11. 決着

 緑と赤茶色のコートを、氷のような青白い光を投げる月が照らしている。関山市市民テニスコート。隣には市民プール、左奥には弓道場、右手奥には例の市民野球場がある関山市の市営のスポーツ場が固まる一角だ。但し、グラウンドだけは手狭になったので郊外に移転している。

 エルゼに、もしものことがあっても仲間が助けに来れず、それでいて術を遠慮なく使える場所。ここは平日の昼や夜はまるで人がいない為、店舗も少ない。夜間の使用が無いときは、ここだけが孤島のように、ぽっかりと闇に落ちる。

 精神を弱体化させる術で弱らせたエルゼに、今夜一人で来るように暗示を掛けたバッドは、自動販売機の光の他に何も無い場所のコートの高い柵の上に立って、彼女を待っていた。

 ふわり、柔らかな風が舞う。風の魔力を感じる。目を向けると隣のプールへと続く柵の上にエルゼが立っていた。

 谷間を強調したブラトップに、ハイヒールと一体化したタイツ。腰回りを臍の下ギリギリまでカットした、妖艶なセパレートタイプのレオタードに身を包んだ彼女の姿に思わずバッドは息を飲んだ。

 その姿は正に『艶めかしい』の一言に尽きる。自分が付き合っていた頃の少女時代の終わりころから、五十年の間に大人の女性へと変貌し、男を知った肢体はサキュバスとしても余りあるほどの魅惑に満ちている。

「……こんなになるなら、オレが頂いておけば良かった……」

 目の前の女の身体に思わず後悔が零れる。だが……彼女の顔を見てバッドはニヤリと笑った。

 その顔は、度重なる自分の術に憔悴し切っている。たぶん、この姿で来たのは、せめてその肉体の魅力で男に隙を作ろうとするあがきなのだ。

 それでも、目だけは憎しみを込めて自分を睨むエルゼに、バッドは勝利を確信して声を掛けた。

「よく、来たな」

 くくっと喉を鳴らす。

「生きていたのね」

 エルゼの声が冷たい風に乗って届く。

「まあな」

「愛した女性も、子供も捨てて」

 怒りを含んだ声を鼻で笑う。

「お陰でこっちは死にそうな目に遭ったんだ」

 小馬鹿にしたように肩を竦める。

「貴方を魔憲章九十九章違反の補助行為で捕縛するわ」

「それはどうかな?」

 笑いながら手を翳す「お前には、またオレの出世の踏み台になって貰う」

 コートに張り巡らせた魔力を解放する。

「その命をでな」


 

 ヒュン!! 風を切る音と共に飛んできたモノが、エルゼのむき出しの背中に当たる。痛みに顔をしかめて振り返ると黄色いテニスボールがコートに落ちて、ポンポンと弾んだ。

「ボール?」

 小さなボールだが、固い硬式のテニスボールは当たると、かなりのダメージを生む。エルゼは蝙蝠の翼を広げるとコートの上空へと飛んだ。

 ヒュン!! また一つボールが飛んでくる。今度は右に避ける。するとまた、ボールやってくる。次々と飛んでくるボールを避けているうちに、エルゼの身体は柵の中、コートの中央へと入っていった。

 ニヤリ、バッドの口元が歪む。魔力を込め、両腕をゆっくりと頭上に上げる。どこにこれほど隠してあったのか、無数のボールが、テニスコート場に浮かび上がった。

「何? これ!?」

 エルゼが目を見開くのと同時に、バッドが両腕を降ろす。ボールが一斉にエルゼへと襲い掛かった。

 

 

 黄色いボールが、次々とエルゼに向かって飛ぶ。バシバシッと打撃音が連続で続く。その音に悲鳴も苦痛の呻き声もかすれる。エルゼは両腕で顔を覆ったまま、空中で動けなくなっていた。両腕に朱が走る。ボールに紛れて、見えない刃の風の攻撃術が紛れ込んでいる。エルゼのレオタードに包まれた肢体に次々と血がにじんだ。

 ヒュー、バッドは口笛を吹いた。とっくに防御術で防いでなくてはならないのに、エルゼはまだ、なぶられるがままになっている。その様子に彼女の精神力、魔力の低下を読み取り、彼の目が残忍に笑った。

 まるで、檻の中で逃げられない動物に石つぶてを投げるかのように、バッドは術のスピードを更に上げる。身を打つ無数のボール、切り裂く風の刃に、エルゼがとうとうテニスコートの上に膝を付いた。

 が、風が彼女を中心に巻き上がり、二つの攻撃を弾く。身体はボロボロだが、目は凛と彼を見据えたエルゼは、そのまま蝙蝠の翼をはためかせて、コートの柵から出ようと飛び上がった。

 バッドの口元が曲線を描く。彼女の身体が柵から飛び上がった瞬間、巨大な刃の風が走る。それはギロチンの刃のようにテニスコートの柵の両上端を滑り、柵から出ようとしていたエルゼを襲った。

