5. 迷い

 ――遠くに見える公園の緑からは夏の初めのミンミンゼミとツクツクホウシの輪唱が聞こえる。『TAMAKI』とおしゃれな飾り文字で書かれた鉄のドアプレートの前で凛は一つ息を飲んだ。サッシの開いた窓からはテレビの音が聞こえる。物音は聞こえないが今この家の中に人がいるのは違いない。

 ためらいつつもドアホーンのスイッチを押す。ピンポーン。明るいチャイムが窓から流れてきた。――


「ううっ……」

 夏の蒸し暑い闇に流れる呻き声に、少女が眠るベッドの脇に立った黒髪の女が紅色の瞳を満足そうに細める。

「可哀想に……可哀想に、凛」

 心にも無い慰めの言葉を掛けながら、女は唇を半円形に歪めた。

 本当に良いターゲットを見つけた……。

 真っ直ぐな真面目な少女。その周りの長い冬をようやく抜け、幸せになりつつある家族。魔族好みの『破壊』のターゲットが、彼女の中にある、ある屈託した思いとそれを打ち消すように湧き上がった父への慕情で『破壊』出来ると読めたとき、女は嬉々として喜んだものだ。

 そして……。

 見込み通り、あの父親は少女の思いを踏みにじり、徹底的に打ち砕いてくれた。今、凛は胸に秘めていた思いを壊された怒りに、彼女の思うがままに動き、その裏の寂しさを慰めてくれる彼女に心を委ねている。女の白い手が汗ばんだ髪を撫でる。少女の顔が途端に柔らかな寝顔になる。

 仕掛けは上々だわ……。

 女の口元に楽しげな笑みが浮かんだ。

「無駄ですわよ、破防班の方々……」

 自分の周りに確実に網を張り、それを狭めてくる者達の影に女は微笑んだ。

「この子の父親がアレである限り、この子は救われることは無いのですから……」



 軽い音を立てて、こじんまりとしたおしゃれなカフェの扉が開く。明るい色に染めたソバージュの女が虚ろな目をしたまま、自動ドアを潜る。いくら今日も猛暑日とはいえ、背中と胸元の大きく開いた服にきわどいミニスカートをはいた女は雲を踏むような足取りで、陽炎の立つ道を住宅街の方に消えていった。女の背中を見送って店の手前の路地で様子を伺っていたモウンがカフェに入る。

「いら……しゃい……ませ」

 浅黒い鼻の大きな、いかつい中年男に店員が始めは元気良く、語尾は消え入りそうな声で呼び掛ける。顔を強張らせてしまった店員にアイスコーヒーを注文するとモウンは奥の男二人連れの席に向かった。

 穏やかな優しい顔の青年とサラサラの茶髪の瞳の大きな美少年……人間姿のアッシュとシオンの前に座る。顰め顔でアイスティーとコーラを飲んでいる二人を見、先程まで聞いていた、この席での会話にモウンは重い息をついた。

「ひどい話だったな」

 二人が無言で頷く。

 凛が魔族と共に万引きを続けていたファンシーショップの主任の玉置啓太が、十二年前に別れた二人の父親だと、玄庵が調べ上げてきたのが二日前。それに昨日、エルゼが見た父親に対する琢磨の態度に、この親子にはまだ何かあると追加の調査を命じた。

 啓太は今、二番目の妻とその間に生まれた娘、美咲と共に山根市の新しい住宅街に住んでいる。美咲は真奈や優香と同じ十四歳。啓太が洋子と別れたときは二歳になっていたことになる。

 これに何かあると感じたアッシュは主婦仲間とのランチ帰りの妻をシオンに釣らせ、 食い付いてきた彼女をカフェに呼んで、催眠術を掛け事情を聞き出したのだ。

 運ばれたアイスコーヒーにストローを突っ込むモウンの前でシュッシュッ……と音がする。シオンがコーラをすすりながら頭の髪を左手でいじっている。人間姿のときは長い触覚が無い代わりに、髪で不快なときの癖を繰り返している後輩の背中を優しく叩くとアッシュはコーヒーを飲み始めた班長に目を向けた。

「凛の目的は父親への復讐でしょうか?」

「だろうな」

 モウンがストローから口を離し低くく唸る。

「しかし、オレにはあの家族が多感な年頃の凛に離婚の事実を話すとは思えませんが」

「凛は当時五歳だ。もしかしたら父親の裏切りに関わる何かを見ていたかも知れん。その時は何か解らなかった記憶が、魔族の手引きによって父親の自分達に対する裏切りと知ったのかもな」

