7. 悪魔の囁き

 八月最初の日曜日、凛は朝から気持ちが高ぶっていた。この前、真琴に買って貰ったチュニックを着ると、ハーフパンツを履き、洗面所の前で念入りに日焼け止めのクリームを顔に塗る。唇に淡いピンクのリップを塗って、少しだけグロスを重ね、お気に入りのバッグを手に玄関へ向かった。

「なんだ? 凛、朝からめかし込んでデートにでも行くのか?」

 ようやく起きてきた琢磨が廊下で出くわした妹に目を見張る。

「ううん、ちょっと友達と遊びに行くの。お昼御飯も一緒に食べるから」

 最後の言葉は居間の母に向け、凛はラメのリボンの付いたサンダルを履いた。

「お兄ちゃん」

 タタキに立つとパジャマ姿の兄を振り返る。

「行って来るね。お兄ちゃんを馬鹿にしたアイツを絶対に謝らせてやるんだから!」

「おい、凛!?」

「いってきます!!」

 妹の華奢な背中が眩しい夏の日差しの中に駆け出る。

「……まさか……」

 異様に弾んだ様子に、琢磨の脳裏に今朝、夢に見たいかつい顔の男の姿が浮かぶ。男は今、彼女がしていること、置かれている現状、そして彼女が胸に秘めている、ある思いについて淡々と彼に語って消えた。

「……そんな……凛が……」

 その妙にリアルな夢を思い出し、妹の消えた玄関を眺める。ぐっと口元を閉めると琢磨は足早に洗面所へと向かった。



「凛が動きましたぞ……」

 日曜日の午前、まだ開店したばかりの人気のないフードコーナーの端の一角に座り、テーブルの下で印を組んでいた玄庵が告げる。 正面の班長が頷いて、ファンシーショップに目をやる。

 まだ客の無い店ではレジに立っている啓太の向こうで、エルゼが棚に商品を並べている。隣では優香が、まばらに客を乗せて上がってくるエスカレーターを眺めていた。

『どうやら、魔族は今日中に決着をつけるつもりのようですな。夢の中でしきりに凛の父親への復讐心を煽り、彼女に直接手を下すよう、そそのかしておりました』

 定期的に凛を探っていた玄庵の報告に、優香と破防班の面々はアルバイトに行くエルゼと共にモールへとやってきた。隣のゲームコーナーではシオンがゲーム機の間をぶらついており、斜め前の書店コーナーにはアッシュが本を見るふりをして周囲を伺っている。

「今、凛が電話を掛けました……」

 玄庵の眉間の皺が深くなる。

「どうやら魔族に完全に意識を乗っ取られておりますな。電話の相手は玉置家に居る娘の美咲。自分の犯行を彼女に自慢気に話しています……」

 優香が思わず顔を上げる。顔を強張らせた少女の肩をモウンが優しく押えた。

「盗んだ物の一部を魔族に渡され、自分の部屋の天袋に隠しているようです。美咲を見つけられるものなら見つけてみろと煽っています」

「シオン」

 モウンが部下の名を呼んだ。

「はい」

 シオンの声が小さく三人のいるテーブルに流れる。

「凛の家に向かう美咲を止めろ。お前の得意の手でな」

「はい!」

 シオンがゲームコーナーを離れ、トイレへと向かう。人目につかないトイレの個室で凛の家の近所に飛び、美咲を待ち伏せするつもりなのだろう。山根市の少女達のアイドル『紫苑しおん様』に声を掛けられて、飛び付かない少女はまずいない。

「シオンで今までの凛と魔族の犯行の証拠が見つかるまでの時間を稼ぐ。後は今から起こる凛本人の犯行をどう止めるかだが……」

「魔族は今みたいに凛さんを操って万引きさせるの?」

「いや……」

 優香の問いにモウンは小さく首を振った。

「魔族は凛の良心を押え、さんざん煽りはするだろうが、凛自身の意志で万引きをさせるだろう。その方が篠原家の家族に与えるダメージも、後で正気に返った本人に与えるダメージも大きい」

