6. 想い
――『はい』
男の声が窓から漏れた。凛の身体に緊張が走る。汗ばんだ手でショルダーバッグの金具を握り締めながら待つ彼女の耳に重い足音が聞こえ、 鍵を外す音が鳴った。凛がドアから二、三歩後ろに下がる。
『どなたですか?』
ガチャリと外開きのドアが開いて、サンダルを突っかけた男の足が出てくる。
顔を上げた凛の目の前にあったのは、あの夜の玄関より老けた男の顔だった。――
アブラゼミの合唱の中に澄んだヒグラシの声が混じり天へと駆け上る。それに合わせるかのように明るい女性の笑い声と楽しげな話し声が古びた家から響いてくる。力封じのペンダントを胸の前で両手で握り締め、自分に魔法を掛けて気配すら最小限に押えながら、優香は先が袋小路になった狭い路地のブロック塀に張り付いて、その声を聞いていた。
今日も真琴さんが来ているみたい……。
ここ数日、篠山家の周辺に通っているせいで家族構成も大体解ってきた。あの明るい声の人が今度、凛さんのお義姉さんになるという真琴さん、そして凛さんに優しい声を掛けていたのがお兄さんの琢磨さん。少し老けて見えるが、柔らかな顔立ちの人がお母さんで、あの時、仲良くお買い物に行っていたのが、お祖父さんとお祖母さん。ここには家族が肩を寄せ合うように暮らしている、優香の思う理想の家族があった。
なのに……凛さんは魔族と一緒に万引きなんてしている。
それをあの家族が知ったらどんなに悲しむだろう。
「ずるいよ……」
思わず零した言葉が夕闇の中に紛れ消えていく。今は異形の家族に囲まれ暮らしている優香には、離れた地方都市に人間の家族がいる。しかし、父は優香が五歳のとき不思議な力を持つ娘を、祖母、遥香の家に連れて行った。
父と祖母が奥の部屋で何かを話をしているとき、相手をしてくれていたザリガニ少年と庭で遊んでいるうちに、白い夏の光の中、父の背中と黒い影が、祖母の家の木戸から出て行ったのを覚えている。
『お父さん!』
木戸を飛び出て追いかける優香に振り向きもせず、父は陽炎の立つ道を遠ざかっていき、気が付くと優香は祖母の腕の中で異形の者達に囲まれて泣いていた。
以来、父と母とは数回、どうしても学校等の手続きが必要なとき以外会ってない。あの日、祖母の家に行く前に『何で優香だけお父さんと出掛けるんだよ~!!』と怒っていた兄とは一度だけ会ったことがあるが『あたしも行く~!!』と泣いていた妹とは、それっきりだ。
そして、優しく育ててくれた祖母も去年の春、二度と帰らない場所に逝ってしまった。
「ずるい……ずるいよ……」
家から聞こえてくる楽しげな声に視界が潤み始めたとき、大きな暖かな手が優香の肩に乗った。振り向くと、いつものいかつい中年男性姿のモウンと、少年姿のシオンが後ろに立っている。
「モウン……、シオン……」
「シオン、見張りの交代を頼む」
「はい」
モウンは心配そうに彼女を見るシオンをその場に残すと、そっと優香の肩を抱いて歩き出した。
近くの公園は人気が無く遊具が薄紫色の闇にうっすらと覆われていた。誰かの忘れ物だろうか、砂場に赤いスコップが一つ落ちている。モウンは黙っている優香をベンチに座らせると隅の自動販売機に行き、缶を二つ買って戻ってきた。
「ありがとう」
差し出されたミルクティーの缶を受け取り、礼を言う。モウンは隣に座るとブラックコーヒーの缶を開けた。
「ずっとあの家に通っていたんだな」
一口飲んで独り言のように優香を見ずに話し掛ける。
「……モールで凛さん達を見掛けて……帰るところをつけたの」
あの時、優しい二人に挟まれた彼女が苛立たしくて、追わずにはいられなかった。
「そうか。で、声は掛けてないのだな?」
「うん。凛さんの家族を見てたら何も言えなくて」
それは家族を失ってしまった少女の遠慮もあったのだろうか。モウンが一つ息を吐く。
「何であんなことするの? あんなに優しい家族が皆、凛さんのこと思っているのに……」
優香はモウンの太い腕に手を置いた。
「もしバレたら、どんなに皆傷つくか……それなのに……!!」
段々、優香の声が涙声になっていく。腕に小さな爪の食い込む痛みを感じながらモウンは震える少女の肩に大きな肩を寄せた。
凛の事情が事情だけに事件の話がますますしづらくなっていたのだが、やはりアッシュの言うとおり、話してしまった方が良いだろう。自分の理想の家族が『破壊』されそうな予感に怯えている少女に、これ以上黙っているのも酷だ。