 吐き捨てるモウンにシオンがまた髪をいじり始めた。

「もし、この事実から凛が啓太の店で万引きを繰り返していると知られれば、それなりのスキャンダルになる。魔族はそれを利用して篠山家だけでなく、玉置家の方も『破壊』しようとしているのだろう」

「凛に復讐をやめさせることは出来ますかね?」

「あの父親じゃ無理ですよ」

 シオンが髪に手をやったまま不機嫌な声で二人の会話に割り込む。

「だとすると今回の『悪魔憑き』解除は、かなりてこずることになると思いますが」

 すでに玄庵が魔族と凛の様子を探る為の術の準備に掛かっている。だが、この様子だと両者は思った以上に深く結びついているようだ。事情が事情だけになるべく凛を傷つけたくない。そんな副長の思いを汲んで、モウンはコーヒーを飲み干すと席を立った。

「今から魔界に行って、室長に『悪魔憑き』解除専門の術士か修復班の手が借りれないか相談してくる」

 先程の話は、お前の方から玄庵とエルゼに話しておいてくれ。言い残して三人分の伝票を持って会計をし、カフェを出て行く班長を見送るとアッシュは小さく息を吐いた。すっかり温くなった水っぽいアイスティーをすする。

「術士、貸してくれますかね?」

 シオンが小声でぼやく。魔王直下の特別部隊とはいえ破壊防止班は軍の末端。そう人手は回って来ないし、破壊修復班は防止班と違い、いくつもの世界を掛け持ちしていて常に多忙だ。

「借りられるといいけど、多分無理だろうな……」

 アイスティーを飲み干して、アッシュは苦笑を浮かべた。

「それにしても班長、嫌な役を押し付けてくれたな」

 玄庵は玄武一族の長老を退いた後、一族の者に捨てられたも同然の身、エルゼも両親を幼い頃に亡くし、その後親戚を転々とした後、姉と二人で家を飛び出した娘だ。その二人に、この話をするのは気が重い。

「そうですね……」

 ズビズビと暗い顔でコーラをすするシオンの肩を軽く叩く。

「シオンも辛かったろう?」

 副長の慰めの言葉にシオンは小さく首を振った。

「ボクなんか玄さんや姐さんに比べれば……」

シオンも一族の仕える主の身勝手で、家族とは離れて暮らさなければいけない身だ。

「ボクは会おうと思えば会えるし、アル様がついて下さっているし」

自分の後見人をしてくれている水の一族の王の名前を挙げて、笑みを浮かべるシオンにアッシュも微笑む。

 しかし……どうして凛は彼女を一番気に掛けている人をおいて、あんな父親や魔族にこだわっているのだろう。

 シオンの笑みにふと疑問が沸き起こる。小さく首を捻ると、アッシュはシオンを促して席を立った。



 多くの人口を抱える山根市には『夜』という言葉は無い。皐月家の板塀越しに見える西の夜空は繁華街の明かりでオレンジ色に染まり、本来見えるはずの美しい天の川は影を潜めている。

 光の下を行き交う様々なこの世界の人間の欲望を思い描き、生温い夜風を身に受けながらモウンは小さく息を吐いた。

「今日で事件発覚から一週間か……」

 事件の原因や犯人の凛の動機、魔族の目的などあらかたの調査は済んだが、まだ解決の糸口は見つかっていない。

「相変わらず動きは無いか……」

 二日前から交代で見張りに立ち、破防班の影をちらつかせてみても、凛に憑いている魔族に目立った動きは無い。まるであの日以来何も無かったかのように沈黙を続けていた。

「破防班が諦めて手を緩めるのを待っているのか……」

 赤い瞳が闇を睨む。

「それとも、凛を完全に取り込んでいる余裕から、こちらの動きを静観しているのか……」

 部下達の推測のとおり、魔界での術士の手配は無理だった。修復班の方も最近、別世界で大きな『破壊』活動があったらしく、何班も処理に掛かりきりになっていて、とても回る手が無い。

 それを聞いた玄庵は昨夜から自分の部屋の奥座敷に篭りっきりで『悪魔憑き』解除の用意をしている。エルゼもバイトから帰るとすぐ手伝いに向かっていた。

 闇の中に佇む庭木を眺めていると裸足の足音が聞こえてくる。同時に漂ってくる火の気に「アッシュか」振り向かずにモウンは声を投げた。「はい」返事が返り、隣に座る音がする。

「どうした?」

「優香ちゃんのことなのですが……」

 遠慮がちに話し出す声にモウンの太い眉が寄る。

「今日もいたか」

「はい」

『申し訳ありませんが、優香がモールで凛達兄妹を見た後、姿を消しました。探して下さい』

 日曜日の昼過ぎ、エルゼのメールが班員全員に送られてから、凛の家の側で魔族の様子を伺っていた玄庵が彼女を見つけた。モールで行方をくらませた後、どうやら三人をつけて凛の家を探り当てたらしい。以来、毎日のように優香は異形の家族が出掛けた後、凛の家に通っている。今日も姿を消して凜を見張るアッシュの前で、篠原家の裏手の路地に身を潜め、じっと家の中の様子を探っていた。