「そのようですな。魔族が凛の意識を戻しました。再び煽りつつ、こちらに向かわせてます」

「私に優香を貸して貰えませんか?」

 エルゼの声が聞こえてくる。

「優香を通して、凛の心を平常に戻してみます」

「よし、それなら魔族との引き離しもやりやすい」

 モウンの承諾に優香は席を立った。ファンシーショップへと向かう。その背中をモウンが小さく呼び止めた。

「何?」

「俺達はちゃんとここにいるからな」

 モウンの静かな声に玄庵が微笑んで頷く。

「うん」

 優香が笑顔を二人に向け、駆けて行く。モウンは再び部下達との話に戻った。

「その後、凛を眠らせ、俺とアッシュ、玄庵で凛の精神世界に入る。エルゼと優香は外で待機していてくれ」

「そして、もしものときは『彼』に事情を話して力を貸して貰うんですね」

 エルゼの確認の声に「そうだ」班長が答える。

「解りました」

 エルゼの声が消えたとき、めかし込んだ凛がエスカレーターに乗って現れた。



 ――『どなたですか?』

 凛を見た男は黒い眉を顰めると、怪訝そうに突然家にやってきた少女を上から下まで眺める。

『美咲なら、今日は母親と買い物に出掛けてますが』

 どうやら、娘の友達と思ったらしい。自分と母親の違う妹と思われる名前に凛に手が震える。

『あの……私、篠山凛です……あなたの別れた妻の子供の……』

 十二年ぶりに会う父をどうしても『お父さん』と呼べず、凛は回りくどい言い方で自分の事を告げた。

『篠山凛……?』

 男の顔に戸惑いが浮かんだ。――


 凛は弾んだ足取りで今まで立ち寄っていたフードコーナーの脇を抜け、ファンシーショップへと入った。スマホで何か話していた啓太が彼女をチラリと見て、小さく顔を強張らせる。その顔を睨みつけると店内を回り始めた。

 あの顔を泣き顔にしてやる。

 今朝見た夢に、凛の口元が醜く歪む。夢の中の彼は、凛にひたすら頭を下げ、あの言葉を取り消し、謝り続けていた。

『そうよ、凛。アイツに直接、凛の手で罰を与えてやりましょう……』

 女の声が頭に響く。『大丈夫、凛のお父さんですもの。何をしても許してくれるわ』

 凛はゆっくりと獲物を定めるように左右の棚を伺った。右手の棚に陶器で作られた人形や動物の人形が並んでいる。どれもほっこりとした可愛らしい人形達だ。その一角、いくつもの猫の人形が並んだコーナーで凛は足を止めた。コロンと仰向きで寝ている猫。うつ伏せでお尻を上げて何かを狙っているようなポーズを取っている猫。定番のまねき猫。可愛い猫の人形に凛の顔に彼女本来の笑みが浮かぶ。

 これ、すごく可愛い……。

 黒と茶色のブチ模様の三毛猫がゆるやかに身体を曲げて寝そべっている。そのお腹には小さな子猫が ピッタリと寄り添って眠っていた。安心しきったような子猫の寝顔とそれを見る母猫の人形に思わず手を伸ばした凛の頭に声が響いた。

『じゃあ、それにしましょう』

 途端に凛の口元が引きつるように歪む。 凛は薄い笑みを浮かべると、その親子の猫を掴んだ。



『いくわよ、優香』

 頭の中でエルゼの声が響く。

『うん』

 ファンシーショップの棚の影でエルゼと共に凛の様子を伺っていた優香は、一旦心をエルゼに預けた。自分に術が掛かる軽い揺らぎを感じた瞬間、凛と優香がシンクロする。

 途端になだれ込むジリジリとした怒りと緊張感、ドス黒い復讐への悦びと彼女を支配している魔族のねっとりとした気、『悪魔憑き』の人間の負に堕ちた感情に優香の喉を吐き気が込み上げる。

『すぐに楽になるから』

 エルゼの優しい声が聞こえる。口を押えて頷いた優香に彼女は平常心を取り戻す浄化の術を掛けた。



 ふわりと高原を渡る風のような爽やかな風が、胸を吹き抜ける。

 さすが、エルゼ姉さん……。

 エルゼそのものが風になって吹いてくるような気持ちの良い風が、吐き気をもよおす邪気を払い除けていく。優しい風に優香は心を委ねた。こうすることで凛の心にも同じ風が吹き抜けているはず。祈りながら、優香は凛とエルゼを繋いだ。

