3. 侵入者

 まだ屋敷に上がり立ての従者が、盆に来客用のポットとカップを乗せて慎重に歩いていく。

 それを廊下の角から見て、少年……ゲオルゲはにんまりと唇を歪めた。従者は盆の上に集中している。彼は角から飛び出すと従者に軽くぶつかった。

「熱っ!!」

 大げさに声を上げて、飛び退く。

「すみません! 大丈夫ですか!?」

 慌てる従者の顔が彼を見て青ざめる。

 オナシス家の性悪息子。ゲオルゲはミノタウロス族の者達に影でそう呼ばれている。ハーモン家からオナシス家に嫁いだ第一夫人の母に溺愛されて育てられ、気分屋で癇癪持ちのゲオルゲは何かの理由……なければ無理矢理、理由をつけてまで自分よりも立場の弱い者をイジメる。

 顔をこわばらせた従者にゲオルゲは触れてもいない手を振り

「火傷したぞ! どうしてくれる!」

 詰め寄った。

「……申し訳ありません……」

 謝るしかない彼を機嫌よく罵り、盆の上のポットを掴む。

「お前も同じ目に合わせてやる」

 ポットを従者に向けて傾けたとき、ボコッ、廊下に突然、土人形が現れた。それは見る間に大きくなると、従者をかばうように覆い被さる。

 ゲオルゲが浴びせようとしたポットの熱い茶が、土人形の表面を削り、廊下に大きなシミを作った。

「弱い者イジメはやめろと言ったはずだ。ゲオルゲ」

 まだ声変わり途中の少年の声が廊下に響く。振り向くとそこには、仕立ての良い上品な訪問着をまとった少年が立っていた。

「モウン様!」

 従者の安堵した顔に、少年がもう大丈夫だと小さく頷く。

「弟が庭師の仕事の見学に夢中になってしまった。お茶は東屋に運んでくれないか? この絨毯の泥染みについては、俺から侍従長に謝って掃除をして貰おう」

 兄弟でオナシス家を訪れていたモウンが、ゲオルゲの手からカラになったポットを取り、盆に戻して従者に頼む。

「はい! ありがとうございます!」

 厨房に戻る従者を見送って、モウンは従兄を腕を掴んだ。

「お前も一緒に来い。そして、今のことをお前の父上に申し上げて、しっかり叱って頂こう」

 有無を言わず腕を引く。ゲオルゲは奥歯をギリと鳴らすと従弟を睨みつけた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「……モウン・ハーモン……」

 彼がいる山根市と関山市を眺めながら、ゲオルゲが奥歯をギリと鳴らす。

「そう苛つくな。私達には今、ハーモン班の相手より、やねばならぬことがある」

 この世界にやってきた途端、いきり立つゲオルゲを、からかうような口調で隣に浮かぶ男が諫めた。ディギオンの私設術士隊の隊長を務める、背の低い黒のローブを着た男だ。薄曇りの空の下、寒気団が連れてきた凍える風に、目深に被ったフードの端から鳥の嘴に似た口元が見え隠れしている。

「まずは、お前には土地神を封印した封呪を調べてきて欲しい」

 男は茶色の指で二市を指した。

明玄めいげん、お前が作った封呪だろうが……それを今更……」

 訝しげに睨むゲオルゲに、明玄と呼ばれた男がローブの肩を竦めた。

「あの師が仕掛けられた術に、何の手立ても抗じてないと思うか?」

 フードの下の赤茶色の瞳を細める。

「サキュバスの弟子と何らかの手を加えているだろう。ディギオン様をここから解放するには、まずはそれを調べる必要がある」

 二人がここに来たのは、ディギオンの別宅に私設部隊の隊長が集められた晩、執事に主人を魔界に連れて帰るよう命ぜられたからだ。『土の王』就任パーティまで後二ヶ月弱。それまでの衣装の仮縫いや、招待客の選定はディギオンの影武者がやってきた。が、それが本人でないことに『土の老王』も気付いている。ディギオンにとことん甘い祖父であるが故に、ここまで目をつむっているが、いい加減に本人が現れないことには、就任前に老王のいらぬ怒りを買いかねない。

