残照
八月のお盆の初め、朝早々と家を出た
霊園に入った段階で既に気温は真夏日を突破しており、今日も猛暑日にじりじりと近づく。そんな中で
「こっちは終わったわ」
モウンとアッシュと共に墓石を磨いていたエルゼが額の汗を拭い顔を上げる。黒い髪をアップに纏めた首筋にもいくつも汗の玉が浮いているが相変わらず女っぷりは微塵も下がらない。
「こっちも終わりじゃな」
優香とシオンと共に玉砂利の間に生えた雑草をむしっていた
「じゃあ、ボク、水替えてきます」
シオンが汚れた水の入ったバケツを持つとスタスタと墓石の間の石畳を歩き出した。
「今度はちゃんと水桶に汲んできてよ」
エルゼの声に「解ってま~す」と返事をし茶髪の少年が眩しい墓石の波に消える。
「しかし、今日も暑いな……」
顔の汗を首に掛けたタオルで拭うモウンの横で、こちらは火の一族、このくらいの猛暑も日溜りに等しいアッシュが涼しい顔でブラシや鎌といった掃除道具を片付け、花に線香、 ロウソクとお参り道具を出し始める。
「アッシュ、お兄ちゃんの送ってくれた花は私が生けるね」
アッシュが家から持って来た、細長い宅配用のダンボール箱を開けたのを見て優香は彼の側に駆け寄った。
「勿論だよ。これは
箱の中には色とりどりのスプレー菊と遥香の好きだった白い百合の花が入っている。 玄庵がロウソクに火を付け、エルゼがシオンの持って来た水をお供え用の花生けに入れる。優香はそれに遠く離れて暮らしている兄の心使いの花をそっと差し込んだ。
墓に花とロウソクを供え、線香を手向けて皆で手を合わせた後、墓の前に佇んだモウンに『先に行っていてくれ』と促されて五人は桶やヒシャクを貸している霊園の入り口近くの水小屋まで戻ってきた。水小屋にはやはり少しでも涼しいうちにと思ったのだろう人々が次々とやってきている。ヒシャクと桶を返した後、五人はモウンが戻るまで水小屋近くの木陰で涼んでいた。
「優香ちゃん、ちゃんと水分を取って」
林立する墓石の照り返しの中に長くいたせいか、帽子をしっかりかぶっていても優香の 顔は汗にまみれて頬が赤くなっている。家から持って来た水筒とタオルを渡すアッシュの横で
「この後、家に帰る前に皆で遥香さんのお気に入りだった心庵でお茶しょうか?」
エルゼが誘う。
心庵は皐月家の近くの裏通りに面した和風カフェ。故人の遥香がよく通っていた店で、 今では破防班の面々の行きつけの店にもなっている。和風のスイーツと一杯一杯丁寧に入れたコーヒーが売りで、魔界にいた頃、これまた皆の行きつけだった王都の外れの下町にある、エルゼの姉夫婦がやっている店に雰囲気がよく似ていた。
「ボク、抹茶パフェ食べたい!」
嬉しそうに手を上げるシオンの隣で「儂は蕎麦かりんとうのセットが良いの」と玄庵が顔をほころばせる。
「……しかし休み中は何かと物入りだからなぁ~」
渋い顔する家計担当にエルゼが豊な胸を叩いてみせる。
「大丈夫、この前のファンシーショップのバイト代が残っているから、私がおごるわ」
エルゼは前の事件で調査の為、ショッピングモールのファンシーショップでアルバイト店員をしていた。今は魔族に憑かれた
「バイト代を半分以上、家計費に渡して貰ったのに悪いな」
「良いって、今日は遥香さんを忍ぶ日なんだから」
申し訳なさそうなアッシュにエルゼがいつもの姐御肌で爽やかに笑って返す。穏やかな家族の会話の中に黙って冷えた麦茶を飲んでいた少女の小さな声が響いた。
「モウン……おばあちゃんのこと好きだったのかな?」
優香が水筒の蓋を閉じて振り向くとシオンが慌ててスマホを出していじり始める。年の功と亀の甲で見事に穏やかに笑って返す玄庵の隣で、アッシュが「今日も暑いな~」とわざとらしく空を見上げる。優香のどこか思い詰めたような顔にエルゼが優しく微笑んだ。
「優香、気がついてたんだ」
「……うん、ずっと前からなんとなく……」
「班長、不器用だからね」
遠回しの肯定に優香がコクリと頷く。
破防班、ハーモン班がこの世界にやってきて、日本ギルドで世話役を務めていた魔女、遥香の家に住み始めてから三十年。本人は隠していたが微かに見え隠れしていた美しい世話役への切ない思いは、優香がやってきた九年前にはすっかり穏やかな慕情に変わっていた。それでもこの人一倍感受性の強い少女は感づいていたらしい。
「勿論、班長は遥香さんや遥香さんの家族に迷惑を掛けてまで自分の思いを遂げようとは しなかったよ。遥香さんの旦那さんもうすうす気付いていたけど、班長を信頼して気付かないふりをしていてくれたし、旦那さんが亡くなった後も班長はずっと遥香さんを見守るだけで、決して自分の思いを打ち明けることは無かった」
