第59話 愛しきヒト
エルフ、そう呼ばれた種族が居たのはもう百年も前の事。私の夫ゼフィロスはエルフの始祖アイリスを打ち倒し、私たちと共に穏やかな日々を過ごしてくれている。
何の不満もない暮らし。幸せとはどこまでも続き、飽きる事がない。だが、百年の歳月は彼の髪を真っ白に変えていた。インセクトの外見は年齢ではそう変わらない。彼の顔も体つきも艶やかで逞しいまま。だがその髪だけは白く変化していった。それが私の心に不安を抱かせる。
その彼は独立した娘のメロから贈られたお気に入りの揺り椅子に座り、うたた寝をしていた。
季節は初夏、そろそろ梅雨入り、そう思っていた所に雨が降り出した。
「ゼフィロス、雨が降り出した。少し肌寒くなりそうだ。こんなところで寝ていては風邪を」
「あ、うん。どうも最近眠くてね。ねえ、ヴァレリア」
「なんだ?」
「抱っこして寝てよ」
「ふふ、あなたはいくつになっても変わらぬな。さ、こっちに。ほら」
そう言って私は胸に彼を抱きかかえる。私が満たされる瞬間だ。この感覚は何度味わってもたまらない。
「…ヴァレリア、昔ね、怖い夢を見たんだ。そう、アレは北の城で初めて軍事用機甲兵と戦い、エルフにとらわれる前の日だったかな」
「どんな夢?」
「俺が負けて殺されて、みんな機甲兵にやられちゃって。最後はさ、娘たちとジュウちゃんが核兵器でこの世を終わらせる。そんな夢」
「ふふ、だが、そうはならなかった」
「うん、だからね、俺は満足。そして幸せ。…ヴァレリア、俺が寝付くまでずっと…」
「ああ、ずっと、ずっと、あなたを…」
そのまま彼は二度と目覚める事はなかった。
私たちには葬儀と言う習慣はなく、墓を設ける事もない。失われた命、その残された体は次の命を育む糧となる。だが、埋葬される前に彼に挨拶をと各コロニーから女王たちが参集してくれた。そしてその夫たちも。
私の父、勇者グランは彼の早すぎる死について一つの見解を述べた。彼は元々トゥルーブラッド。全ての種族の元となったヒトであった。それが自らの意思で私たちインセクトに同化し、その体を遺伝子レベルで変化させた。その事で体に大きな負担がかかったのだろうと。私たちインセクトは三百年は生きて当たり前。女王ともなれば五百歳を超えるのも珍しいことではない。私の母イザベラは既に二百五十の歳を重ね、クロアリの女王シルフや赤アリで今は評議会議長を務めるソフィアもほぼ同年代だ。そして私もそろそろ二百歳の声を聴く年齢になっていた。
最初に出会った時、彼は二十一歳、そこから百年ほどを共に生きた。まだまだこれから、そう思っていたが彼の髪を見るたびにこうなる予感も感じていた。
みなが彼との思い出話に興じているときも私は彼の遺体の手を握っていた。最後は私の胸の中で、苦しむ事もなく、眠るように息を引き取った。あの時の何かがゆっくり失われていく感覚。それがまだ、忘れられない。
彼の埋葬を終え、いつもの日常が戻ってくる。私は彼の座っていた揺り椅子に腰かけてただ季節の移り変わるのを眺めて過ごした。
それからひと月ほど、彼の後を追うように評議会議長、赤アリのソフィアが世を去った。彼女の亡骸は病的なほどに愛してやまなかった彼の隣、このコロニーの木の根元に埋葬された。
評議会議長の座は私が継ぎ、それなりに忙しい日々を過ごしていた。
だが、時間に余裕ができるとこうして揺り椅子に座り彼の事を思い出す。彼はエルフ討伐の戦役、あの日からひと言も始祖アイリスの名を口にしたことはない。アイリスは彼の妹、二人きりの血を分けた家族。それを私が引き裂いてしまったのだろうか、彼は私に気を使い、彼女の、アイリスの名を口にしなかったのだろうか。そんな思いが心に重くのしかかる。
「姉貴ぃ、いつまでもしけたツラしてんじゃねえよ」
「…ジュリアか」
「なんだぁ? まあだアイリスに焼きもち妬いてんのかよ」
「お前は気にならないのか? 彼は私たちを選び、エルフを、妹のアイリスを捨てた! そして亡くなるまで一言たりとも!」
「姉貴、アンタはそれだからダメなんだ。今のあんたは評議会の議長閣下だろ? あんたがボヤッとしてちゃあたしら一族、それにゼフィロスの名に傷がつく」
「うるさい! あの人は、ずっと、私たちの為に、すべてをこちらに合わせ生きていた。私たちは彼に無理を!」
「…んなことはねえよ。あいつはな、あたしと約束した。アイリスシティを攻める前の夜の事だ。ケリがついたらくだらねえ過去は忘れてあたしたちと楽しく幸せに暮らしていくってな。あいつはその約束を守っただけ。くだらねえ過去を忘れ、あたしたちと」
「あの人はそうやって自分を! 私は、」
「姉貴! あたしはあいつに過去を捨てさせた! 最初に出会ったあの日にあいつが持ってたくそマズい食いもんのように! だけどその分あたしはあいつを幸せにしてやれた! だからそれでいい! そうだろ!」
