魔物
正月四日。まだテレビは目一杯お正月だが、世間はそろそろ明日の初出社が気になり始める昼下がり。寿ぎの華やかさが残るリビングで、一人の赤いトカゲ人の女の子が、ザリガニ少年の膝に座って、お絵かきをしていた。
「……でね、シオンちゃん。こんな感じで色が変わって、綺麗に光っていたんだよ」
広告紙の真っ白な裏の周囲には、この家の家主、高校一年生の魔女、皐月優香が幼稚園時代に使っていたクレヨンが散らばっている。
そのクレヨンで、昨夜訪れた東京の観光名所、空に突き刺すような高いタワーが夜空にキラキラと光るのを描きながら、トカゲ人の女の子……『火の王』エドワード・ブランデルの第二子、マリラ・ブランデルが笑う。
「リラ様は、お絵かきがお上手ですね~」
長い第二触角を機嫌良く揺らしながら、赤紫色の瞳を細めるシオンに、マリラはぷへへと得意そうに今度はピンクのクレヨンを持った。
「リラ、リラもそろそろ、
台所から暖簾を潜って、部屋に入ってきた凛々しいトカゲ少年が妹に注意する。
彼はバーナード・ブランデル。エドワードの第一子で、公爵家当主、第一継承権を持つ長男だ。
父譲りの整った顔に、母の穏やかな雰囲気を纏った少年が「どうぞ」とシオンの前にコーヒーを、マリラの前にココアを置く。
「ありがとうございます。バード様」
祖父、叔父達、父同様、ブランデル家の男らしく、料理好きな少年の淹れるコーヒーはなかなかに美味しい。礼を言うシオンに、バーナードが
「シオンさん、私はまだ学生です。魔王軍の正式な兵士殿に『様』付けで呼ばれるような者ではありません」
困った顔をした。
「はあ……」
こちらも困ったように長い第二触角をいじり始めるシオンに
「バード、いくらなんでもそれは魔界の慣習から無理というものだよ」
お茶を淹れた湯飲みを三つ持って、こちらも暖簾を潜ってきたアッシュがたしなめる。
「しかし……」
「ご覧、シオンが困っているだろう?」
オロオロと二人のやりとりを眺めているシオンを見て、バーナードは「すみませんでした」彼に頭を下げた。
「いや、あの、そのっ!」
ブランデル公爵家の嫡男の謝罪に、更に困ったようにシオンがわたわたと大きなハサミを振る。
「お父上に似て、真っ直ぐな方ですの」
皆のやりとりを見ながら、古書を読んでいた玄庵が顔を上げて微笑んだ。
マリラはまだ就学前で、公爵家の居城で祖父母や叔父夫婦と従弟、母と住み、バーナードは父も通った魔界の、高位貴族の通う学園の初等科で寮生活をしている。『完璧な世継ぎ』と呼ばれ、神童の名を欲しいままにした父ほどの才はないが、十分優秀な成績に、それを気にしない、母の強さとおおらかを受け継いだ彼は、エドワードが『あれは私より『王』に向いている』と親馬鹿半分で自慢するほどの少年であった。
「玄庵様、どうぞ」
バーナードが玄庵に茶を出す。
「ありがとうございます」
玄庵が湯飲みを受け取る。その脇をアッシュが通り抜けながら、甥に頼んだ。
「じゃあ、オレは離れでエルゼとマール義姉さんと話してくるから」
「はい、解りました」
三人だけの話の邪魔をさせないよう、自分のお茶を座卓に置いて、バーナードがクレヨンを持つ。
「リラ、兄様にも絵を描かせてくれ」
「はい、兄様」
マリラが新しい紙を兄に渡し、自分はほど良く冷めたココアを持つ。
「シオン、玄さん、二人を頼みます」
「はーい」
「ゆっくりしておいで」
二人が頷く。
「ほら、リラ、ソラマルだよ」
バーナードの描く、タワーのゆるキャラの絵にマリラが歓声を上げる。
「ブランデル公爵家は次代も安泰だのう」
楽しげにはしゃぐ二人の子供に、玄庵が赤茶色の瞳を細くした。
アッシュが離れの襖をカラリと開けると、正月の午後のうらうらとした明るい日差しが差し込む部屋で楽しげにおしゃべりをしていた義姉、長兄エドワードの愛妻……上にもれなく『溺』と付く……ブランデル公爵夫人のマールとエルゼが彼を見上げた。
「緑茶ね」
義弟の持ってきた湯飲みの、暖かな湯気の匂いにマールが微笑む。
「私もお義父様も、お義母様も、アンもこれが大好きなの」
明日帰る義姉の旅行鞄には、出掛け先で買った老舗の有名店の緑茶が山と詰まっている。
「マール義姉さんの買ったものほど高級なものではないけど」
湯飲みを置きながら、アッシュが苦笑する。国産茶葉だが、量販店で特売をしていたメーカー品だ。だが、淹れ方はしっかりと一番味わいが出るようにしてある。
アッシュが湯飲みを向かい合った二人の間の文机に乗せ、自分はエルゼの隣に座る。マールが早速ほっこりと温くまった湯飲みを取った。
