8. いるべき場所へ

 アッシュが魔族の女を睨むと指を鳴らす。音と共に自分の周りに浮かび上がった白い光を放つ小さな玉に女は目を細めた。ふわふわと飛ぶ姿は美しくも見えるが、高熱を孕んだ剣呑なモノだ。触れれば肉を焼き、骨をも溶かす。

「さすがは火竜の直系……」

 自分の周りを舞う玉に女が薄く微笑む。

「でも、これで私を傷つければ、その苦痛をこの子も味わうことになりましてよ?」

 凛を抱き締め余裕の表情で女が笑う。アッシュが女を睨んだまま牙を噛み締めた。それでも自分の身体をかすめるように飛ぶ玉に女が小首を傾げたとき、突然空間が割れ、黒い軍服に包まれた太い腕が飛び出した。ごつい手が凛の肩を掴み、魔族から引き離そうとする。

 凛の体が引っ張られる。だが、それはほんの少し離れただけで、クンと引っ掛かったように前のめりの倒れると、そのまま女に引き寄せられた。その様子に腕が引く。

「まだ、しっかりと結びついているな……」

 舌打ちと共にアッシュの隣に戻ってきたモウンが唸る。

「エルゼの術で正気に戻ったと思ったのですが……」

「父親に徹底的に責められたあげく『お前のような娘はいない』と突き放され、それまで甘い言葉を囁いていたあの女にもう一度しっかり結び付いてしまったようですの」

 玄庵が自分を破滅させる相手の思い通りになっている少女に憐れみの目を向けた。

「二度もあんなことを直接言われればな……」

 凛のうつろな目にモウンが苦しげに眉根を寄せる。

「あら、『三度目』ですのよ」

 破防班の班長の言葉を女は鮮やかに笑って否定した。

「一度目はこの子が父親と別れる前、この子は父親の裏切りを偶然見ていますの」

「やはり……」

 玄庵が深い息を吐く。

「幼さ故、意味が解らず埋もれていた記憶がよみがったのをお前が嗅ぎつけたのか」

「ええ」

 女はにっこりと笑って凛を見下ろした。

「この子の父親を調べて、すぐに解りましたわ。あの父親なら自らの勝手な思惑で実の娘を徹底的に『破壊』してくれると……」

 実際、目の前で行われたそれにアッシュが怒りで声を震わす。

「だから本来会うはずの無かった娘と父親を再会させた……」

「見事に私の思惑どおり、あの男は娘の自分を慕う心を、捨てた子への後ろめたさから勝手に金欲しさに来たと勘違いして踏みにじってくれましたわ」

 楽しげに笑う女と玄庵とアッシュのやりとりに隠れて、モウンは現実世界に優香と共に残ったエルゼに呼び掛けた。

『そちらの準備はどうだ』

『凛はよく眠ってます。巻き込まれた優香も回復しました。それと家を出た彼女の様子を不審に思ったのか琢磨さんがモールまで来てくれました。今、ここにいて二人と魔族のやりとりを聞いて貰ってます』

『よし、兄の力を借りよう。凛を正気に戻し、本来の彼女の場所に帰す』

『はい』

『それまでこっちで奴の気を逸らす』

 モウンは女の腕の中の少女を見た。凛のうつろな顔に、彼女の本当の気持ちと帰りたい場所を見る。

「エルゼと琢磨の為に時間を稼ぐ。凛が戻り次第『悪魔憑き』解除を行う」

「御意」

「了解」

 アッシュが再び、高熱の光の玉を作り出す。モウンは腰の剣を抜いた。



 従業員達の休憩室に小さなエアコンの音と少女の規則正しい寝息が流れている。その中で聞こえていた、かん高い女の声と老人の声、若い男の声が途切れ、琢磨は大きく息を吐いて妹の寝顔に目を落とした。

「信じられない話だとは思いますが……」

 遠慮がちに声を掛ける小麦色の肌の美女に小さく頷く。

 確かにここ数週間の凛の様子はおかしかった。あれほど頑張っていた部活を理由も無くサボるようになり、友達と遊ぶこともなくなった。普段も妙にはしゃいだり、かと思うと塞ぎこんだり、部屋で一人で過すことも多くなった。誰もいない部屋から誰かと話しているような声が聞こえてきたこともある。

