9. 魔雨

 ざぁぁぁ……。二月最終日の日曜日。優香はいつもより早く、降りしきる雨音で目を覚ました。最近の春を思わせていた陽気とは、がらりと変わり、冬に逆戻りしたかのような冷気が部屋に漂っている。それ以外にも……。

「何? この臭い……」

 春から夏に掛けての気温の高い日に側溝から臭ってくるような、生臭い臭いがする。

「おかしいな? 水周りはお玉さんが綺麗に掃除してくれているのに……」

 このアパートに戻って以来、家事はほとんどお玉がやってくれている。鼻が利く獣人族の彼女は臭いに敏感なのか、特に掃除は丁寧だった。鼻を押さえつつ、ダイニングリビングに向かう。

 こたつでは兄の正樹がやはり臭うのだろう、顔をしかめて朝ご飯を食べていた。窓の側ではお玉が鋭い目で雨空を見上げている。

「……これは自然の雨ではないね……」

 優香はテレビのリモコンを取った。電源スイッチを押し、ニュース番組にチャンネルを合わせる。

「本当だ!」

 テレビでは傘を差し、ヘルメットを被った若い男性アナウンサーが、局所地震の頻発する山根市、関山市の周囲で奇妙な雨が降っていることを告げていた。

「今日のこの地域は晴れの予報なんだ」

 正樹が怪訝な顔でスマホで天気予報を確認する。テレビの画面が報道ヘリコプターからの中継画面に変わる。

「何これ!?」

 上空からの映像では晴天の下、街が灰色の霧のようなものに厚く覆われていた。

「術による雲だね。誰かが、この辺りにだけ雨を降らせているんだ」

「どうして?」

「それは解らないけど、降らせているのは明玄だ」

 雨から彼の気配と水の魔力が濃く漂っているらしい。臭いはそのせいだという。お玉が鼻の上に皺を寄せたとき、彼女の懐からスマホの着信音が聞こえた。

「なんだい?」

 画面をタップし、耳に当てる。

「解った。もう移動したんだね。……そうかい、シオンが。こっちも今から、そちらに向かうよ」

 電話は法稔からだったらしい。お玉は通話を切ると雨を睨んだ。

「シオンがどうしたの!? お玉さん!」

「どうやら、この雨はシオンを見つける為に降らせているようだ」

 水の魔族の高等魔術の一つに雨を降らせ、その雨水を通して目的の相手の位置を探る術があるという。

「今、シオンが雨から生み出された怪物とキースと戦っている。法稔はエルゼとブライさん、ジゼルさんを、次の潜伏場所の家に移動させたらしい。あたしもそちらに向かうよ」

 着物の上から雨コートを羽織る。

「私も行く!」

 優香は和室に戻ると急いで着替えを始めた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 朝、まだ薄暗いうちに、シオンは法稔に起こされた。

「マズイことになった。起きろ」

「えっ!?」

 飛び起きると同時に激しい雨音が耳を打ち、なんともいえない生臭い臭いが漂ってくる。

「……姐さん?」

 法稔の横には同じように着替えを終え、普段使いのショルダーバッグを斜め掛けして、ボストンバッグを二つ脇に置いたエルゼが座っていた。

「どうしたの?」

「明玄がシオンを探し当てる為に雨を降らせ出したの」

 強い淀んだ魔力が家の周囲に漂っている。シオンも慌てて身支度する。向こうの部屋では、先に起こされたらしいジゼルとブライが家中を回って、取りあえず生活に入りそうなものを段ボール箱に詰めていた。

「どうしてボクを?」

「多分、玄さんと同じで、お前の『水の魔力』を奪おうとしているのだろう。雨から奴の強い執着心を感じる」

「どうも、玄さんがさせている気がするのよね……」

 エルゼが窓に向けた目を細めた。

 今まで、破防班の班員を魔気や魔力で捜し出す為に、自分達の力の消費も控えてきた捕縛隊がこんなことをさせるのはおかしい。

「セルジオスがいなくなった隙に、明玄の『水の魔力』への執着心を煽って、こちらを動きやすくしてくれているのかもしれないわ」

 これだけ濃い魔力が漂う中なら、術を使ってもまぎらわすことが出来る。

「これで浄化術のテストと魔結石の改術が出来るわね」

 ディギオン解放まで後五日。より確実に術を仕上げられる。

「じゃあ、ボクがその間、おとりになるよ。ポン太は姐さんとブライさん達と次の潜伏場所の家に移って」

 法稔が『贖罪の森』の湖の水の入った小瓶を出す。小瓶はシオンの覚悟に共鳴して、キラキラと光っていた。目を閉じ、両手を広げ『真水』を召還する。エルゼが別の新しい瓶を出し、シオンの呼んだ『真水』を入れた。

「私の指示どおり、小瓶から改術に使う最小限の『真水』をこっちに移してくれ」

 シオンは法稔が蓋を開けた小瓶に手をかざした。中の『真水』が小さな水玉となって浮かぶ。それをエルゼの持つ瓶の中に入れる。

「これで良いわ」

 エルゼが二つの瓶を受け取り鞄にしまう。そのとき、外の雨音が更に激しくなった。シオンが使った『真水』召還の力に明玄が気付いたらしい。水気がどっと家の中に入り込んでくる。