この長兄夫婦が正月の新年の挨拶を兼ねて、皐月家のやってきたのには理由があった。年末に破防班と優香と正樹、瑞穂と和也で、土童神社の煤払いをしていたところ、縁で皆の作業を眺めていた麿様が突然『麿も『火の王』に合うて話がしてみたいでおじゃる』と言い出したのだ。どうやら、モウンからクリスマスイブにエドワードと話し合った話を聞き『神を信じよう』と言い切った彼に興味が湧いたらしい。
そのことをアッシュがエドワードに告げたところ、アッシュの父母が来ることになっていた新年の挨拶に長兄一家がやってきた。
正月三が日は、神社のお陰で名が知れるようになった関山商店街の催しがあった為、優香と二人の子を連れて観光に行っていたが、四日目の今日は参拝客もまばらになった神社の裏で、エドワードはモウンと共に麿様と対面している。
「何を話しているのかな?」
麿様とモウン、死神の長とで交わしたという『この先、起こるべくして起こる災い』の内容は副長であるアッシュも知らない。
「マール義姉さん。義姉さんはディギオン・ベイリアルに会ったことがあるんだろう?」
眉を潜めて聞くアッシュの横で、エルゼもまた形の良い細い眉を曇らせる。不安げな末弟夫婦に
「あるわ」
湯飲みから口を離して、マールは答えた。
「『火の王』の妻として会わないわけにはいかないもの。エディとの婚約発表のパーティから何度もあの人には会ったわ」
「どういう人だい? マール義姉さんの『目』から見て」
侯爵家のお姫様育ちのマールは、おっとりした性格に似合わず、人の本質を見抜く『目』を持つ。それは様々な思惑が入り交じる、魑魅魍魎の跋扈する高位貴族の世界で公爵家を守る為に使われてきた。
マールが小さく息をついて、首を横に振る。
「私、あの人については見たことがないの」
申し訳なさそうに答える。
「どういうこと?」
マールは赤金色の瞳を伏せた。
「『目』が見ることを拒否しているらしいの」
あの男の本質を見ることを。
「エディが言ってたわ『それは人の最も汚らわしい闇『深淵』を覗き込むことになるから、自己防衛の為に見えないようにしているのだろう』って」
ただ会って挨拶を交わしているときに、ふと感じることはあるのよ。マールはぶるりと身を震わせた。
「あれは私達と同じ『魔族』ではない。勿論、他世界の人々とも違う。全く違う、別の『心』を持った生き物なのよ」
白い湯気を吹き、暖かいお茶を飲んでマールがほっと息をつく。彼女は黙りこくってしまった末弟夫婦を見て静かな声で尋ねた。
「……で、アッシュ、エルゼはディギオン・ベイリアルと戦うことについて承知しているの?」
義姉の問いに、エルゼは腿の上の小麦色の手を握り締めると口を開いた。
「はい。大晦日、優香と正樹が初詣の出掛けた後、班長から確認されました」
除夜の鐘が流れる中、モウンは静かに班員達……エルゼとシオンに、自分達の班が誰に、どんな目的の為に集められたかを明かした。
そして、その目的が今は『ディギオン・ベイリアルの『土の王』就任阻止』にあることを。
「それでエルゼとシオンくんは承知したの?」
「はい」
シオンは、余りに大き過ぎる相手に震え上がったものの『それがアル様の露払いになるのなら』と涙目で頷いた。
シオンの後見人、『水の王』アルベルト・グランフォードは過激派の時代、ベイリアル家に唆され、まだ幼い兄弟を葬って自分が次期『水の王』になろうとした叔父の策略から、まさに命を張って弟を守った。それは穏健派である水の一族を、過激派の手から守ったも同然で、水の一族はアルベルトを敬愛している者が多い。シオンもまた破防班に入る前に、彼の従者をしていたこともあって忠誠を誓っていた。
「そう……シオンくんらしいわ」
マールが小さく微笑む。
「エルゼは?」
「私も承知しました」
アッシュとブランデル公爵家の為に。
「エルゼ……」
アッシュが微笑む恋人の小麦色の手に自分の手を重ねる。
「ごめんなさい。エルゼ。エディが貴女を巻き込んだばかりに……」
「いいえ」
顔を曇らせた義姉にエルゼは、きっぱりとした笑みを向けた。
「今回の事件で、いかに公爵家の皆様が私を家族として受け入れて、大切にしてくれているか身に染みて解りました。だから、私も公爵家の家族として家族を守りたいんです」
「ありがとう……」
マールが湯飲みを文机に置く。感謝の言葉と共に彼女は深々と末弟夫婦に頭を下げた。
「それに義兄さんのこともあるんです」
「ブライさんはまだ……?」
「ええ、丁度あの事件の頃に『発作』を起こしたらしくて」
事件が解決した後、魔界からその事を書いた姉の手紙が送られてきた。
「今回は一週間で済んだらしいんですが、やはり、義兄はもう『発作』とは一生付き合うことになるだろうと姉が書いてました」
「そう……でしょうね。」