 そういえば、夏休み前の日曜日に行き先も告げずに、まる一日どこかに出掛け、夕方暗い顔をして帰ってきたこともあった。あのとき、父親の家を尋ねたのだろう。

「でも……やっぱり……」

 妹が悪魔に憑かれているという信じがたい話に戸惑う琢磨に、エルゼは形の良い眉を潜めた。

 凛が玄庵の術で眠った後、ファンシーショップはちょっとしたパニックに陥った。凛とシンクロしていた優香も彼女のショックをそのまま受けてしまい、倒れた二人の少女を見た客が側を通り掛った警備員を連れてきてくれたのだ。

 飛んできた警備員は 『こいつは万引き犯だ! 狸寝入りをしているんだ!!』と喚く啓太を無視して、同僚とエルゼと共に二人を従業員の休憩室に連れてきてくれた。休憩室の畳敷きの一角に凛と優香を寝かせた後、妹の様子に朝食も取らず、着替えと身支度だけしてモールにやって来た琢磨を案内所の店員が部屋に連れて来てくれたのだ。

「とにかく妹さんは今、悪魔に心を奪われてます。このままでは目覚めても元の彼女に戻らなくなってしまいます」

 エルゼの言葉に妹を見詰めている琢磨の顔が強張る。

『妹を助けられるのはお前だけかもしれん』

 夢に出た、いかつい顔の男の声が頭をよぎる。

「あなたに妹さんを取り戻して欲しいのです。妹さんはお父さんに二度も突き放されたショックで正気を失ってます。それを目覚めさせて、あなたの元に戻して下さい」

「そうすれば妹は元に戻りますか?」

 顔を上げて訊く琢磨にエルゼがきっぱりと答える。

「はい、いつものあなたの知る妹さんに」

「解りました」

 琢磨は手を伸ばすとそっと凛の髪を撫でた。

「とにかくやってみます」

「優香、気分はどう?」

 この部屋についてすぐエルゼの回復術を掛けて貰い、さっきから二人のやりとりを息を詰めて見ていた優香が笑顔を見せた。

「もう大丈夫だよ、エルゼ姉さん」

「解ったわ。班長達が気を逸らしてくれている間に、もう一度凛さんと優香をシンクロさせる。その後、優香と琢磨さんを繋ぐ。良いわね?」

「OK」

 琢磨が妹から手を離し、ぐっと握る。

「いくわよ」

 エルゼが呪文を唱える。優香は座り直すと瞳を閉じた。



 ふわりと術の掛かるゆらぎを感じると、暗い夜の帳に覆われた細い廊下にいた。板敷きの感触が足の裏から伝わる。目の前に小さな五歳くらいの女の子がいる。ふっくらとした頬が可愛らしい、凛々しい面立ちをした子だ。

 凛さん……。

 彼女の面影のある女の子に優香はそっと歩み寄った。

 そのとき、カチャリと鍵を開けるような音がした。振り返ると玄関とおぼしきドアから一人の男が入ってくる。携帯電話を耳に当て、男が後ろ手にドアを閉める。闇に小さな声が流れた。

『……ああ、うまくいっている。バレてはないさ。アレはとろい女だからな』

 低い笑い声が響く。

『美咲はもう寝たか? そうか……ああ、俺が愛しているのはお前達二人だけだよ』

 通話が切れる。バックライトに男の恐ろしい笑顔が浮かび上がった。

 ああ……これが魔族の言っていた凛さんがお父さんに裏切られた最初の記憶なんだ。

 優香は小さく息をついた。

 女の子の両目に涙が盛り上がる。

『お父さん、凛とお兄ちゃんのこと嫌いなんだ……』

 父親の言葉に涙が頬をポロポロと零れる。

 黒い影が目の前をよぎって行く。優香は廊下に膝をつくと彼女を父親から守るように抱き締め、頭を撫でた。

『優香、琢磨さんと繋がったわ。こっちに凛さんを連れてきて』

『うん』

 廊下の奥に白い霧が現れる。優香は小さな手を握ると立ち上がり、静かに泣く彼女を連れて、その中へと入っていった。



 そこはどこか懐かしい部屋だった。古びた壁に日に焼けた畳。今時珍しいどっしりとしたテレビが隅に鎮座している。部屋の真ん中には四角い座卓が置かれ、大きな皿が一つ乗っている。その上に、丸い不恰好な海苔も巻いてない、おむすびが五つ置かれていた。

