2. 目覚め

 多分、あの時に『好き』になった。

苺薫いちかかおる叔母さんのところに行くわよ』

 二十三歳でアレルギー性の内臓疾患を発症して以来、母は末の妹の薫を心配して、月に一度は彼女の家を訪れていた。

『私は、彼が見つけてきてくれた薬のおかげで元気になったのに、姉さんたら本当に過保護なんだから。苺薫ちゃんだって、もう小五なのに毎月一緒に連れて来られて迷惑よね?』

『ううん、私、叔母さんの家、好き!』

 海に近い観光街から一歩、通りを山側に入ると広がる、静かで緑豊かな閑静な町並み。その一角、昔、外国人の別荘だったという叔母の家は、洒落た風合いの家で、苺薫はここで優しい叔母や叔母のカッコイイ彼氏と過ごすのが好きだった。

 まるで欧米の児童小説の挿し絵に描かれているようなキッチンで、叔母と一緒にお菓子を作ったり、リビングの暖炉の前でボードゲームをしたり、皆で散歩に出掛けては、大人っぽい雰囲気の喫茶店に入ったり。

 その日も、苺薫は叔母の家で、週末の買い物に出掛けた母と叔母の帰りを待ちながら、焼き上がったクッキーを前にキッチンで本を読んでいた。

『苺薫ちゃん、紅茶をあげようか?』

 叔母の彼氏がぷっくりと丸い耐熱ガラスのポットを手に訊く。

『はい。ありがとうございます』

『偉いね。ちゃんとお礼が言えるようになったんだ』

 彼の透き通るような白い面に柔らかな笑みが浮かび、窓から差し込む穏やかな秋の日差しを受けて、淡い茶色の髪が金色に光る。

 それを見た瞬間、苺薫の心臓がドキリと跳ね上がった。

 彼がお茶の支度を始める。ケトルを沸かし、慣れた手付きでティーカップをテーブルに置き、茶葉の缶を出す。やがて、白磁のカップに透明な琥珀色の液体が注がれた。

『はい。苺薫ちゃん』

 いつも優しく叔母に添えられる、少し骨張った大きな手と苺薫の手が触れ合う。

 父とも、もちろんクラスメイトの男の子や先生とも違う、さらりとした肌触りの男の人の手。苺薫の胸の音が更に跳ね上がる。

『熱いから気を付けてね』

 彼女に注意しながら、カップに口をつける薄い唇。

『ただいま』

『おかえり』

 その後、帰ってきた叔母を迎え、微笑む彼の優しい横顔を見ながら

 ……あの瞳で私も見て欲しい……。

 苺薫は何故かそう痛切に願った。


 スマホの電源を入れる。もう何も考えなくても、指がするすると画面をタップし電話帳を開く。発信を押し、コール音の後、掠れたような声が耳に響いた。

「はい」

 その声だけで、今でも胸が高鳴る。

「ライアスさん……」

 思春期を迎え、娘らしくなった苺薫から甘い声が出る。

「また、会えませんか? 以前貰ったお薬がもうないの……」


 * * * * *


「いってらっしゃぁ~い」

 GW初日の嵐が通り過ぎた、まだほの暗い通りに少女と少年の声が響く。

「いってきます」

 連休に実家に帰省する為に、始発の電車に乗る正樹まさきが、見送りに出た二人に軽く手を振って、ゴミや木の枝が散乱した道を歩いていく。

 兄の後姿を見送りながら、優香は一緒に見送りに着いてきてくれたシオンには気付かれないように、こっそりと息をついた。

『……なあ、優香。いつまでも破防班の人達に世話になってないで兄妹二人で暮らさないか?』

 正月明けから、急にバイトの量を増やし、帰りが遅くなっていた兄が、先日突然、優香にしてきた提案。

『……え? でもお兄ちゃん、自分から家賃が浮くから、この家に住みたいって頼んだんじゃ……』

 今年大学二年生の優香の三つ年上の兄、正樹は、受験前から妹と一緒に、祖母が妹に残した家に住みたいと打診し、去年の春から、ここで暮らしていた。

『どうしたの? 何かモウン達と困ったことでもあった?』

 それなら自分が兄と異形の家族の仲を取り持たなければならない。気遣わしげに訊く妹に

『いや、そういうことじゃないけど……』

 正樹は目を反らして口ごもった。

『それに、この家を出るとしても、お金はどうするの?』

 ここ山根市は首都圏のベッドタウンだけあって、空いている貸し家、貸し部屋は少なく、他の都市より割高だと聞いている。それに生活費。正樹は家から送られる仕送りとバイトで生活費を賄っているが、優香の分は破防班の面々から出して貰っているのだ。

 とてもではないが、大学生に高校生の妹と暮らす費用を全て出せるとは思えない。

『敷金は増やしたバイト代と貯金でなんとか用意した。先輩の紹介で古いけど、格安の物件を見つけたんだ。その家賃と二人の生活費は……この家を班長達に貸して、貰う家賃を当てればいい』