 ブライとジゼルを呼ぶ。法稔が移動術の呪文を唱え始めた。シオンは愛用の青龍刀を呼んだ。本来の姿、ザリガニにそっくりのレッドグローブ族の姿の戻り、大きなハサミと二刀を構える。

 バン!! 窓が破られ、そこから右手の爪を鋭く伸ばしたキースと、うねうねとスライムのように蠢く雨水が入ってくる。

「ポン太! 姐さん達をお願い!!」

 マリンブルーの軍服の裾をひるがえし飛び出す。法稔が印を組み、四人の姿が消えた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 雨がますます激しく降っている。

 新しい潜伏先に住居に飛んだ四人は、やってきたお玉と優香に手伝って貰いながら、持ってきた衣服や荷物を黙々と片づけていた。

 ブライが空になった段ボールを畳み、廊下に持って出る。廊下の先、玄関のドアの前に法稔がいる。いつもなら率先して手伝うはずの彼は突っ立って脇の小窓から雨空を見ていた。

 その後姿に小さく息を吐き、戻る。リビングではエルゼが細々としたものを100円ショップの駕篭に整理して棚に置いている。どうやら明玄はシオンに執着しているだけらしく、今のところ彼女を襲うような気配はない。しかし、それはシオンがより厳しい状態に置かれているということだ。潜入工作を得意とするキースは、そこまで強くはないというが、シオンも剣はともかく、攻撃術は一つしかまともに使えない。明玄とキース二人掛かりでは苦戦するだろう。時折、エルゼがエプロンのポケットからスマホを出す。画面をタップし、シオンからの連絡の通知が無いのを見ると暗い顔でまた戻した。

「直ぐに住めるように、いろいろ用意して貰って助かるわ」

 そんな不安な空気の中、ジゼルがお玉と優香にお礼を言っている。戦えない彼女はケヴィンがいなくなってから、彼の代わりに場の空気を和ませようと、なるべく元気に明るく振る舞っていた。

 住宅は不動産業の魔術師がトークアプリに引っ越しのことを書き込んだらしく、手の空いた魔術師達が使わない家具や電化製品、食器等を運び込んでくれていた。

「お兄ちゃんも手伝ってくれたんです」

「正樹が?」

 優香の言葉にエルゼが驚いて振り向く。

「お兄ちゃん、『班長にはまだ思うところがあるけど、班員の皆さんには皐月家を出てからも優香がお世話になったから』って」

 卒業間近の先輩達に頼んで、処分予定の生活用品を引き取ってきてくれたらしい。

 正樹は優香を連れて出たときは、相当こじれていて、班員にもそっけない態度を取っていたというが。

「……そう」

 エルゼが嬉しそうな顔になる。そんな彼も破防班の為に力を貸してくれているのだ。ブライはぐっと拳を握った。

 すでにお玉がシオンの代わりに、ここでの護衛を務めてくれることになっている。優香も『今度は私がエルゼ姉さんの側にいる番だから』と滞在出来るようにパソコンや教科書、着替え等を持って来ていた。

 ……私は……? 

 先程の法稔の背中が浮かぶ。エルゼ、ジゼル、ブライ、優香の四人をお玉と二人で守らなければならない状況では彼は行くとは言えないだろう。だが、エルゼとジゼル、優香の三人を二人で守ることが出来るのなら……。

 ブライは立ち上がった。あの悲劇以来、何十年かぶりに自分の戦斧を呼ぶ。空間が揺れ、鈍色の背丈ほどある大きな斧が現れる。それに手を伸ばす。

「義兄さん!」

「ブライ!」

 自分を見たエルゼとジゼルの声が響く。伸ばした指先が震える。無惨に『悪魔』の享楽の餌食になった隊長や先輩達の顔が浮かぶ。

 ……お願いです……。私に今一度戦う気力を……。

 ブライはその顔達に祈った。


『これを哀しい人を増やさない為に使って下さい』

 エルゼとジゼルの声に振り向いた優香の耳に愛らしい少女の祈りの声が響いた。

 ……これは……? 

 声のする元を探す。エルゼが持ってきたボストンバッグの一つからそれは聞こえている。何かが、震える手を戦斧に伸ばしているブライに応えようとしているらしい。ふっと視界がぶれる。

 濃い緑の木々が囲う澄んだ青い湖が見える。日の光を反射してキラキラと水面が光る岸辺には優香より三歳ほど歳下の少女がいた。

 彼女が水面に右手をかざす。水面から数粒、水滴が浮かび上がり左手に持っていた小瓶に入る。その小瓶には見覚えがあった。

 ……『贖罪の森』の湖の水が入った小瓶……。

 同時に

『冥王様とデュオス様の依頼に森の主の姫君が自ら汲み上げ、更に森の浄化の力を込められました』

 小瓶を渡したときの死神の長の言葉を思い出す。

『これを哀しい人を増やさない為に使って下さい』

 少女……森の主の姫君が小瓶を両手に包んで祈る。

 ……それなら……。

 優香はその祈りに重ねるように祈った。

 ……その力をブライさんに貸してあげて下さい……。


「『贖罪の森』の水がブライさんに共鳴している……!」

 お玉が声を上げる。

 エルゼがボストンバッグから小瓶を出す。その中の水が光っている。ブライの耳にさやさやと木の葉のざわめきが聞こえる。次いで決意を後押しするように、柔らかな緑の匂いが包んだ。