 エルゼが力の固まりが迫ってくるのを感じ、振り返る。だが、既に遅く、彼女の柔らかな下腹部に鋭い風の刃が食い込んだ。

 

 

 バシャ――ン。水しぶきを上げて、彼女の身体が隣の二十五メートルのプールの淀んだ水の中に落ちる。

 バッドは大きく烏の翼を広げるとプール上空に飛んだ。自然に笑みが、笑い声がこぼれる。

 彼女がこのテニスコートに来たときから、もう勝負は着いていたのだ。バッドは確実に彼女をしとめる為に罠を張り巡らせていた。

 最初のテニスボールと風の刃も罠。エルゼは攻撃術が使えない分、防御術に特化している。並の攻撃術では弾かれてしまう。しかし、かといって大掛かりなモノを用意すれば、途中で気付かれてしまう。

 だから、ボールと風の刃という、チンケな合わせ技で気を削ぎ、その間に風のギロチンという大技を用意したのだ。

 周囲のスポーツ施設の植木から、吹き寄せられた木の葉がプールの水底に厚く積もっている。透明度を失った水はゆらゆらと赤く染まっていた。

 バッドの唇が歪む。

「今度もオレの勝ちだな」

 散々仰いで、嫉妬してきた女にまた勝利した。喜びと嘲りが湧き起こる。

「さて、後は証拠の首を……」

 切り取り、バーン家の当主に差し出すだけ。

 コツリ、プールサイドに降り立つ。プールに向かおうとして、その足が止まった。

「……何!?」

 足が、体が、まるで金縛りにあったように動かない。戸惑うバッドの耳に

「見事だよ、エルゼ」

 何度もバーン家の屋敷で聞いたことのある、ブランデル公爵家の次男の声と拍手が響いた。

 

 

 パチパチパチ……。市営スポーツ場を包む夜気を揺らして、賞賛の拍手が鳴り響く。

「ありがとうございます」

 照れを含んだ女の声に、バッドは夢から醒めたように目覚めた。

「ここは……」

 最初に自分が立っていたテニスコートの柵の上。そこから一歩も動かず、彼は複雑な魔法陣の中に捕らわれていた。

 魔法陣からは、淡いピンクの半透明の、まるで花弁のような薄片が重なるように出ている。それはバッドの頭上で重なり合い、花の蕾のように彼を捕らえ囲っていた。

「これは……どういうことだ」

 首を巡らすと、自分が立っているのと同じ柵の上にエルゼがいる。その美しい肢体には傷一つ無く、妖艶に月の光を跳ね返していた。

「まさか……幻覚……?」

 愕然と呟く。

「呪詛返しは数倍にもなるってことは知っているよね」

 陽気な声がして、サラマンドラ族の男が柵に乗る。

「ケヴィン様……」

 バッドは乾いた声を上げた。

 ブランデル公爵家、当主名代。魔界では兄や義姉を立てる為に、常に執事服を身に着け、魔力は低いながらも明晰な頭脳で『火の王の懐刀』と呼ばれている男は、にっこりと笑った。

「エルゼが君が術を掛けているのを見破ってから、あの術を通した術は全て君に返っていたのだよ」

 精神を弱体化させる術も暗示も、呪詛のように悪意を持った術は返されると何倍にもなって掛けた本人を襲う。

「エルゼは、それを利用して君に幻術を掛けたんだ」

 バッドの思い通りに事が運ぶ幻術を。そして、その隙を利用して彼を捕らえた。

「君が使ったのはエルゼの術だ。それに気付いてしまえば、制作者本人がより優位に術式を使えるのは当然だろう?」

 からかいを含んだ声にバッドの頭に血が昇る。

「くそっ!!」

 何も考えず、己を囲む淡いピンクの花弁を破ろうと拳を叩き付ける。

「アチッ!!」

 身を焼く熱に手を引っ込める。打ち付けた拳には火傷が出来ていた。

「それは火の魔力で作った檻。サラマンドラ族の炎の力で作ってあるから、貴方には破れないわ」

「風の種族である、お前がどうして!?」

 エルゼは風の種族、火の力は使えないはず。叫ぶバッドに、エルゼはふっくらとした唇に指を当てて、妖艶に微笑んだ。

「私はサキュバス。受け入れた男から貰った力を、一時的に自分の力として使えるのは知っているでしょう?」

「これだけの力を使う為には、アッシュからどう貰ったかというのは聞かない方が良いんだろうね」

「それは遠慮して下さい」

 頬を染めた義妹に睨まれて、ケヴィンが慌てて首を振った。

「……何故……オレが負ける……」

 バッドが項垂れる。

「……私一人なら、貴方へのトラウマから負けていたわ」

 エルゼが答える。

「でも、全てを踏み台にして、好き勝手にやってきた君と違って、彼女には彼女を助ける家族や仲間がいた。……独りだった、それが君の最大の敗因だよ」

 ケヴィンの言葉に、バッドががっくりと、魔法陣の上に膝をついた。 

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