いっそ、巻き込んでしまった方が優香も気が楽かもしれん。
優香の泣き声が小さくなったところでモウンは彼女の手から缶を取り上げると、プルトップを開けてもう一度渡した。優香がしゃくりあげながらも缶に口をつける。
「凛は父親に捨てられた娘だ」
モウンの突然の言葉に、ミルクティーを飲む優香の肩がピクリと震える。
「え?」
「正確には元妻の洋子と琢磨、凛が。だがな」
モウンはコーヒーを飲み干すと大きく息を吐いた。
「凛の父、玉置啓太と凛達兄妹の母、篠山洋子は十二年前、凛が五歳のときに離婚した。 原因は啓太の浮気。離婚当時、啓太には愛人とその間に娘がいた」
「玉置って……あのファンシーショップの主任の?」
ネチネチと自分と真奈を責めていた中年男性を思い出して優香が顔を顰める。
「そうだ。そして、あの日真奈を連れ出して万引き犯を捕まえようとした娘、美咲は当時啓太の愛人だった、今の妻の娘だ」
優香の耳にヒステリックに彼女を責めていた少女の声がよみがえる。
「だが、啓太は自分に愛人や子供がいることを隠して洋子と離婚した」
「どうして……?」
「啓太はこれから捨てる家族に、少しでも余分な金は渡したくなかったのだ」
啓太に愛人がいた。そういう理由なら洋子は啓太とその愛人から慰謝料を取ることが出来るし、財産分与も有利になる。だから啓太は愛人と娘のことを隠し通し、性格の不一致という理由で協議離婚へと持っていった。
「養育費もなんだかんだと理由をつけてほとんど払わなかったらしいな。今の妻に言っていたようだ。『捨てたモノに金を払う馬鹿はいない』と」
「ひどい……」
優香はギュッと缶を握り締めた。あの日ファンシーショップを睨んでいた凛の鋭い目はそのせいだったのだ。
「じゃあ、凛さんはそれでお父さんの店で万引きを?」
「凛の復讐心を知って魔族にそそのかした、と俺達は睨んでいる。離婚した妻の娘が父親の勤める店で復讐の為に事件を起こせばスキャンダルになる。それを使って、魔族は篠山家と玉置家、二つの家族を『破壊』するつもりだろう」
「そんな……!! そんなのダメだよ!!」
さっきの楽しげな篠山家の団欒の声に思わず悲鳴を上げた優香の頭を、モウンが優しく撫でた。
「凛の事件が公になる前に、なんとか魔族を凛から引き離す。既に用意は進めている」
優香がほっと息をつく。
「だが、ちょっと苦戦していてな。優香も手伝ってくれ。やはり同じ年頃で感応力の強い魔女がいたほうが彼女と魔族を分離させるときに有利だ。頼むな」
モウンの目が自分を見つめる。あの日、夏の日差しの中、去っていった背中の代わりに、ずっと自分を見ていてくれた目が、そこにあった。
「うん」
優香は頷く。優しい瞳に小さく笑って見せる。モウンが、ほっとしたように降ろした肩に優香はそっと寄り添った。
「ずっと事件のことを黙っていてすまなかったな」
家への帰り道、ぽつぽつと街灯がつき始めた道を歩きながらモウンが優香に謝る。
「ううん。事件の事を話してくれないときは、私に聞かせたくない話なんだってことは解っているから」
それはもう九年も、この優しい家族達と暮らしていれば十分に解る。ヒットチャートの軽い音楽が優香のバッグから鳴った。優香がスマホを取り出す。
「アッシュからだ」
ディスプレイの着信の文字を読み、スマホを耳に当てる。
「もしもし、アッシュ? …………ごめんなさい、今帰っているところ。うん、うん、もう少し待って、もうちょっとで着くから。…………えっ? エルゼ姉さんが迎えに行こうかって言ってるって? ううん、大丈夫。今、モウンが一緒だから。うん、遅くなってごめんなさい。直ぐに帰ります」
通話を切ると優香が嬉しそうな顔でモウンを見上げた。
「帰るのが遅いって、叱られちゃった」
小さく肩を竦めて、おどけた顔で笑う。
「エルゼ姉さんと玄さんも心配してるって」
「そうか」
少女の笑顔にモウンも口端を緩める。
「良かったな」
「うん」
明るい声が返る。二人は家へと足早に暮れる街を歩いていった。
今日も午前十時には気温は真夏日に達し、カッと照りつける夏の日差しが、皐月家の家屋と庭木の影を黒々と貼り付かせている。昼間はテレビの音が聞こえなくなるくらいうるさく鳴く蝉時雨の中、奥座敷の玄庵の部屋に皆が集まっていた。
古書がズラリと並ぶ部屋には、白い大きな布が敷かれている。布には黒々と玄庵とエルゼの手によって魔法陣が描かれ、真ん中には優香が目を閉じて正座し、その斜め右には玄庵が、斜め左にはエルゼがそれぞれ座禅を組んで目を閉じ、印を結んで呪文を口の中で唱えていた。