 震えが止まり、手がしっかりと戦斧の柄を握り締める。

「法稔くん! ここは私が守るからシオンくんのところに行ってくれ!」

 ブライは玄関に向かい、大きく呼び掛けた。


 * * * * *


 街に被害が出ないように臭う雨の中、二市の上空にやってきたシオンはキースと、雨から作り出された怪物達と戦っていた。

 倍以上に大きくなった右手から伸びるキースの爪を剣で弾き、絡みつこうとする雨水のスライムを漂わせた氷の粒で払い退ける。次いでハサミで肩を狙うと、キースはニヤリと笑い、怪物達の後ろに下がった。

「キース一人なら、どうにでもなるけどっ!」

 キースは以前戦ったゲオルゲよりも弱い。体裁きも、攻撃の手数も、ずっと下回る。が、周囲を囲み、隙あれば自分を捕らえにくる怪物との連携が上手い。

 唯一コントロール出来る攻撃術、氷の粒を作り操る術だけでは、怪物達を退けるので精一杯だ。しかも周囲の水気は明玄の支配下にある為、自分が使う水は『真水』召還で、いちいち呼ばなければならない。

 ……ポン太がいてくれれば……。

 以前、ゲオルゲを捕縛したときは、法稔が土の術を引き受けてくれたおかげで、剣にのみ集中することが出来た。

「しっかりしろ! シオン!」

 自分で自分を叱咤する。

 ポン太は姐さん達を守らなければいけないのだから。

 腹に力を入れ、再度振りかぶってきたキースの爪を弾き、もう一度『真水』を呼び、氷の粒を作ろうとする。そのとき

「浄!!」

 張りのある低い声が響き、向かってくる怪物が霧散した。


 背中にさらりとした法衣の背が合わさり、周囲に結界が張られる。

「ポン太!?」

「だから私は法稔だ」

「そうじゃなくてっ! どうして、こっちに来たんだよっ!」

『声を出すな』

 法稔が、触れた背中越しに心語で注意してくる。

『私がエルゼさん達を守るから、とブライさんにシオンを助けに行くように頼まれたんだ』

『ブライさんが!?』

『ブライさんも皆の為に気力を振り絞ってくれたのだろう』

 ブライは過去のトラウマから今でも年に一度は一週間ほど寝付いてしまうと聞いている。シオンも戦いのトラウマから一時、戦えなかったときがあった。ブライの恐怖と苦しみはあの比ではないだろう。

『ブライさんの勇気を無駄には出来ない。雨の怪物の方は私に任せろ。お前は……』

『キースをここで倒す』

 呼吸を整え、怪物達の向こうでニヤニヤと爪を舐めているキースを睨む。

『合図と同時に結界を解く。頼むぞ』

『任せて』

 結界が消え、雨音が大きくなる。シオンは自分に伸びてくる触手を無視して、爪を構えたキースに向かい一気に距離を詰めた。


「破!」

 法稔の破邪の術に怪物達が次々と消えていく。シオンは二刀とハサミを構え、キースに飛び掛かった。奴が繰り出す爪を刀で弾き、首をハサミで襲う。キースが大きく頭を振るが、除け損ない頬が抉られ、悲鳴を上げる。痛みに反射的に左手を傷にやろうとした隙に、右腕を中程から切り飛ばす。

「浄!」

 次いで法稔の浄化術の青い光が奴を包む。明玄同様、何か邪悪な術で強化していたのだろう。始まり掛けていた腕の再生がぴたりと止まる。

「シオン! これを!」

 法稔が手にしていた数珠を投げてくる。刀の刃先で受け取り、狙いを定めて投げる。法稔が素早く印を切る。

「縛!」

 数珠の輪が捕らえようと大きく広がる。が、その瞬間、キースの姿が消えた。

「しまった!」

 シオンが慌てて追おうとするが、行く手を雨水のスライム達が阻む。ざぁぁぁ……。雨から、更に怪物が湧き、二人を囲う。

『奴の力は削いだ。今は深追いは止めよう。まずはエルゼさんの為に明玄を引きつける。お前、身を潜められる私有空間は持ってるか?』

『ボクは作ってないけど、班長やアッシュさん、玄さんの訓練用の空間なら知ってる』

『私も修行用の空間を持ってる。それらを使って逃げ回るぞ』

 明玄は玄庵の術の効果で、シオンにのみ固執している。姿を消せば、更に執着度を増し、必死になって探し回るだろう。それを利用してエルゼに術を完成させる時間を作る。法稔が移動術の呪文を唱える。

「はぁっ!!」

 シオンが漂わせていた残りの氷の粒を一気に怪物達に放つ。二人の姿が消えると、雨が更に音を立てて、強く降り出した。

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