「塩おむすびだ!」

 凛がまだ涙の跡を頬につけたまま声を上げる。

「お兄ちゃんのおむすび~」

 途端に笑顔になると座卓の前に座る。早速、お皿の上に手を伸ばした。小さな手で一番大きなおむすびを掴んで頬張る。

「お兄ちゃん、いっつも誰もいないときに凛がお腹すいたって言うと、このおむすびを作ってくれるの。お姉ちゃんも食べて、お兄ちゃんのおむすびおいしいよ」

 可愛い笑顔で薦められて優香も隣に座り、手を伸ばした。一番小さなおむすびを取ると一口齧る。

「おいしい……」

 具も何も入ってない塩味だけのおむすび。ただ御飯を力任せに固めたものだが、どこか懐かしい味がする。

「モウンが昔よく作ってくれたのにそっくりだな~」

『モウン、お腹すいた~。何か食べたい』

 幼い頃、小腹がすくと優香もいつもモウンに何か食べさせてとねだった。料理など全く出来ない武骨な班長はその都度、彼女を連れて台所に行き、炊飯ジャーを開けて、大きな手に塩をつけ、それに御飯をのせておむすびを作ってくれた。その自分の顔の半分もある歪な大きなおむすびが優香は大好きだったのだ。

『優香、うまいか?』

『うん!』

 でも、それを食べるとお腹がいっぱいになってしまって、後で御飯が食べれなくなるから、モウンがおばあちゃんとアッシュに叱られていたっけ。

「琢磨さんもそうだったのかな?」

 モウンが太い首を竦めながら二人に叱られていたのを思い出しながら微笑むと、隣の凛はすっかりおむすびを食べ終えて、指についた御飯を舐め取っている。

「凛、うまいか?」

 声がすると座卓の向こうに琢磨がいた。こちらもさっき休憩室にいた琢磨より遥かに幼い。自分と同じくらいか、少し下だろうか。まだあどけない顔の少年の琢磨が妹に優しい笑顔を向けている。

「うん!」

 凛が元気に答える。琢磨が濡れたタオルで幼い妹の口元や手を拭いてやる。慣れた仕草に彼がずっと妹の世話を焼いていたのが解る。

「凛」

 手と顔が綺麗になると琢磨は改めて、凛の前に座った。自分の前に正座した琢磨に凛も背筋を伸ばす。

「凛、お前はやってはいけない悪いことをした。それは解るな?」

 父親のようななじる口調ではないが、固い兄の声に凛の顔が歪む。五歳の女の子の姿をしているが中身は高校二年生の今の彼女なのだろう。凛は瞳を震わせると頭を下げた。

「ごめんなさい」

「なんであんなことをしたんだ?」

「お父さんを困らせたくて。私とお兄ちゃんのことを『いない』っていうお父さんに思い知らせたくて。悪い事をして困らせれば知らない顔をなんか出来なくなる、って思って……」

 でも本当のところはよく解らないの……。

 凛の目に涙が浮かぶ。

「とにかく悔しくて悔しくて、すごく腹が立って、お父さんをめちゃくちゃにしてやりたくて……。今までそれしか考えられなかった……」

『『悪魔憑き』になった人間は魔族によって憎しみや悲しみの負の感情を高められて、 良心等、自分を律する正の感情を弱められているの』

 二人を見守る優香の頭にいつかのエルゼの言葉が浮かぶ。

「バレたときどう思った?」

「怖くて、頭が真っ白になって、どうすればいいのか何も解らなくて震えが止まらなくて……」

 思い出したのか肩を震わせる凛に琢磨がそっと安堵の息を吐く。

「今の凛はあの人の言うとおり、ちゃんと俺の知ってる凛なんだ……」

 琢磨は妹の肩に手を置いた。

「悪い事をしたって解っているな」

「うん」

 凛が素直に頷く。

「だったら二人でお店の人にちゃんと謝ろう。一生懸命謝って、オレがちゃんと店に弁償するから」

「お兄ちゃん……」

「だけど、父さんのことは諦めろ」

 濡れた顔を上げた凛に、琢磨はきっぱりと言い切った。

「実はオレも凛と同じことをしたんだ」

 琢磨の目が遠くなる。

「凛が高校に合格したとき、塾が行かせてやれなくても自分で勉強を頑張って志望校に入った凛を誉めて欲しくて、オレも父さんを訪ねたんだ。だけど……」

 少年の琢磨が大人びた苦い笑みを浮かべる。

「『入学祝いにかこつけて金が欲しいのか!!』『俺に息子はいない!』って追い返された」

 琢磨にも啓太は凛と同じ事を言ったのだ。凛と優香が息を飲む。琢磨は小さく肩を竦めると話を続けた。

「悲しくて腹が立って、母さんにそのことを話したら、母さんが言ったよ。『あの人にとって私達はもう『忘れた人間』なの。どうやっても、どんなに喚いても、あの人はもう琢磨と凛のお父さんには戻らないのよ』って」

