小森君の遺書

うさぎやすぽん

小森君の遺書

小森君の遺書


「ぼくの遺書を書いてくれませんか」


 これが小森君との初めての会話で初めて言われた言葉で、当然私は「えっ?」と返した。

 少し意外だった。小森君がそんなことを言うのが。

 私は小森君と同じクラスだったけど全く話したことはなかった。ただ「暗い奴だなあ」なんて思ってたぐらい。私は私でいつも一人だけど、だからといって小森君と関わる理由はない。

そんな小森君が、わざわざ放課後にわざわざ図書館までやってきてわざわざ日本人作家「あ行」の棚の前にいた私に言った言葉がそれだったのだ。

そんな馬鹿なことがあってたまりますか。

「遺書?」

「そうです。お、お礼は、これで」

 小森君はそう言って私に向かって一万円札を五枚差し出した。いやいや。

「なにそれ、そんなの出来るわけないでしょ」

「お願いです。ぼくじゃ、遺書が書けなくて」

「意味がわからーん! 会話をしようよ、会話を」

「あの、ぼく、その、死にたいんですけど、遺書が書けなくて――」

 彼の言葉はそんなのばっかりで、勿論私が納得できるようなことは何一つとして言わない。

そんなんで「よっしゃ任せろ」って言って他人の遺書をじゃーっと書いちゃうようなそんなポテンシャルもモチベーションもバイタリティも私が持ち合わせてるわけがない。

よし、私は抵抗するぞ! と心に決めた。

「いやいや、小森君、冷静になろうよ。そんなんで遺書なんて書けるわけないでしょ」

「でも、ぼくは遠藤さんの小説が好きだから」

「小説書くからって遺書まで書けるわけないじゃん」

「でも、ぼくは遠藤さんに、遺書を書いてほしい。遠藤さんじゃなきゃ嫌なんだ」

 小森君は引かなかった。そんな行動力あるなら自殺なんてすんなよ。

「遠藤さんしか、書けないんだ。ぼくの遺書。だから、遠藤さんに書いてほしい。ぼくは、もう、遺書なんて書くほど元気がないし、それに、文才もなくて」

「そういう問題じゃないでしょ。なんで遺書!」

「自殺するんだから遺書は必要なんだ」

「なんだそれ」

 そんなこんなで図書室だから囁くような感じであーだこーだ言い合いしていたらほんとに全然キリがなくて、いつの間にか私が押されるがままになってたし、いつの間にか小森君は消えていて私の手には五万円があった。

 小森君は「五日後に死ぬから」と言っていた。

 多分、私は小森君の遺書を書くことになってしまった。


 家に帰って机の上に五万円札を置いてみたらめちゃくちゃ気味が悪く見えたからすぐ棚の中にしまった。お金を見てあんなにゾッとしたことはない。福沢諭吉の目が動くんじゃなかろうかと思った。

 そんな話忘れようと、筒井康隆の「パプリカ」を読んでみたけど全然頭に入ってこない。漫画に切り替えるかと思って宮崎夏次系の短編を読んでもなんだか目が泳いでしまう。

 なんだよ、小森のくせに、とイライラしてきた。

 小森君は、いつも教室では一人だった。

 別にいじめられていたわけではなかったと思う。ただ友達がいなくて、暗い奴、そんな感じだった。

 まあ、そんな「自殺」なんて言葉と距離が凄くあるって感じの奴ではないけれど、改めて「ぼくは自殺します」なんて言われたら、そりゃ私もびっくりしても仕方ない。

 家でなんかあったのかとか、心にすんごい闇を抱えてたのか、とか。そんなことを考えても、やっぱり納得できないのは私に遺書を書けと言ったことである。

 確かに私は高校生作家としてデビューしたかもしれない。

クラスでもちょっと話題になったりしたし、「遠藤美月は小説が書ける」ってイメージはあるかもしれないけど、遺書まで書けるとは誰も言ってない。

だいたい遺書が書ける奴ってどんな奴なんだ。私そんな暗そうに見えるか?