ブライの『発作』は過激派全盛期『土の老王』が権力を欲しいままにしていた頃、ディギオンのおぞましい欲望を満たす為に作られた『島の別荘』に当時、猛者で知られた魔王軍防衛部隊第一隊の十名を送り込んだ事件が原因だ。
友人や後輩を助ける為、破壊部隊第一隊隊長のモウンが決死の覚悟で乗り込んだところ、十名のうち五名が死亡、そして四名が発狂。唯一正気を保っていた新人隊員ブライも、長く、口も聞けない、何も出来ない『生きた屍』状態が続き、ようやく回復した後、ベイリアル家が渡した口止め料の大金と共にひそかに姿を消した。
その後、魔界をさまよっていた彼にジゼル、エルゼ姉妹は拾われたのだ。
「義兄さんは何があったか一言も口にしませんが、ずっと義兄さんと居れば大体の想像は出来ます」
エルゼが形の良い唇を噛む。
「あんな奴が『土の王』になったら……」
「ええ……。でもね、ブライさんの事件はディギオンの奢りによる大失態だったわ」
マールは二人を励ますように話し出した。
「あの事件のせいで、ベイリアル家がひた隠しにしていた彼の性癖が四大公爵家だけでなく高位魔族や土の一族にも広まったの」
それもあって、『土の老王』が引退した後の魔王軍司令部大将の座には、ベイリアル家当主代理のボリス・ベイリアルが着いた。
「以来、魔王様と『あの方』の思惑とおり、ボリス様は着々と大将として実績を積み上げてるわ。そして、土の一族には次期『土の王』にはディギオンでなく、ボリス様を推す人が多いのよ」
派手で恐ろしい性癖を持つディギオンより、地味だが、人に厳しく自分には更に厳しい、実直なボリスを。何よりもディギオンが『土の王』になったら、彼の一番の犠牲者になるのは配下の土の一族である。
「エディは魔王様と『あの方』とアル様と共に、ボリス様に協力し、ボリス様が『土の王』に就任出来るように推していくつもりよ」
しかし、まだ土の一族で『土の老王』の発言力は絶大だ。ディギオンは幼いときから『土の老王』のお気に入り。老王の発言を覆すのは難しい。
「それでも貴方達だけを決して戦わせたりはしないわ」
マールの言葉に二人はしっかりと頷いた。
「兄様~、お外で遊びましょ!」
「待ちなさい! リラ! ちゃんと上着を着ないとダメだ!」
「リラ様~! 待って下さい!」
うらうらと白い日差しが降り注ぐ庭から、お絵描きに飽きたのかマリラとバーナード、シオンの声が聞こえてくる。
「ところで貴方達は子供は作るつもりはないの?」
義姉にさらりと訊かれて、アッシュとエルゼが赤くなった。
「バーン家がエルゼ抹殺を命じた例の手紙を盾に、エディとケヴィンが厳しい罰を下し、サラマンドラ族にエルゼが公爵家の大切な一員であることを知らしめたの。だから、もう遠慮することは無いわ」
公爵家の事を考えて、子供を控えていたんでしょ? マールの問いに更に赤くなりながら二人は頷いた。
「二人とも子供が好きだもの」
義姉がコロコロと笑う。
「お義父様もお義母様も、口には出さないけど、楽しみにしてらっしゃるのよ」
彼等の父の夢は、妻、息子、嫁、孫達をずらりと公爵家の大広間のテーブルに並べて、自分の料理を振る舞うことだ。
「『大広間のテーブルなんて、一体何人産ませるつもりだよ!』って、いつもケヴィンが文句言っているけど曾孫まで考えれば出来ないことはないわよね」
湯飲みのお茶を飲んで、マールが楽しげにふふふと笑う。
「それには勿論、貴方達も入っているわ」
だから決して無茶をしないで。彼女は優しく末弟夫婦に釘を差した。
「これから大変な事に挑む貴方達ですもの。その代償に、もっと自分達の欲望に貪欲になって良いのよ」
「ふえ!!」
マリラの声の後「リラ!!」「リラ様!!」と声が続き、転びでもしたのか「ふえ~ん!!」と泣き声が響く。
「あらあら」
マールが湯飲みを置いて立ち上がり、離れの戸を開けて縁側から庭に出た。
「お母様~」
そろそろ母が恋しくなったのもあるのか、泣くマリラをマールが抱き上げる。
穏やかな正月の昼下がり、庭でマリラをあやすマールとその隣で妹を慰めるバーナード。ぱたぱたと母屋から薬箱を持って来たシオンが駆け寄る。
「……貪欲か……」
アッシュが呟く。
マリラを膝に乗せた母の前で、バーナードが転んだ小さな傷を丁寧に消毒して、絆創膏を張っている。柔らかな光景にアッシュは隣の恋人の手を握った。
「エルゼ、頼みがある。……オレの子を産んでくれるかい?」
「……ええ。是非」
エルゼが綻ぶ大輪の花のように笑う。その肩をアッシュが抱き寄せる。
「かくれんぼしましょ!」
手当を終えて、元気になったマリラの愛らしい声がよく晴れた正月の空の下に流れた。
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