10. 反撃
深夜のホテル。二十階の窓から見下ろす街並みは光に溢れ、街路樹もクリスマスに向けて、青いLEDランプが枝に巻き付けられチカチカと光っている。
宝石箱をぶちまけたような街並みを見下ろして、女は乱れた黒髪を手で撫で付けた。
途端にそれが薄茶、茶、黒の大きな斑点の散る柔らかな白い毛並みに変わる。乱れた胸元を見下ろし、そこに付けられたキスマークに心底嫌そうに顔をしかめる。
「ここから下は触れさせてないけどね」
気っ風の良い声が響き、猫の手に変わった手が胸元を整える、白いレースをふんだんに使ったキャミソールが紅の半襟を付けた小粋な紫の江戸小紋の着物に変わる。最後に頭に突き出た二つの耳を撫でて、女……お玉はふんと鼻を鳴らした。
金色の猫の瞳でベッドにだらしなく眠る男……バーン家の次期当主を見下ろす。
「……全く、手間を掛けさせてくれたもんだよ」
長とモウンの立てた作戦で、彼のおもちゃにされかけていた三人目の女を安全な実家に逃がした後、彼好みの地味な女に化け、同僚を装って付き合っていたお玉は、ソファに脱ぎ捨てられた男の上着を手に取った。
「……あった」
内ポケットからバーン家の紋章が付けられた封筒を取り出す。
「モノがモノだけに身に付けていると考えていたけど、思ったとおりだったね」
便箋を引き出し、内容を呼んで猫の瞳が縦に細くなる。
「これは、アンタの家がエルゼ抹殺を企んだ証拠として貰っていくよ」
お玉はひらりと便箋を翻し、封筒に戻すと着物の懐に入れた。
どんな夢を見ているのやら、にやにやと気持ち悪く男が笑いながら眠っている。
「精々、今の内に良い夢を見ておくんだね」
冷たい目で見下げて、鼻で笑う。
「気晴らしに、またポン太をイジろう」
『お玉姐さんまで、シオンのマネをしないで下さい! 私の名は法稔です!』
茶色の毛を逆立てて怒る年下の少年法師の顔を楽しげに思い描いて、お玉はするりと窓を通り抜け、寒風の吹きすさぶ夜の闇へと消えていった。
テナントが出て行ったオフィスビルの一角。まだ次の入居者が決まっていない部屋はガランと広く、リノリウムの床にはOA機器を繋ぐコードやコンセントがポツポツと生えていた。
隣の広いオフィス用の部屋は、次期当主の男が居心地を良く暮らす為に魔界から呼び出した豪奢な調度が並べてあるが、ここバッドに与えられた小さな部屋には隅に寝袋が一つ置いてあるだけだ。
その部屋には、数週間前から床に薄い緑色に光る魔法陣が描かれていた。中央にはバッドが立ち、指を組んで呪を唱えている。エルゼの術式を自己流に改悪したものに更に精神を弱らせる術式を加える。こういう攻撃系のじわじわと相手を侵食する呪文はバーン家に引き取られてから習った。
バーン家が彼に求めたのは、次期当主の若君のお守りだけでなく、表沙汰に出来ない事件を、こっそりと裏で片付ける始末屋の役目だった。それを師匠から習った術、エルゼから奪った術でこなしてきたのだ。
にも関わらず、バーン家の彼の地位はごく普通の使用人と同じ扱い。事件を片付ければ口止め目的にほんの少し報酬が与えられるが、普段は住み込みの使用人と同じく、ほぼ無給で仕える日々にほとほと嫌気が差していた。
魔法陣の緑の魔法文字に新たに青く文字が付け加えられる。
「全く、応用の自由に利く、汎用度の高い術式だぜ」
バッドは印を切り、最後の発動の呪文を唱えると目を開いた。これが自分の作ったものでないこと、そして作った彼女の才能に嫉妬し舌打ちする。
だが……。
「それもこれで終わりだ」
今の追加呪文によってエルゼは更に精神を弱らせるだろう。精神の強弱は術士の使う術に直接影響する。ただでさえ、魔力の低いサキュバス。しかも攻撃術は使えない。そんな彼女を倒すのは、もう赤子の手を捻るようなものだ。
「男に媚びを売るしかない種族の癖に……」
常に自分の上に立ち、師にも客にも絶賛されてきた女にギリリ……と歯を鳴らす。だからこそ、彼女の恋人役を演じ、うまく取り入って、自分では生み出せなかった高度な術も他の術士も羨むような職場も奪った。