 仕方が無いんだよ……。琢磨は小さな妹の頭を撫でた。

「だから母さんは三人で幸せになろうって言った。三人でたくさん幸せになろうって。凛にはもう父さんはいないけど代わりに母さんとオレがいる。ずっとオレ達が凛の側に居るから、悲しいけどもう父さんのことは諦めてくれ」

 妹に言い聞かせる静かな声に優香はモウンの優しい低い声を思い出した。

『俺がお前の側にずっといる』

 父親に置いていかれて、しばらくは夜になると玄関で『お家に帰る~!!』と泣く優香を抱き締めて耳元で言ってくれた言葉。そして、亡くなった遥香の枕元で、そっと肩を抱いて言ってくれた言葉。

 凜の目が座卓の上の兄の不恰好なおむすびに向く。

「……でもお兄ちゃん……マコちゃんと結婚して、子供が出来ても凛のこと気に掛けてくれる……?」

 弱々しい声にやっぱり、そうだったんだ……。優香は小さく息をついた。

 それが本当の原因だったんだ……。

 新しい家庭を持つ兄が、自分から離れてしまうかも知れないという寂しさ。それが父親が自分達を捨てた記憶をよみがえらせ、あれほどまでに父親と魔族に執着させたのだ。琢磨が凛を見ると座卓のおむすびを取った。小さな手にそれを握らせる。

「当り前だろう。真琴と結婚しても子供が出来ても、凛はオレの大事な妹。それは絶対変わらないんだから」

「……お兄ちゃん……」

 兄から渡されたおむすびを一口齧って、凜は涙を浮かべて笑った。琢磨が妹に両手を広げる。

「だから、そんな奴のところにいないでオレのところに帰って来い」

「うん!!」

 凛はしっかりと頷くと琢磨の腕の中に飛び込んだ。



 凛の目に光が戻る。

「お兄ちゃん!?」

 兄を探す妹の声にモウンが叫んだ。

「アッシュ!!」

 アッシュの光の玉が魔族を襲う。同時に剣を構えて迫ってきたモウンに女が慌てて両手を前に出し障壁を作った。二人同時の攻撃に女の気がそれる。

「今だ! 玄庵!!」

 その隙をついて玄庵が印を組み、呪文を唱える。濃い緑の光が女を包み、その中で凛の姿が消えた。

「何!?」

「凛が戻りましたぞ!」

 呆然と周囲を見回す凛を足元に置いて玄庵が嬉々とした声で二人に告げる。

「よし!!」

 一気に二人が女に詰め寄る。女が覚悟を決めたのか姿を変えた。黒い光沢のある巨大なサソリ。風の中階層スコーピオン族の本来の姿に戻った女が周囲に得意の腐臭の混じった砂嵐を起こす。

「させるか!」

 アッシュが腕を振り、起こした熱風がそれを払う。剣を上段に構えたモウンが飛び込む。と同時に二つのハサミと鋭い二本の鍵爪のついた前足、四本の攻撃が襲い掛かる。だが、モウンはそれに余裕の笑みを浮かべた。

「うちの班の班員の方がもっと良い動きをする」

 なんなくかわし、更に突っ込む。猛毒の針のついた曲がった尾がモウンを襲う。モウンが剣で払うと、尾は玄庵の術に硬直し、先端の毒針がアッシュの白い炎に包まれた。

「ギャアアアア!!」

 身の毛のよだつような悲鳴の後、サソリがぐったりと地面に伏せる。サソリの真ん中の複眼の上にモウンはピタリと剣を置いた。

「魔憲章第九十九条異界における破壊活動防止条例違反の現行犯でお前を捕縛する」

 低い声が流れる。サソリはそのままハサミと尾を降ろし、降伏の姿勢をとった。

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