 どうやら兄は、既に新生活の目処を立てていたらしい。

『足りない生活費は俺が今度のGWに家に帰って、父さんと話をして、仕送りに上乗せして貰えないか頼んでくるよ』

 優香の両親は優香に関する費用は、学費以外の金を出してはいない。本来、自分達が出すべきものを出すのだから、断らないだろう。正樹はそう言い切った。

 お兄ちゃん……。

 ブロック塀の向こうに兄の背中が消える。

 何か変……だよね。

 兄の態度や言葉からは、妹の世話を全くの他人がしていることへの申し訳なさ、ではなく、是が非でも妹を彼等から引き離そう、としている感じがする。

 モウン達と離れるなんて……。

 優香は、もう十二年も異形の家族と暮らしているのだ。彼等がいない生活は想像もつかない。それに……。

 モウン……。

 離れると考えただけで胸の奥がきゅっと痛む。

 優香は踵を返すと、シオンと共に昨夜の雨をたっぷりと吸った板塀の小さな門を潜った。と同時に、シオンがサラサラの茶髪の瞳の大きな美少年から、巨大な直立して歩くザリガニに変わる。

「見送りに付き合ってくれて、ありがとう。シオン」

 礼を言う。

「どういたしまして」

 シオンが照れたように大きなハサミを振った。普段の行動は軽いが、人の良い魔界の少年兵士は、一度も実家に帰ったことの無い優香を気遣って、一緒に早起きをして見送りに付き合ってくれたらしい。

 おかげで、お兄ちゃんに、家を出る話の返事を訊かれなくて良かった……。

 今度は安堵の息をつく。と同時に欠伸が出てくる。

「昨夜は眠れなかった? 嵐の音がすごかったもんね」

 シオンの笑みを含んだ声に

「……うん」

 本当の理由は言わないで頷く。

「ところで……」

 優香は、出たついでにと朝刊を取りに郵便受けに向かった、シオンの背に訊いた。

「昨日の嵐のせいか、奇妙な夢を見たんだ。小さい私が同じような嵐の晩に皆と話をしていたときの夢」

 昨夜見た、祖母が他世界に治療を受けにいくという話をする。シオンは細い腕を組み、頭頂の第一触覚をふるふると震わせた。

「……う~ん、それって七年前のことだと思うよ」

「すごいね、覚えてるの?」

「いや……ちょうど、その嵐の翌日、優ちゃんがアッシュさんと姐さんと出掛けた後に、奇妙な事件が起こったから……」

 シオンが思い出すように、赤紫色の瞳を嵐の後の明るく晴れた空に向ける。優香は起きてから、もやもやと感じていた疑問を彼に訊いた。

「……でも、私、あの後、おばあちゃんが長い間、家にいなかった、という記憶が無いんだよね。成人式の姿を見たいって言っていたのに……」

 それから三年後、今から四年前、破防班の面々が捜査に出掛けている留守に、遥香は倒れ、入院し、そのまま退院することなく亡くなった。

「……どうして治療を受けなかったのだろう……」

 うつむく優香に

「いや! 遥香さんは優ちゃんの成長が見たくなった、とかいうんじゃなくて……!」

 シオンが慌ててハサミをわたわたと振り回した。

「さっき言った、奇妙な事件の結果、班長と相談してお薬の治療だけを続けることにしたんだ」

「どうして?」

「それは、ボクからは言えないよ……」

 すまなそうにシオンが第一、第二触覚を下げる。

「……そう」

「でも、ボクの方から班長に優ちゃんが気にしていたことを話しておく。あの班長のことだから、きっと理由をちゃんと話してくれるよ」

「……うん」

 モウンは私のことをいつも一番に大切にしてくれるから……。

 また胸がきゅっとなる。

 ぺたぺたと濡れた庭石の上を歩く。今日は午後からGW開けの週末の検定試験の為に、友人の真奈と図書館で勉強する約束をしている。

「じゃあ、私、寝直してくるね。付き合ってくれて本当にありがとう」

「うん、おやすみ~」

 シオンがハサミを振る。それに手を振り返して、優香は自分の部屋へと続く縁側に向かった。


「こりゃ、アッシュさんの言うとおりかなぁ……」

 班長が話すといったとき、一瞬少女の目に浮かんだ嬉しそうな熱を帯びた光をしっかり見てとったシオンは、小さく肩を震わせた。

「班長と優ちゃんかぁ~。美女と野獣のカップル、って感じだけど」

 家族に幼い頃捨てられた寂しがり屋の少女には、懐の深い大人の男性が合うのかもしれない。

 だが、シオンの脳裏に、去年の暮れ、来客用のお菓子を買いに行く二人を見送った後のことが浮かぶ。優香からほの見えた恋心のことを嬉しげに話すアッシュ。それに対する、エルゼの答え。

『……でも、班長はまだ……』

 シオンは、ゆるく首を振りながら郵便受けを開けた。朝刊を取り出すと奥からパサリと軽い音が聞こえる。

「うん?」

 郵便受けの中にはもう一つ、白い封筒が入っていた。

「……え!?」

 さっき話した、七年前の朝と同じ出来事が目の前で繰り返されている。シオンがあの日、遊園地に出掛ける優香とアッシュ、エルゼを見送って、朝刊を取り出した郵便受けの中には、桜色の封筒があった。

 そして……。

 白い封書から微かに放たれる風の魔気に第一触覚を震わす。シオンはおずおずと封筒を取ると表に返した。宛名面には直接入れられたのか、何も書かれて無い。

「……と、とにかく、班長に知らせなくちゃ……!」

 これも七年前の朝と同じた。シオンは慌てて、大きなハサミを縦に振り、切れた裂け目から、班長が朝練をしている空間に飛び込んだ。

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