「玄さんがもう事件に関わっているなら、優香ちゃんに事情を話して使わせてくれないかと言ってます」

 やはり玄庵やエルゼでも太刀打ち出来ないほど凛は魔族と深く結びついていた。様子を探るのにも苦戦している術士としては、ここでとっておきの切り札が欲しいらしい。

 一番感受性が高い年頃ということもあるが優香の感応力は魔術師の中でも群を抜いている。特に同じ年頃の少女とのシンクロ率が非常に高い。前の呪いの人形の事件で思念を探ったモウンに触れ、呪いを掛けた少女の思いに飲み込まれてしまったように、他人の使う術を通してすら、それに呼応する力があるのだ。

「優香ちゃんが使えるなら、相手の動きを探ることは勿論、『悪魔憑き』解除もうまく 出来るかもしれません」

「しかし……」

 ためらう班長にアッシュが困った笑みを口端に乗せる。

「優香ちゃんに今回の事件の話は出来ませんか……」

「今回の事件は優香に、ここに連れて来られて置き去りにされたときのことを思い出させるだろうからな……」

 モウンの目が九年前の眩しい夏の日へと彷徨う。

「お前も覚えているだろう。あの頃の優香を」

 班長の声にアッシュは小さく頷いた。

「大変でしたよね。とにかくオレ達が目を離すとすぐに『お父さん』を探しに家を飛び出して」

 その度に彼女の祖母と共に異形の家族達は町中を小さな女の子を探し回った。

「夜になると『お家に帰る~』と玄関で泣いてましたっけ」

「ああ……」

 モウンが大きく息を吐き出す。アッシュは縁側の板の上で居住まいを正した。

「班長、もう優香ちゃんは凜と家族のことを知っています。毎日、凜の家に通うのはあの家族が『破壊』されそうな予感を感じて心配しているからではないでしょうか?  だとしたら、このまま黙って何もさせないでおく方が優香ちゃんには辛いと思いますが?」

 そう一気にまくしてて、今度は懐かしげに微笑んだ。

「父と兄が上に手を回して、おかしくなっていくオレを破壊部隊から除隊させようとしたとき、班長は『だが、知ってしまった以上、もう知らない顔は出来ないだろう』 とオレの意思を汲んで止めてくれましたよね」

 当時、過激派が実権を握った魔王軍は、この期に穏健派の貴族達を潰そうと画策していた。穏健派最有力貴族のブランデル公爵家の三男であるアッシュが破壊部隊に入隊させられたのも、その策謀の一つ。『悪魔』の部隊の中で、奴等の思惑通り、精神を病み始めた末弟を父と兄達がなんとか助け出そうとしたとき、彼は 『隊長達だけに全てを任せるわけにはいかない』 と救いの手を拒否したのだ。

 破壊部隊の中にわずかに残る規律を正そうとする兵士達の為に自分の高い身分を盾に使おうと決心したアッシュを、当時彼の所属する第一隊の隊長であるモウンは自分の直属の部下にすることで守るからと説得した。

「そうだったな」

 あの頃、まだ幼さが残る顔に悲壮な決意を固めた時と違い、粛正まで薬に頼りつつも仲間を守りきり、すっかり穏やかな顔に変わった部下にモウンが肩の力を抜いた。

「優香もそうか……」

「オレはそうだと思います」

「解った。明日様子を見て話をしてみよう」

 確かにあの優しい少女に、このまま何も知らせず、手を出さないでいろというのは酷かもしれない。

「……しかし、お前も成長したな」

「未だに兄達には手の掛かる末っ子扱いされてますが」

「それは仕方ないだろう。その後もいろいろあればな」

 モウンの喉が楽しげに鳴った。

 ようやく軍師ユルグの大粛正で破壊部隊が解体された後、アッシュは張り詰めていた精神の糸が切れ、一時実家で引き篭り状態になったことがある。それが回復し、外に出られるようになった頃に一族の者による除名騒動。一族を除名され、家を出て破壊防止班に勤めて十五年後、今度は身分が絶対とされる魔界で同僚の風のヒエルラキーの最下位のサキュバスの娘と同棲を始めた。

 その度に騒ぐ一族を押えてきた家族を知る班長に「確かに……」とアッシュが項垂れる。

「オレは本当に家族に面倒ばかり掛けてますからね……」

 しみじみと反省するアッシュにモウンは肩を揺らして笑い出した。

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