 凛の中の魔族がエルゼの術に気付き、負の感情を煽る術を使って、圧倒的な力で凛と優香を支配しようとする。だが、圧されようともエルゼの術は、小さな術の隙間から吹き込むように侵入してくる。その見事な施術に魔族が焦るのが優香にも解った。

『私は魔力そのものが低いから』

 エルゼは時々そう口にする。

 魔族は種族等、生まれつきによって力の差の格差が激しい。風の一族の底辺に位置するサキュバス族のエルゼは、サキュバスとしては強い力を持つが、他の魔王軍の術士には全く及ばない。だが、コントロールと応用力においてはエルゼは抜きん出た才能を持っている。

『術』の一族の元長老で術については並ぶ者がいない玄庵が 『これほど繊細な術使いは儂も見たことが無い』 と賞賛するほどの腕だ。

 相手の使う術を瞬時に読み、綻びを見つけ、それに合わせて自分の使う術を組み直す。凛を支配する魔族がどう押さえつけようとも、それをかい潜りエルゼの術は確実に凛に届く。柔が見事に剛を制していく。そのしなやかさに魔族がついに根を上げた。

『今よ!!』

 エルゼの声に優香がしっかりと凛の心を手繰り寄せる。エルゼの術が優香を通してどっと凛の中の淀んだモノを吹き飛ばした。



「私……今何を……」

 掴んだ親子の猫の人形をバッグの中に落し入れようとした凛の手が止まる。

「……何をしようとしてたんだっけ……」

 震える声で呟きつつ、人形を掴んだ自分の手を見る。どうやら魔族に操られていたとはいえ、自分のこれまでの行動の記憶はあるらしい。凛の顔がみるみるうちに青ざめ、体が震え出す。ガクガクと震える手で彼女は人形を元の位置に戻そうとした。

『……正気に戻ったみたい』

 優香がほっと息をつくと、肩に暖かい手が乗る。

『自分の過ちにすぐに気が付いたみたいね。もう大丈夫。これなら魔族との引き離しも スムーズにいけるわ』

 エルゼが後悔に苛まれる少女の横顔に微笑む。

『二人ともご苦労様』

『よくやった。後はこちらに任せてくれ』

 アッシュとモウンの労いの声が二人の頭に響いたとき、突然黒い影が棚の向こうから凛の横に踊り出た。

「見つけたぞ!! この万引き犯が!!」

 嬉々とした男の声が響き、まだ猫の人形を掴んだままの凛の細い腕を掴み上げる。顔を上げた凛の目が大きく開き、唇が震える。そこにあったのは彼女の父、啓太の恐ろしいような笑顔だった。



 ――『篠山凛……』

 一瞬、男が何かに気が付いたように目を開くと、ふっと冷たい笑みを口端に浮かべる。そんな男の表情の変化には気が付かず、凛は俯いたまま、幾度となく一人で練習した言葉を紡いだ。

『あの……今度、お兄ちゃん……あなたの息子の篠山琢磨が結婚するんです。お兄ちゃん、高校を出てから頑張って働いて私やお母さんやおじいちゃんやおばあちゃんを支えて……。だからあなたから……お父さんから結婚するお兄ちゃんにお祝いの言葉を掛けて貰えませんか?』――


 これ……何……?

 優香の頭に夏の日差しの下、見知らぬ玄関で父親である啓太に切ない声で訴える凛の声が聞こえる。

 これって……凛さんの記憶……?

 凛はどもりつつも頼むと、ぐっと唇を噛み、啓太の返事を待つ。

『誰の差し金だ……』

 低い声が押し出されるように照り返しの眩しいエントランスに響いた。――



「待って下さい!!」

 凛の腕を掴み、いつもミスをした部下を叱るときの嗜虐の笑みを浮かべた啓太に、たまらずエルゼは駆け寄った。

「まだ盗ってません!! ちゃんと戻そうとしました!!」

「盗ろうとしたのは事実だ」

 すっかり血の気の失せた顔で自分を見上げる娘に、啓太はニヤリと笑ってみせた。

「さっき、美咲のスマホに今までの自分の犯行をほのめかす電話をしたな。今、妻と美咲がお前の家に確認に向かっている。見つかり次第、警察に突き出してやる!」

 凛が瞳を大きく開く。「そんな……!!」 身に覚えの無い自分の言動に唖然とした後、凛は顔を伏せた。

「……ごめんなさい……」

 掠れた声が空気を震わす。魔族の負の術が解け、よみがえった良心にそれしか言えないのだろう。身を縮込ませてしまった凛を「今更謝ってどうなる」啓太が嬉しそうに責め始めた。啓太のいつものネチネチした口調が続く。

