない。


「いやさ、俺も悪かったよ。いつも九条のことでからかったりしてさ」

「いや、違——」

「みなまでいうなってーの。ここから大事なことなんだから」


 緋色が僕の両肩をがっしりと掴んだ。有無を言わさない気迫。それを感じた僕は聞かなければいけないことなんだと悟った。続く彼の言葉を待つ。


「俺がからかったのは悪かった。でもそんな周囲のせいで諦めるような恋心じゃねーだろ、お前のは」

「それは……そうかもしれないけど! けど! どうしようもできないことだってあるんだ!」

「安心しろ、俺は黎の味方だ! これからは誠心誠意、お前の恋を応援してやる! もうからかったりなんてしねーし、ちゃんと場所もわきまえる。だからお前も自分の恋を諦めんな! おとこなら一度好きになった気持ちは破れるまで貫け! ってな!」


 緋色は得意げに白い歯を見せながらサムズアップをする。

 このダチはなに見当違いなことを堂々と宣っているのだろうか。正直困惑が大きかった。けど同時に……その言葉が僕の背中を間違いなく後押しした。


 —— 「おとこなら一度好きになった気持ちは破れるまで貫け! 」


 ああ、そうだ。状況とか周りのこととか関係ないんだ。愛梨彩がいくら死にたいと願っていたからって僕が諦める理由にはならないんだ。

 だってこれが僕のエゴだから。君と一緒に笑い合って過ごしたいというのが叶えたい願いなんだ。


「ありがとう、緋色。、いかなきゃ。愛梨彩を助けに」

「え? 助けって……おい!!」


 俺は一目散に駆け出し、あの戦場へと向かう。

 人間の選択って簡単には変えられないんだな。なにを言っても緋色が勉強する未来を選ばなかったように、僕もなにがあっても愛梨彩を助ける未来を選んでしまうんだ。


「好きだ! 愛梨彩のことが大好きなんだ、俺!!」


 住宅街を走り抜けながら、大声で本心を叫び吠える。

 こんな絶望のせいで自分の気持ちを諦めてたまるもんか! 俺はこの先の時間で約束したんだ! 愛梨彩のそばにいるって!


「俺は絶対!! 助けるんだ!! この先にどんな絶望が待っていようと! 絶対に!!」


 走馬灯のように溢れてくる愛梨彩と過ごしてきた想い出の数々。

 学園祭で楽しそうにしていた時のこと、ラーメンを食べて満足げな顔を見せてくれた時のこと。そして……初めて心の底からの笑顔を見せてくれた時のこと。全部はっきり俺の中に残っている。

 絶望した彼女がどんな未来を選ぶかはわからない。だけどこの記憶を全てなかったことになんかしたくなかった。

 同じ死なら目一杯、精一杯人生を楽しんだ方がいい。未来ではつらいことも絶望もあったけど、それ以上に彼女の笑顔があった。だったらここで選ぶ答えは決まっている。

 思いっきり教会の扉を開く。愛梨彩が驚いた顔をして振り返った。


「太刀川くん!? どうしてここに!?」

「君を助けにきた」

「なにを……言ってるの?」

「九条愛梨彩だな」


 会話を遮るように野太い男の声がこだまする。俺の命を狩る死神とその眷属のお出ましだ。


「教会のワーロック……! 太刀川くん! 早く立ち去りなさい!!」

「いやだ……俺は逃げない」


 愛梨彩の言うことに耳を貸さず、敢然と二人の間に立ち塞がる。今の俺に戦うすべはない。できるのはこうやって庇うことだけ。


「何者だか知らないが……邪魔者は排除するだけだ」

「待って! 今の彼は関係ない!! 彼はただの一般人!」

「ならば猶予をやろう。逃げるなら今のうちだ」


 初めて彼女と喋った時のことを鮮明に思い出す。


 ——「いい? 今すぐ立ち去りなさい。あなたは今日、この教会にこなかった。私にも会わなかった。私とは口も聞かない他人のままだった。安穏と過ごしたければこのことは一生黙って生きなさい」


 この時間の彼女が言うことはなかったけど……その言葉はずっと俺の胸に刻まれたままだ。

 これが僕の初心であり、スタートライン。「口も聞かない他人のままだった」時間軸を歩むのはごめんだ。俺は自分の好きという気持ちを貫きたい。


「そうか……それが答えか。ならば魔女共々死ね。——『合成』」


 そうだ、これでいい。アインが生み出した狼男は初めて見た時と寸分違わない。威嚇するように腹の底から呻き声を上げ、鋭い爪と牙を立てる。


「魔女狩りを開始する。やれ」

「太刀川くん!! どきなさい!!」


 言葉で返答する代わりに俺は愛梨彩を突き飛ばす。跳躍し迫る狼男。次に待つ展開はよく知っている。俺は……ここで死ぬ。

 心臓に激痛が走る。狼男が俺の心臓を的確に抉っていた。ただなぜだろう。身悶えるほどの苦痛は感じなかった。


「太刀川くん!!」

「ごめん……愛梨彩。君を……死なせてあげられなくて」

「え……? なんでそれを……」


 口を突いて出たのは彼女への謝罪だった。俺の行動のせいで君は楽に死ねなくなる。生き地獄に身を投じることになる。俺のエゴにつき合わせてしまうことになる。

 けど俺のエゴにつき合ったことを絶対後悔させないから。君はこの先人間らしさを取り戻す。そのせいでつらくなることも多いかもしれないけど……笑顔が絶えなくなるのもまた事実だ。


 ——愛梨彩が人間らしく笑えるようになる未来があるなら俺は何度だって彼女を守る。守って死ぬさ。


 意識が遠退き、ぼーっとする。この後どうなるか知っているからか一回目ほど怖くはないし、悔いもない。そんな中で俺は一つの答えにたどり着く。


「ここに俺を送った意味……やっとわかったよ」


 これは俺に初心を思い出させるための旅だった。

この決断、この気持ちだけはブレさせちゃダメだったんだ。だからスタートラインに巻き戻した。

 なにがあっても俺の想いは変わらない。そうだろう、咲久来?

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