二人の小さな声が流れる中、周りにはモウン、アッシュ、シオン三人が魔法陣の中の三人の様子を眺めている。じっとしていてもじっとりと汗が出る。魔法陣の三人の額に汗の玉が浮かぶ。
「よし、行くぞ、エルゼ」
「はい」
玄庵とエルゼが同時に印を切った。力の波動が魔法陣の描かれた文字を通り、二人が大きく息をつく。
「繋がりましたぞ。やはり優香がいるとやりやすい」
玄庵がやれやれと肩を下ろし、感心したように少女を見る。エルゼが中央ににじり寄り、細い指で軽く優香の額を弾いた。
「ご苦労様、優香」
エルゼの労いの声に、優香がほっと息を吐いて目を開けた。
「ううん、私は只の中継だから」
それでも二人の術士の相手は疲れたらしく、足を投げ出して天井を仰ぐ。
「これで魔族と凛の動きはこちらに筒抜けですぞ」
玄庵が満足げな声で周りに告げた。二人で優香を凛にシンクロさせ、その優香に術を掛けることで魔族に邪魔されることなく、自分達が凛の精神世界に干渉出来る足場を作ったのだ。これで二人はいつでも凛に術を掛けられ、その様子を知ることが出来る。
「確かに魔族には余裕がありますな。しかし、ちらつく破防班の影に、そろそろ事を終わらせたがっているようでもあります」
今探った魔族の様子を報告する玄庵にモウンが腕を組む。猛暑の中、神経を使う仕事をこなした三人にシオンが固く絞った濡れタオルを配り、アッシュが台所から冷たく冷やしたスポーツドリンクが入ったグラスを持って来る。玄庵が布を片付け、六人で車座になって一休みする。落ち着いたらしい三人を見て、モウンが口を開いた。
「今日から凛の見張りを解く」
「行動を起こしますかね?」
アッシュの問いに玄庵が笑みを浮かべた。
「間違い無く数日中に起こすじゃろう。さっきの様子だと、もう十分期は熟しておるようじゃしの」
「最後の仕上げとして篠山家を完璧に『破壊』する為、魔族は何らかの手を使って凛の犯行をバラし、仕上げに彼女に直接、万引きをさせようとするはずだ。これからはモールを中心に見張る。エルゼはそのまま店にいてくれ」
「はい」
「凛は根は真面目な娘だ。自ら手を下すとなると必ず葛藤が起こるはず。その隙をついて、彼女の中に入り込み魔族と引き離す」
班長の赤い瞳が部下達を見回し、優香の前で止まった。
「優香もこれからは玄庵とエルゼのサポートとして俺達と共に行動してくれ」
「うん、解った」
でも……。 優香は小さく首を傾げた。 今、シンクロした凛の心の中が父親への怒りであふれていたのは 解る。しかし……。
「……本当に復讐だけかなぁ……」
少女の声にモウンが怪訝そうに眉を顰める。
「優香は違うと思うのか?」
「……うん」
優香が考え込みながら頷く。
「怒りが強くてよく解らなかったけど奥の方にもっと何かあったような気がした。それに魔族がしっかりと絡みついている気がしたの」
「……他に……か」
顎に手をやり唸る。この少女の読みは馬鹿に出来ない。前の呪いの人形事件も、シンクロした相手の少女の思いを正確に確実に読み取ることが出来た。
「復讐以外の何か……。魔族の餌になるもの……」
呟くモウンの脳裏に、幼い優香が必死に自分を捨てた父親を探していた姿が目に浮かぶ。
「まさか、あの父親をそれでも慕っているとか……?」
その報われない情念も、また魔族の好むものだ。だが、優香は静かに首を横に振る。
「それもあるけど、もっと深い寂しさのようなものが……」
そこまで言って優香は顔を上げた。カッと照り付ける夏の日差しと真っ青な抜けるような青空とは対照的な薄暗い部屋。畳の盆の上の汗をかいた空っぽのグラスにうるさい蝉の声。そんな中、優香の言葉に話し合う異形の家族達。
他人から見れば異常としか見えないが、優香にとっては幼い頃から見ている当り前の光景だ。……でも、それは魔王軍の上層部の都合次第では明日にも消えてしまう光景かもしれない。
もしかして凛さんも……?
父親に捨てられた凛も、自分が心の奥で恐れているものと同じものを抱いているのだとしたら……。
「あのね、皆。もしかしたら凛さんて……」
異形の家族達が振り向く。その顔に優香はためらいつつも自分の考えを話した。
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