 ましてや、全然知らんクラスメイトの遺書なのだ。

 書けるわけないじゃん――。

 とかそんなの思ってると、なんだか自分が書いたことないものを書ける機会が出てきた気がしてきて、少し心が躍ってきた。不謹慎。

 確かに、無理難題をふっかけられた。

 でもチャレンジャーとしてはそういう無理難題なお題で作品を仕上げるのが醍醐味というか、書き甲斐があるというか。新人小説家なんだからいろんなものが書けるようになったほうがいいだろうし。もし書き上げたときにそれが良い感じの作品になって、良い感じに短編小説として認められたら嬉しいじゃないかと。

 前向きに考えれば考えるほど、意外とポジティブな面が出てくる。私凄い。

 書いたらこの五万円もバイト代として気持ちよく使えるかもしれない。だいたいこれを書いたところで小森君は死ぬとは限らないし、というか私が止めればいいのだ。

 そしたら私は五万円を貰える。小森君は死なない。シェアハッピー。

 よし、と腕まくりをして私はノートパソコンを開いた。


 次の日になっても六曜社地下店に籠っても鴨川を散歩しても一行も書けなくて、私の頭の中はすっからかんで、風が吹き抜けてたいそう気持ちいいみたいな感じになってしまった。

 そもそも小森君のことを本当に何も知らないので、本当に何も書けるわけがないのだ。

 やはり私には出来ぬのか、そう思うとなんだか悔しくなってくるし、おのれ小森め、と当初の目的とは全く違うことで小森君に向かってイライラしてくるし。

 ため息をついたら爽やかな風で吹き飛ばされた。なるほど。外で考えるのがよくない。

 家に帰って机に向かって、あの禍々しい五万円を見てちょっと心を沈めてみる。

 あえて照明は点けないし、カーテンも閉じた。無音の部屋。陰鬱な空気を漂わせるために太宰治の「ヴィヨンの妻」と「斜陽」をテーブルに置いてみる。むわむわと黒いものが浮かびあがる気がする。流石、太宰。

 そしてノートパソコンを開いた。ワードを開くとその白紙が眩しい。

 書けないと思うと、その白紙は空っぽよりも何もないような気がしてくる。そんなわけないのだけど。

 もしかして最初の一行が思い浮かばないから書けないのでは?

 そう思って、じゃあ最初の一行はどっかからパクればその後はすらすら書けるんじゃないかしらん、と私は自分を鼓舞した。


――親譲りの根暗で子供の頃から損ばかりしている


 どうだ。なんだかそれっぽくなってきただろう。坊っちゃんもまさか遺書に引用されるとは思ってまい。でもこんなユーモア、遺書に書いちゃっていいのだろうか。

 そんな感じで根暗な少年に思いを馳せていたら、そうだ、根暗な男の子の話を書けばいいのだ、と気づきがある。

 小森君が「自分のことをなんにも知らない遠藤美月は遺書が書ける」と思ったのは多分それなりの理由がある。

 それは小森君が別にそこまで小森君特別オンリーワンみたいな遺書を望んでないということなんだ。

多分、世間一般のその辺の「あー死にたいわー」みたいなことを考えている少年らと差があるような感じじゃなくて、そういう「普遍的な遺書」(いや、遺書に普遍性があるのか知らんけど)を私が書きあげることが出来ればいいんじゃないかってことなんだ。

 そう思うとがぜんやる気が湧いてくる。よし、書けるぞ、私。


――「お前は変わりものだな」と言われることが増えてきた。

――でもそれは、天才肌だとか、独創的とかそういう肯定的なことじゃない。「私変わりものなんだよね」なんて嬉しそうに言う人たちの言う「変わりもの」ではない。

――他の人が当たり前に出来ることが出来ないと気づいた。他の人が当たり前のように面白いと思うものが面白いと思えない。他の人が当たり前のように嫌うものが嫌いになれない。そんな感じだった。