「これを持っていって、二つの市を隅々まで回って来い」

 明玄が手を翳すとゲオルゲの前に透明な水晶の玉が現れる。

「私がそれを通して術を読む。お前が潜入すれば間違いなく、ハーモン班が現れるだろうが、適当にあしらっておけ」

 偉そうに命令する明玄に、ゲオルゲが血走った目を向け、いきなり殴り掛かる。その拳が当たる直前、彼の姿が消えた。途端に全身を突き刺されるような痛みが駆けめぐる。

「ぐあぁぁあ!!」

 ゲオルゲは悲鳴を上げると空中でのたうち回った。

「ディギオン様の私兵の隷属呪術は私が掛けたものだ」

 明玄の声だけが聞こえる。更に痛みが強くなる。ゲオルゲは身体をびくびくと仰け反らせた。

「いいか、これを持って二市を飛び回ってくるだけで良い。子供でも出来るおつかいだ。それで私が術を読み終えたら、後は従弟に復讐するなり、血祭りに上げるなり、好きにすれば良い」

「わ……解った!!」

 必死に何度も首を縦に振るゲオルゲに、楽しげな笑い声が掛かる。ようやく痛みが消える。荒く息をしながらゲオルゲは、空に浮かんだままの水晶の玉を掴んだ。

「行ってくる」

 この場から逃れようとするかのように黒い姿が飛び去る。くつくつと喉を鳴らして明玄が姿を現した。

「力だけのウスノロが……」

 侮蔑の言葉を吐いた後、ふと眉を潜める。地上から吹き上がってきた氷のような風に、微かに若々しい安息の闇の力を帯びた呪力を感じる。

「……ほう、師は死神まで弟子に取ったか……」

 サキュバスの妖女だけでなく冥界の死神まで。

「……面白い……」

 ぼそりと呟く。明玄が嘴を緩めると、その姿が空に淡雪が溶けるように消えた。


 * * * * *


 冬の昼間の人気の無い公園の片隅に、こちらの世界の人間には見えないように結界を張って、黒い僧衣の狸型獣人の少年が呪文を唱えている。

 白い布に墨で書かれた魔法陣の上に座った彼の後ろでは、マリンブルーの軍服を着たザリガニの少年が、大きなハサミと細い腕に二刀の青龍刀を構え、周囲を慎重に伺っていた。

 ハーモン班の捜査官、レッドグローブの少年兵、シオン・ウォルトンと、魔界と同じく『要の三界』、『再生』を司る冥界の死神少年、茶狸ちゃり族の法術師、法稔ほうねん

 法稔が組んだ手に掛けた数珠をじゃらりと鳴らして印を組む。布の上、彼の目の前に置かれた毒々しい紫の水晶の玉が、魔法陣が発した青い光を浴び、少し色を薄くした。

「今日はここまでだな。これ以上はディギオンに感づかれる」

 法稔が立ち上がり、座っていた魔法陣を片づける。数珠と市立グラウンドに埋め込まれた魔結石とリンクさせている紫の玉を懐にしまい、ぶるりと身震いする。いつもの丸顔に丸い体躯の地味な少年姿に化け、結界を解いた彼に、こちらもサラサラの茶髪の、瞳の大きな美少年姿になったシオンが、天然水のペットボトルを手渡した。