 その様子にエルゼはぐっと拳を握った。凛が今まで直接手を下してないとはいえ魔族と共に盗みを働いたのは事実。魔族に心を操られ、そそのかされた結果なのだが、そんな理由は通用しない。

 シオンが、うまく二人を止めていれば良いけど……。

 時間が稼げれば、凛から魔族を引き離した後、凛の部屋の天袋に隠した盗品と魔族がどこかに隠している盗品を、彼等が使ったのと全く同じ術でファンシーショップの倉庫の隅にでも戻すことが出来る。

『班長……どうしましょう!?』

 目の前の親子のやりとりに焦りながら、エルゼは班長に指示を仰いだ。



 目の前で繰り広げられる親子の諍いは優香の脳裏で繰り広げられる凛の記憶の中の親子の諍いにぴったりと重なっていた。


 ――『洋子の差し金か? いや、あのとろい女がそんな手を思いつくはずがないな。 だとすると琢磨か?』

 足下に飛んできた唾に凛が驚き、顔を上げる。

『長くほったらかしにしてきた父親に妹を使って、結婚祝い名目で金を取ろうという気か!?』

『そんな!?』

 凛が大きな声を上げる。

『結婚資金はお兄ちゃんが自分で貯めました! 豪華な式は出来ないし、新婚旅行も出来ないけど、マコちゃんはそれで良いって言ってたし、マコちゃんの御両親も二人が良いなら良いよって言ってくれたし……!』

 必死に兄を庇う凛を啓太が冷たい目で見下ろす。

『だったら、何故お前がここにいる!?』

『私はただ、お父さんに頑張ってきたお兄ちゃんを誉めて欲しくて!』――


 目の前ではただ黙りこくって顔を伏せている凛を啓太が責めている。自分を警察に突き出し、母親と兄に損害賠償を求めると嬉々と話す啓太に凛が耐え切れず唇を震わせた。

「……本当にごめんなさい…お父さん……」


 ――『お父さん、お願いだからお兄ちゃんにお祝いの言葉を言って下さい!!』

 目を潤ませて頼み込む娘に啓太が残酷な笑みを浮かべた。

『琢磨……? 凛……? 誰のことだ?』

 啓太はわざとらしく首を捻るとドアのノブに手を掛けて引いた。閉まるドアに凛がすがる。

『俺にはお前のような娘はいない』――


「俺にはお前のような娘はいない」

 過去の啓太と今の啓太、二人の口から冷たい言葉が届く。凛の瞳が大きく開く。硬直してしまった彼女に啓太がうっすらと笑みを浮かべた。優香を通して、過去と今の凛と父親のやりとりを見ていたモウン達が思わず息を飲む。

「父親がなんてことを……」

 言葉を詰まらせるアッシュの横で 「玄庵、凛を眠らせてやれ」 モウンが玄庵に指示を出す。

 次の瞬間、凛と優香の体がくたりと糸が切れた人形のように床に倒れた。



 絶望の冷たい闇に染まった心の中に、若い魔族の女のかん高い笑い声が響く。彼女は自分の前で膝を抱え、うつろな瞳をしている少女を満足気に見下ろすと、この精神世界に入り込んできた三人の異形の男達に嘲るような笑みを向けた。

 黒い軍服に黒いマントを着けた牡牛頭の筋肉質の男に白い軍服に白いマント姿のトカゲ男、深緑のローブを着込んだ亀魔人の老爺。左胸に魔王印である蝙蝠の羽を広げた一つ目の紋章をつけた男達の顔には、一様に怒りが浮かんでいる。

「……ようこそ、破壊防止班の方々……」

 女が楽しげに少女を後ろから抱き締める。

「……でも、遅うごさいましたわね……」

 腕の中の少女に残酷な笑みが浮かぶ。

「彼女の心はたった今、全て私のモノとなりましたわ。彼女の素敵なお父様によってね……」

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