――ぼくは多分、他人よりずいぶん劣っているのだろう。やっとそう気づいた。


 そんな感じで私の中にある暗い思考の持ち主のイメージと小説の書き出しのストックを引きだしてみると、案外続きが書けるものだった。

 もしかして私凄いのでは、と思いながら、そのまま続きをしたためた。

 うんうん、書けるじゃないか。私。

 そのまま、暗い人が言いそうなことを暗い感じで書いてみる。ああ、良い感じ。

 とか思っていたら、急に続きが書けなくなった。

 まあ、遺書って短くても良い気がする。あんまり長くても仕方ないじゃん、と思ってその日はすやあと寝むってしまった。

 なんとなく、浮かび上がるその文字の黒が、いつもよりも濃いような気がした。


 小森君の遺書を書き始めてから三日経った。

 学校に行っても小森君はやっぱり窓際の席で一人、欝々としながら本を読んでいる。

 朝の陽ざしを浴びても小森君は暗い。昼間の少し攻撃的な光を浴びても小森君はそんな光などなかったかのような顔をする。夕陽が小森君に影を作っても、風情も雰囲気もなんにもなくて小森君の表情は無機質だ。

 あんなこと言ってたのに平然として授業を受け、本を読んで、お弁当を食べて、また授業を受けて、一人で颯爽と教室から帰っていく。

 なに、普通に生きてるんだよ。

 自分でも小森君をずっと目で追ってしまっていたことに嫌気がさしてくる。馬鹿らしい。

 でも、私にだけ(そうなのかはわからんけど)自殺しますとかカミングアウトしといて、それでなんか普通に生活されても腹が立ってくるのは仕方ないと思うし、なんか死ぬ予兆とか、暗くてもう死にそうみたいな表情の一つぐらい見せてくれてもいいんじゃないかなって思う。

 それは私の勝手なんだろうか。よくわからん。

 そんなとき、やっぱり私は小森君を目で追っていて、それで小森君が勝手に机の上に置いていった本のタイトルなんて見て気にしてしまったのだ。

 小森君のくせに。

 でも、その文庫本の表紙は、なんとなく見覚えのあるもので、私の目が自然とそっちに吸い込まれて「ああ、あの本だ」って思いたかったのは仕方ないものだった。

「世界音痴」

 穂村弘なんて読むんだ、小森君。

 私も読んだことがあって、結構心に残っている本だ。本棚のわりとお気に入りの作家ゾーンに置いてあるし、たまにふらりとページを開きたくなるような本。

 それで、小森君の印象ががらりと変わったわけではないけれど、なんだか少し嬉しさを覚えているのが奇妙だった。

 まあ、私の本を多分読んでくれたってことは、それなりに趣味も好みも合うのかもしれない。

 でも、そんな風に思っていると、やっぱり小森君のことが気になってくる。全然興味もなかったことだし、どうでも良いと思っていたはずなのに。

 小森君って、どういう奴なんだろう。

 他にはどんな本を読むのだろう。どんな音楽を聞くのだろう。何をいつも思っているのだろう。

 気が付くと私は、背中を押されるでも手を引っ張られるでもなくて、ぶんぶんと手を振って生徒会室まで向かっていた。


「えっ、弘太の?」

 生徒会長の小森美雪さんは小森君の二つ上のお姉さんだと、いつだか誰かが言っていた。多分、小森君ではないけれど。

 ちょっと近寄りがたい雰囲気の人。無意識的に誰かと壁を作るような人なんだと思う。人望というより、能力で生徒会長になったタイプの人である。

 なんとなく小森君のお姉さんだということはわかる。目元の造りとか、表情の機微だとか、細かいところで小森君と同じような文脈で生きてきた人だと感じさせられる。

 小森君の自殺のことを知らせるのは、小森君的にはきっとNGなんだろうし、まあもし冗談だったら冗談にならないだろうからやめておいた。

「そうです。どんな奴なのかなーって。今度の校外実習の班決めとかで使える情報が」

「情報って――」

 先輩の声は、少し、無機質だった。

「弘太から直接聞けばいいのにっても、出来ないよね、アイツじゃ」

「そ、そうなんです」

「でも、どんな奴ですか? って言われても、難しいなあ」

 夕暮れ時の生徒会室には生徒会長の小森先輩と私しかいない。なぜだか夕陽がよく入り込む生徒会室の明かりはついていなくて、びよんと伸びた先輩と私の影がなんだかわざとらしく見える。