「はい、ポン太」

「ありがとう」

 礼を言って、法稔が水を一気に飲み干す。大きく息をついて、公園のくず籠にカラになったボトルを捨てる。

「すまんな。私が攻撃術が苦手なばかりに護衛をして貰って」

「気にしないで、ポン太。班長の言うとおりディギオンが『神』として支配する区域じゃ、ボクは足手まといにしかならないから」

 シオンは首を横に振った。

『経験の浅いお前には、ここは危険過ぎる。お前は二市の外で、魔結石を玄庵の依頼どおりに組み替える法稔の護衛をしてくれ』

 そう班長に命じられたときは、自分の不甲斐なさに落ち込んだが、今はそれほどでもない。

 法稔は防御、浄化、感知・探索の術に長け、それらに関しては一流と言っても差し支えないほどの腕を持つが、優しい、穏やかな気質からか攻撃術は並の兵士程度にしか使えない。その為、もしディギオンが気付き、私兵を差し向けた場合を考慮して、シオンが護衛についているのだ。だが、シオンはそれ以上に今、友人として彼の側にいなければいけないと感じていた。

 公園を離れ、今日の報告と術の進行状況を確認して貰う為、死神のおさの元に向かう法稔と並んで歩く。神経を使う施術をせいか、法稔の横顔にはありありと疲れが滲んでいる。しかし暗い表情はそれだけではない。

「ごめん、ポン太。ポン太に辛い仕事させて……」

「いや、これも任務だからな。ディギオンが『土の王』になり、また魔界が過激派に傾けば、冥界もただではすまない。それに班長と玄さんが、それしか方法が無いというものを、私がどうにか出来るわけがないし……」

 法稔が組み変えている術を使うには、麿様が掛けられた石化の術ほどではないが、大きな力がいる。モウンはそれに班員達の力と自分の命を使うつもりなのだ。

 その術を自分の手で仕掛けることに、どれだけポン太が苦しんでいるか……。

 死者の魂を運ぶ死神である自分が『モウンを殺す』術を施術している。もし、これが成功したら、法稔は死神も術士もやめてしまうかもしれない。

 生真面目でお人好しの友人なら、十分にあり得る最悪の未来が浮かび、シオンは頭を強く振って振り払った。

「ポン太、ボク、今日、ゆうちゃんのアパートに行く日なんだ。長への報告が終わったらポン太も一緒に来ない? ボクが夕食を作るから」

「お前が夕食を?」

「うん、ほら、優ちゃんのところ、今、アッシュさんも姐さんも来れないから、優ちゃんが一人で毎日夕食の支度しているんだよ。だからボクが行く日代わってあげてるんだ」

 シオンは積極的には作らないが、新兵時代の炊事訓練とアッシュの手伝いから、一通りの料理は出来る。

「そうだな。私も寺の修行で料理は学んでいるから、一緒に作っていいか?」

「うん!」

 少し明るくなった友人の顔に安堵して頷く。

 しかし……。

 ……さっきから何度も『ポン太』って呼んでいるのに、一度も『法稔だ』って言い返して来ない……。

 『ポン太』『私の名前は法稔だ』のやりとりは、心身の消耗をなかなか言葉や態度に出さない彼の、余裕の度合いを計るバロメーターだ。

 ……これは、相当参っているな……。

 平静を装っている友人の心中を察して、シオンは内心大きく息を吐き出した。


「寒っ!」

 雪の気配をまとった冷たい風が吹き、二人が首を竦める。

「……ん?」

 そのとき突然、法稔が足を止めた。

「どうした? ポン太」

「……いや……ちょっとな……」

 法稔は風に今は表には出してないヒゲを震わせた。冷風に微かに針のような魔族の気が二つ混じっている。

 ……班長に似ているが、爛れたような荒れた魔気と……玄さんに似ているが、淀みきった沼のような魔気だな……。

 押さえているがかなり強い魔族だ。今までの私兵とは比べものにならない。

「ポン太?」

 訝しげな顔をするシオンを制し

「……長のところで話す。お前も一緒に聞いて班長に報告してくれ」

 小声で告げる。

「解った」

 いよいよ向こうも焦り出したのかもしれない。

 二人は視線を交わして頷き合うと、再び早足で歩き出した。

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