「…そうか、だから、あの人は」
「あいつは姉貴の胸に抱かれて幸せそうな顔で死んでいった。だったらそれでいいじゃねえか! あたしらはそう言う死に顔をさせてやることが出来たんだ。あいつは生き物として生まれ、育ち、あたしらと恋をして愛し合い、ガキを拵えてそいつらを立派に育て上げた! 何一つ足りてねえ事なんかねえ。立派に生きて立派に死んだ。そんなあいつの人生にケチをつける事はあたしが許さねえ!」
「…わかった。すまんな。私はずっとその事が、彼にアイリスを捨てさせたと!」
私はジュリアの胸に顔を埋めて泣いた。
「…ああ、わかってる。あいつは全てあたしたちの流儀に合わせてくれた。それだけじゃねえ、いつの間にかその体すらあたしたちと同じになっちまって。だけど姉貴、あたしらはその分あいつを幸せにしてやれた。だからそれでいいんだ。それ以上は誰にもどうにもできねえ事だ」
「うん、私たちはあの人を幸せに、あの人と一緒に幸せに生きた」
「ふふ、そう言うこった、ほら、狩に出かけるから付き合えよ」
「まだ、お前には負けぬよ」
「どうだか、さ、いこうぜ!」
翌年、ジュリアは全てをやり切った、そんな顔をして世を去っていった。ジュリアの早すぎる死因はセカンドの生まれで無理に女王になった事。お父様はそう言っていた。
そのジュリアもあの人と同じ木の根元に埋葬した。
「ヴァレリア、ずいぶんとここも寂しくなりましたわね」
「そうだな、娘のミカもメロも独立し、残っているのは後を継がせるアリサだけ。」
「ふふ、百年の歳月、あの方と共に過ごした日々は過ぎてしまえば短く感じますわ。今でもふとした時にあの方がわたくしの蜜を。いやん、恥ずかしい」
そんな事を言っていたメルフィもその翌年に世を去って彼の側に埋葬された。私だけが取り残され、寂しさに狂いそうになった。
『何やってんのよ、ヴァレリア』
「ジュウか、何の用だ」
『あんたのしけた顔見に来てやったんじゃない。何よそのツラ』
「…お前は平気なのか? 私はあの人を失ってずっと!」
『あたしはね、あの人とたっぷりと思い出を刻んだもの。始祖アイリスは高々十数年の思い出を糧に数百の年月を生きて来たのよ? あたしたちには百年の思い出が、百年の恋した記憶が残ってる。何年だってそれがあれば生きていけるわ。ま、アンタみたいな出来損ないの女王にはわからない事なんだろうけど』
「…ふ、ふふ、そうか、そう言う事か、ようやくわかった、私はずっと勘違いをしていたのだな」
『あんたは存在自体が勘違いなのよ』
「私の恋敵、その正体はアイリスでもなく、ジュリアでもなく、お前だった。もっと早くそれに気が付いていればとっとと殺していたものを」
『ふふ、冗談きついわ。アンタと違ってあたしはあの人の眷属、あたしの主はあの人だけ。体のカタチがこんなに違うのにあたしとあの人は百年の恋をして体を繋いで睦み合ったのよ。アンタなんかが恋敵? お笑い草だわ』
「――その減らず口も聞き飽きた。今日でケリをつけてやる。『メタモルフォーゼ』」
『いいわよ、上等じゃない! あんたなんかに女としても強さでも劣る所なんかないんだから!』
「その羽をむしって地虫の仲間にしてやるさ!」
『あんたのブサイクな顔を少しは見れるようにしてあげるわ!』
「うぉぉぉ! 死ね、このくそ虫が!」
『死ぬのはあんたよ! このクズ!』
思い切り暴れ、半日空中でジュウと殴り合う。いい加減疲れた頃に思わず笑みをこぼしている私が居た事に気が付いた。
ジュウと二人、あの人が埋まる木の根元に座り、百年ぶりの葉巻に火をつけた。
『あら、懐かしいわねこの香り。あんたまた吸う事にしたの?』
「いいや、今日が初めてだ。ふっ、そうだな、女は思い出があれば生きていける、か」
『そうよ、女はね、愛を食べて生きていくの。いっぱい愛を蓄えたあたしはアンタなんかよりずっと長生きして見せるわ』
「ふ、ならば勝負だな。どちらが長生きできるかの」
『いいわよ、いくらでも受けて立つわ』
あはははっと私はあの人が亡くなってから初めて声を出して笑った。
蜂族の男に伝わる古文書に一人の男の一代記がある。
『その者、長き触覚を用いて女王たちを従え蜜を吸う。古の種族と戦いついに人々を一つに導かん』
そんな言葉に始まるその古文書はカテゴリー的には実用書。蜂の男とはこうあるべしという男のバイブルでもあった。
その表題は「英雄ゼフィロスと女王蜂の蜜」
そしてその著者名は「勇者グランとハニー・ナイツ」
そう記されてあった。
~おしまい~
俺の彼女はスズメバチ @SevenSpice
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