 先輩はうーんと唸ったあとに目を生徒会室の散らかったテーブルに目を落とした。

「まあ、暗い奴」

「それはそれは――」

 頬を一方で紅く染め、一方で陰を落とす先輩の表情は、別に特に変わることはなく淡々としている。ペンをくるくる回すのが、どうやら彼女の癖らしい。

「なんかね、いっつも一人でいるし、私もあんまり話さないな。中学の頃から全然行動が変わってないんだよね」

「へえー」

「ほんとに、へえーって感じ。本ばっか読んでる。あと音楽も聞いてたんじゃない。私のCDとか勝手に持ち出すし」

 散らかったテーブルの上。ボールペン。飲みかけのコーヒー。インスタントコーヒーの瓶。散らかったプリント。誰かの筆箱。

 彼女はじっとそれらを目で追う。

「アジカンとか好きだよ。あと、くるりとか」

「えっ、意外」

「そう? 私わかっちゃうんだよね。まあ、結構趣味が合うんだよ。私の教えたことは結構忠実に守ってさ。あんなんだけど、ちょっと可愛いんだよね」

 このとき、ようやく目が合った。

 小森先輩は、そう言うときだけ、ちょっとだけ笑っていた。

「先輩とは仲良いんですね」

「どうかなー。もう全然話さないんだけど。私はアイツのこと嫌いじゃないよ。アイツはどうなのか知らんけど」

「贅沢ですね、小森君」

「贅沢? 変な表現だ」

「じゃあ、今の無しでお願いします」

「流石作家、言葉選びに慎重だね」

 先輩は、にい、と笑って私を見る。

 少し近寄りがたい、無機質で、手の届かないところにいる人だと思っていた。でも、その表情を見たとき、ちゃんと私と同じように生活をしている人なんだと納得してしまった。

いいお姉さんがいるなって、小森君のくせに、と私はまた思っている。

生徒会室に入り込む陽の光も、ちょっと暖かく感じた。


「いっつも本を読んでたよ。中学の頃からイノダコーヒーに一人で行ってるんだよ、変な奴でしょ」

 私はその日のうちに、四条通のジュンク堂書店に行き、先輩に教えてもらった遠藤周作のエッセイを買って、そして柳馬場通を北上してイノダコーヒー三条店へと向かった。

「一人で本買ってコーヒー飲むのがイケてると思ってたんだろうね。あと鴨川によく行ってるって言ってたよ。何してるのかは知らないけど」

 初めて入った喫茶店でコーヒーを飲んで、なんだかよくわからないなと思いながら本を読む。

「あと鴨川とか好きだったっぽい。よく帰り道に弘太が鴨川歩いてるのを見たよ」

 そして、そのまま御池通から私は鴨川へと向かった。

 広々とした道。通り過ぎる車も爽快そうで、風も、すうっ、と悠々と吹き抜ける。

「やっぱり、変な奴だなあ。私に似てるけど」

 なんだか、非常にしっくりくるようなコースだった。

 初めて通る道も、初めて行く喫茶店も、初めて読む本も、初めてじゃないような、そんな気がするほど私にはしっくりときた。

 すれ違う人もどこかで会った人な気がする。飲んだことのあるコーヒーを飲んだ気がする。川の音も聞いたことのあるような音な気がする。

 もしかして、私と小森君って、似てるんじゃないかな。

 そう思うと、全然話したこともない小森君と、何度も話したこともあるような気がしてくるのだ。

 小森君は、どういう人だったんだろう。

 私は、小森君ともしかしたら仲良くなれるんじゃないかな。

 鴨川の流れは、やっぱりいつも通り逞しくて、私の考えていることなんか流し飛ばしてしまう気がしてくる。どうでもいいことは流されて、大事なことだけ私の中に残っていくような。