初めての恋をずっと押し隠していたモウンを庇うアッシュに「それは解ってるよ」と優香が笑う。
家の縁側でよく一緒にお茶をすすりながら庭を眺めていた祖母とモウンを思い出す。二人の間に漂っていた穏やかな空気、もし修羅場めいたことが過去にあったのなら、モウンの性格からもあれほどまでに優しい空気は漂わないはずだ。
「じゃあ、私を育ててくれているのは好きだったおばあちゃんに頼まれたから?」
「それもあるけど……班長は本当に優香のことを娘のように大切に思っているのよ」
エルゼがきっぱりと答える。アッシュも玄庵もスマホからチラチラとこちらを伺っていたシオンも真剣な顔で頷いた。
「そう……」
それも今度の事件でよく解った。凛が魔族に憑かれた理由が琢磨の結婚に感じる寂しさだと話すとき、どうしても彼女の寂しさが自分が感じているモウン達、優しい異形の家族がいつかは魔界の都合でどこかに行ってしまうのではないかという寂しさと重なって、最後には優香は泣き出してしまった。泣きじゃくる彼女をモウンが太い腕で抱き締めて『大丈夫だ、お前が大人になるまで絶対に俺達はここにいる』と約束してくれたのだ。
そうだよね……。
いつも自分を見てくれる優しい目が頼まれただけとは思えない。優香は小さく息をついた。
「エルゼ姉さん、私、おばあちゃんが好きだったくずきり食べようかな」
「良いわね。私も優香と一緒にしようかしら」
エルゼが優香の髪を撫でて柔らかく微笑む。
だけど……。
優香の胸の中を昨日から燻り続けている考えが過ぎる。それを打ち払うと、まだ心配そうな顔で自分を見ている家族達に優香は明るく笑ってみせた。
カタトン……、カタトン……。軽い車輪の音が電車の中に響く。盆休みの帰郷や旅行のせいか在来線の車内はガラガラに空いて、冷房がいつも以上に効いている。余り冷風が当たらないよう風除けをしてくれているモウンの隣で優香は電車の揺れに身を任せていた。
『すまなかった、ちょっと遥香に優香のことを話してきたのでな』
わざとらしい顰め顔で帰ってきたモウンを皆で素知らぬふりで迎え、一同は帰りの電車に乗った。向こうの座席では盆の挨拶も兼て明日から泊まりに来るアッシュの父母を迎える為、連日掃除に勤しんでいるエルゼが、恋人の肩にもたれてうたた寝をしている。その向かいにはシオンがスマホの画面を、玄庵が持って来た本を読んでいた。窓の外の飛ぶ景色を眺めるモウンの顔を見上げながら優香の頭の中には昨日掛かってきた兄、正樹との電話での会話が繰り返し浮かんでいた。
『元気でやってるか? 優香』
正樹は今年高校二年生。中学生になってスマホを持つようになってから両親に隠れて時々、離れて暮らしている妹を心配して電話を掛けてくれる。
『うん、元気だよ。私はこっちでちゃんと家族のような人達と暮らしているから』
伺うような兄の声に答えると兄は両親や妹の話をした後、最後に躊躇いながら話し出した。
『オレ、最近、親父は優香が嫌いでおばあちゃんに預けたんじゃないって思ってるんだ』
『えっ?』
『親父達を見ていて解ったんだけど、親父達は自分達で優香を育てるのが怖くて手放したんだと思う』
『それって私が魔女だから?』
『……いや』
しばし沈黙が電話口に漂う。正樹は小さく息を吸うような音を立てて続けた。
『親父の小さい頃のアルバムを見て解ったんだけどさ、優香はおばあちゃんにそっくりなんだ。顔立ちも笑顔もなにもかも』
『…………』
『だから、親父は怖かったんだ』
モウンはまだぼんやりと物思いにふけるように窓の外の青空を見ている。縁側で穏やかに話をしていた遥香とモウン、その時の祖母の優しい笑顔を思い出す。ガタンと大きく電車が揺れる。ふらついた優香の身体をモウンが肩を抱き、支えてくれる。
祖母と祖父はとても仲が良かったと聞いている。先の話で玄庵が教えてくれた。自分の横恋慕に知らぬ顔をしていてくれていた祖父をモウンは今でも尊敬していると。
でも、そのおじいちゃんがいなくなった後は……。
また電車が揺れ、大きな手が優香を庇ってくれる。
夫亡き後、いつも黙って自分を守ってくれた、この不器用で優しい生真面目な異形の男を祖母もいつの間にか思うようになってしまったとしたら……。
『親父は何故かおばあちゃんをひどく憎んでいるから』
兄の言葉が頭に響き、思わず手を置いたパンツの生地を握り締める。
お父さんは私を育てるのが怖かった。おばあちゃんへの憎しみを私にぶつけてしまいそうで……。
電車のアナウンスが駅の名前を告げる。降りる仕度をする異形の家族に気付かれないよう優香は一つ重い息をついた。
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