なのに、今の自分の地位は床を磨くしか能の無い使用人と同じだ。上着の懐の指を入れ、ベイリアル家の書状があることを確認して笑む。
「今度はお前の命を踏み台に、ベイリアル家の私設部隊の魔術師長の座を手に入れてみせるぜ」
バッドの顔が歪む。冷たい哄笑が光る魔法陣の中に響き渡った。
「きました」
皐月家の離れの部屋で、座禅を組んでいたエルゼは目を開いた。
深夜過ぎ。すでに明日へと日付は変わっている。畳の上に彼女の描いた魔法陣の周囲には、モウンとアッシュ、玄庵とシオン、ケヴィンが立っていた。
魔法陣の中央で淡い紫の光に照らされながら操っていたエルゼが一角を指す。そこにまるで蛇がのたうつように術式が書き加えられる。
「精神を弱体化させる術じゃの」
玄庵がそれを読んで、鼻を鳴らした。
「粗悪な改呪じゃ」
術には手厳しい玄武族元長老の酷評に、隣のシオンが首を竦める。
「この様子だと、向こうも早々に決着を付けたがっているようですね」
アッシュの言葉にモウンが頷く。
「こちらはもう十分です」
さっきお玉が持って来た、バーン家の紋章の封蝋の付いた封筒をケヴィンが掲げた。
「手間を掛けさせてしまって本当に申し訳ありません」
「いえ、こちらも班員を救う為ですから」
モウンは魔法陣を操るエルゼに声を掛けた。
「こちらは明日の夜、補縛を決行する」
「はい。では、明日には手を出してくるように仕掛けます」
エルゼが印を組み、呪文を唱える。その呪に玄庵が「元に戻ったようじゃの」と微笑んだ。
「心配を掛けてすみませんでした」
エルゼが魔王軍に入ってから導いてくれた師に謝る。
「何、お前さんのことじゃ。そう心配はしとらんかった」
「では、死神の長に連絡を取るぞ」
エルゼの術の邪魔にならないように、モウンが携帯電話を取り出す。
「エルゼ、本当に一人でバッドと対決して大丈夫かい?」
恋人の心配そうな呼び掛けに、エルゼは顔を上げると笑んだ。
「大丈夫よ。それに、過去に決着を付ける為に私が一人でやりたいの」
稟とした美しい顔に、思わずアッシュが目をしばたく。
「大丈夫だ、アッシュ。オレもエルゼと一緒に行く」
あくまでも戦いの見届け人としてだけど……。肩を竦めるケヴィンに「お願いします」エルゼが頼んだ。
「連絡がついた」
モウンが携帯を閉じる。
「明日の夜、お玉が奪った封書をおとりに呼び出す。そこで俺とアッシュ、玄庵、シオン、死神達と協力して次期当主を捕縛する」
「はい!!」
「御意」
班長の命に班員達の声が答えた。
ガッシァ――ン!! 突然、隣の部屋から鳴った、何かが壊れる音にバッドは寝袋から飛び起きた。
「若君!!」
慌てて、飛び込むと次期当主の男が目を尖らせて、豪奢なデスクの引き出しを次から次へと引き抜いて床に投げ捨てていた。放り出されるごとに、引き出しに収まっていた宝石や細工をあしらった小物が床に散らばり、あるものは壊れる。
それらを振り返りもせず、男は
「無い!! 無い!!」
叫んで、次々と手を掛けていた。
「無い!!」
最後に着ていた高価なコートを取り、引き裂く。
ボッ!! 怒りの火気にコートに火が着き、メラメラと燃え上がる。赤い炎の光に男の血走った瞳が浮かんだ。
「若君、どうされましたか……?」
恐る恐る訊くバッドを男は睨み付けた。
「父上から送られた、エルゼ抹殺を命じた封書が無い!」
思わず息を飲む。
男は今夜、別れた三人目の女の代わりに手に入れた女とホテルに泊まり、一夜を過ごすつもりだったはずだ。
しかし、泊まった部屋で目を覚ますと、自分の隣で寝ていなければいけない女の姿は無く、上着の内ポケットに入れ、常に持ち歩いていた封書も消えていた。
微かに感じる催眠術の名残に
「……ハニートラップ……」
思わずバッドが呟く。
「トラップだと……!!」
更なる怒りに、燃える炎が大きくなる。
「……しかし、エルゼはお前が押さえている。一体、誰が!?」