 それも、非常にしっくりとくる感覚だった。

 私は、いつの間にか同じことしか考えていない。

 小森君は、どうして死のうと思ったんだろう。


 家に帰って、書きかけの遺書に手をつけた。


――誰かが当たり前に出来ることが出来ない。みんなは頑張りが足りないとか思うだろうけど仕方ないじゃないか。

 

 なぜか、ぴたりと止まっていた筆はすらすらと進むのだ。

 小森君が、どういう人だったかなんて、やっぱりあんまりわからなかったのに。


――ぼくは、なんの価値もない人間だ。


 そんなこと、まだわからないのに。


――別に、ぼくなんかいなくても世界は当たり前のように回るだろう。

――ぼくなんか生きていても迷惑なだけで、誰のためにも得にもならないのだろう。

――そんな考えは勝手なのはわかってるんだけど、でも、ぼくは本気でそう思っているし、だいたいそんなことを考えている奴なんか生きていても仕方ないんじゃないかって思うのだ。


 これは、本当に小森君のことなんだろうか。

 私、小森君のこと、こんなに勝手に書いて、楽しいのだろうか。


――死にたい。

――そうだ。死にたいと思って何が悪い。

――こんな人生なんだ。ぼくみたいに生まれてみろ。これを読んでいるお前も死にたいと思うに違いない。

――ぼくは弱いんだ。みんなみたいに生きられないんだ。


 そうなの?

 本当に、キミはそう思ってるの?


――強い人たちがうらやましい。

――ぼくは、そんな風に生きられない。


 でも、どうしてだか筆はすらすら進んで。

 私は何が書きたいのかわからなくなって。

 いつの間にか、私が書いているのは、多分小森君の遺書でもなんでもなくなっていて。


――でも、死にたいのは、きっとぼくだけじゃないと思う。

――死にたいなんて思って、悪いわけがないのだ。


 いつの間にか、誰かのことを書いている。


 小森君と言葉を交わしてから五日後。

 小森君は放課後になるといそいそと教室から出て行った。

 よし、と思って私もその後を追う。

 廊下はいつもより騒がしく感じる。小森君の背中はやっぱりいつもと変わらない。

 小森君はやっぱり屋上に向かった。

 空を見上げれば快晴だ。自殺するには気持ちよすぎるような広々とした空に、傾いた太陽がじんわりと彩りを添えていく。

 大きな柵は飛び越えるにも一苦労するほどの立派なものだった。きっと、小森君は何も考えずに屋上に向かったんだろう。どうやって飛び降りるんだろう、って笑ってやりたい。

「ねえ、小森君」

 私がいることに気づいていないようだった小森君は、生気の無い目を見開いて、くるりとこっちを見た。

 じっ、と睨むと小森君は何も言わずに目を逸らす。

 ふわっ、と巻き上がる風が、私と小森君を隔てる三メートルの間を吹き抜け、私たちの前髪をさらりと撫でる。小森君は、一歩後ずさりをして私と距離をとる。私は、一歩近づいて、彼と距離を詰める。