魔界の第一種族に仕掛けるとなれば、それ相応の実力者でないと無理だ。
「今回の事件には死神がちらついてました。もしかしたら、死神の誰かが、人間の女を装って若君に近づいたのかもしれません」
同じ『要の三界』に生きる者として、魔族と冥界人は同じ実力を持つ。しかし、それでも魔界の第一種族に術を仕掛けるのは難しい。
「だから、同僚と称して、若君と付き合って少しずつ術を掛ける足掛かりを作っていたのかもしれません」
全く気付かなかった……。バッドは青冷めた。自分と若君、二人に気付かれず、これを行ったとすると相当な術士だ。
男の口元から憎々しげな歯の軋る音が漏れる。コートの炎が消え、闇が戻った部屋で、ピロロロ……小さな電子音が鳴った。
「なんだ」
机の上に放り出しておいたスマホを取り上げて、男が耳に当てる。
「うふふ……気がついた? ぼ・う・や」
発信口から聞こえる女の声に男の身体がビクリと震えた。そのまま、スピーカーボタンをタップする。部屋に、あの地味な女のものとは思えない蓮っ葉な口調が響いた。
「今頃、パパに怒られそうで冷や汗かいてるんじゃないのかい? 散々、女を食いモンにしてザマァないねぇ」
軽やかな笑い声が聞こえる。
「何の用だ」
男が必死に怒りを抑えて尋ねる。
「ふふ……返して欲しいんだろ? あの、パパのお手紙。だったら、明日夜、0時に関山市の市民グラウンドまで来な」
「良いだろう……。私をたぶらかしたことを後悔させてやる」
「若君!!」
バッドが思わず声を上げる。
「罠です!!」
間違いなく待ち受けているのは女だけでなく、他の死神や破防班もいるだろう。だが、男は血走った目のままバッドを睨み付けた。
「うるさい!! ここまで愚弄されて、黙っておけるか!!」
ぐぐっと拳を握る。
「奴らは私が引き受ける。お前はエルゼを殺れ。あの封書が公表されても、火の第一種族を汚そうとしたサキュバスの女が死ねば、取りなす者が出るかもしれぬ」
「……はい」
確かに、もうバーン家存続の道はそれしかない。
とっととトンズラしてぇ……。
しかし、バッドにはベイリアル家からも、エルゼを討つよう命が出ている。
「明日、あのサキュバスごと、この世界の破防班と死神を始末する」
男の声にバッドは渋々頷いた。
細い白い毛に覆われた指が、軽くスマホの通信ボタンをタップする。
「……煽り過ぎじゃないですか?」
呆れた声を出す後輩に「エルゼの術が良く掛かるように、隙を作ってやったんだよ」くすくすとお玉は笑った。
「完全に頭に血が上がって、あたし達を始末する以外考えられなくなるようにね」
「なるほど」
感心して答えると、ポン……もとい法稔がジャラリと数珠をまさぐった。
ここは長が懇意にしている寺の本堂。冥界の死神は寺社や教会に頼み、その世界に止まる用が出来たときは、施設に滞在させて貰っている。
今、本堂の床には玄庵が魔法陣を描いた白い布が敷かれ、脇に燭台の蝋燭の炎が揺らめいている。法稔が阿弥陀如来像に向かい合う形で、座禅を組み呪文を唱えていた。
「では、こちらも玄さんに頼まれていた仕掛けを……」
数珠を鳴らした法稔の背にお玉が「ねぇ……」しなだれ掛かる。
「あたし、今夜はすっごく嫌な思いをしたんだよ。ちょいと慰めておくれでないかい?」
江戸小紋の着物の襟に手をやる。垣間見える、なめらかな毛並みの肌を思わず吸い寄せられるように見つめた法稔が、ブンブンと茶色の耳が飛ばんばかりの勢いで首を振った。
「からかわないで下さい。私は大事な仕事の最中です」
離れて下さい。厳しい声を出す法稔に、お玉が笑いながら離れる。
「しっかりおやり」
「言われなくても」
法稔が太い尻尾で布を一つ叩くと目を閉じ、呪文を唱え始める。
「……つれないねぇ」
そんな少年法師の背中を眺めて、お玉が一言すねたようにボヤいた。
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