 彼が何を言いたくて、何を言えなかったのか、なんとなくわかった。

 だから私は、それを聞かない。

「遺書、書けたよ」

 また、小森君は、その目を見開いてこっちを見て、そしてまた目を逸らして白い頬を私に見せる。

「ねえ、せっかく私が書いた遺書なのに、読んでくれないの?」

 はあ、と私はわざとらしくため息をついて、また彼に一歩近づいた。私と小森君の距離は二メートル。小森君は、今度は一歩も動かない。

「自分の遺書でしょ、読んで」

 そして私は、小森君に向かって、ばさっ、とクリップで閉じた紙の束を差し出した。

「えっ?」

 小森君は、そう言って、今度は視線を逸らさず私を見る。

「それ、遺書?」

「遠藤美月作、小森君の遺書。自分が書かせて読まずに死ぬのは失礼なんじゃない?」

「で、でもさ、それ――」

 うん、と私は頷いた。


「10万2987字」


「なっ――」


 なっがー。

 小森君は、ぼけっ、と口を開いてそう言った。

「口語体だからさらっと読めるよ。私の目の前で読んで」

「いっ、今から?」

「うん、今から」

 力強く差し出した私の右手。その先にある原稿を、小森君は力ない手で、雲を掴むみたいに受け取った。

「小森君のために作ったんだよ。感謝してよ」

「小森君のために」を強調した。自分に言い聞かせるように。

私は体育座りをして、じっと、小森君を睨む。嫌がらせみたいだ、とちょっと笑いたくなる。

 小森君は、やっぱり阿呆みたいに口を開いたままで、へたりと座り込んで、原稿と私を見比べるみたいにきょろきょろと目を泳がせる。

 仕方ないか。

そう思ってため息をつこうとしたら、小森君は原稿をじっと睨んで、読み始めた。

 よし。ガッツポーズはしないけど。

 そして、二人。黙ったまま時間が流れた。

 永遠にも思えるし、一瞬にも思える時間だった。

空の色はずっと同じままだと思っていたけど、気が付いたらだいたい赤くなっていて、気が付いたら赤い色はなくなってどんどん暗い青の色が一面に広がっていた。

 グラウンドにはいつの間にかナイターがついていた。そのナイターが屋上を申し訳程度に照らしている。不思議な照らされ方をした私と小森君だけの屋上は、私と小森君だけが知っていて、それでいて二人ともしっくりくるような、そんな世界を生み出している。

「えっ?」

 どれぐらい、私たちの時間と世界の時間はズレていたんだろう。

 そんな時間を終わらせるように、小森君は阿呆みたいな声を出した。

「終わってない」

 きょとん、とした顔。ちょっと笑いたくなるようなもので、ちょっと期待してた表情。それが見たかったんだよ、と言うようにして、私は精一杯悪戯っぽい表情を浮かべた。

「続く」

「いや、続くって――」

「じゃあ、続きを読むまで死ねないね」

「そんな馬鹿な話が」

「死のうとする人を止めるの、当たり前でしょ。私、善良な民だし」

「で、でも。ぼくなんか止めたって――」

「関係ないけどさ。でもさ。後味悪いじゃん。まだ書き終わらなかったし」

 にい、と私は小森君の暗い顔を吹き飛ばすように笑う。小森君は相変わらず陰鬱な顔で、顔にできた影がやったら濃く見えるし、猫背で小さく見えるし、身体全体に力が入っていない。弱弱しい。

 でも、その目はなぜだか潤んでいて、生気を帯びたわけではないけれど、ナイターの光がきらりと輝いていて。

「続き、書くよ。私が書きたいもん」

 綺麗な目をしてるなと思えた。

「なんで?」

 小森君は、多分死なない。

「私もわからんけどさ」

 理由なんてはっきりしないけど、私はそう思っている。

「まあ、私まだ死なないもん」


 私は、やっぱり何が書きたかったのかわからなくて。

「それ、小森君の遺書だった?」

 私は、やっぱり何を書いていたのかもわからなかった。

「うん、ぼくの遺書だった」

 でも、小森君の頬を伝う涙を見たとき。

「ねえ、小森君。小森君は変じゃないよ」

 なんだかとっても嬉しくて。

「わかるよ、なんとなく」

 私の頬にも涙が伝ってて。

「死にたいなんて思うの、わかるよ」

 ずっと、ずっと、抱えていたものがなんだかわかって。

「小森君のこと、私はわかるよ」

 覚えていた寂しさが、すうっ、と消えていくような気がして。

「死にたいって、私に言ってくれてありがとう」

 ようやく、救われたような気がした。

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