File.2 寂しさの代償

1. 裏切りの記憶

「お兄ちゃん……」

 ねっとりとした暑い空気が汗ばんだ肌に纏わりつく夜更け、ジュニア用の狭いベッドで 兄と一緒に寝ていたりんはふと目を覚ました。

「お兄ちゃん……トイレ……」

 隣で眠っている兄の琢磨たくまは五歳の妹の小さな声にピクリともしない。琢磨は中学一年生。それまでの小学生時代とはガラリと変わった学校生活と部活動に疲れているのだろう。ピタピタと小さな手で顔を叩くが 「うん……」と眉を潜めただけで寝返りを打ち、また眠ってしまう。

 凛は仕方なく一人でベッドから出た。部屋のドアを開けると階段を降り、廊下の奥のトイレへと向かう。途中、光がこぼれるリビングの隣を通り掛かる。ドアの奥から母親の洋子ようこのすすり泣きが聞こえてきてくる。凛は足を速めて急いで通り過ぎた。

 ……お母さん……。

 五歳の凛にも今、自分の家に漂っている不穏な空気は解っている。父、啓太けいたは最近凛や琢磨が寝付いた夜更けにしか帰って来ない。たまに早く帰って来ても、二人の子供にロクに声も掛けず、洋子と遅くまで何か話し込んでいる。時には夜中に洋子の大きな声が子供部屋まで聞こえてきて、その度に起きて怯える凛を琢磨がぎゅっと抱き締めてくれていた。もう中学生になった琢磨が凛を狭い自分のベッドに寝かすのは、そのせいなのだ。

『凛、もしかしたらお父さんとお母さん、別れるかもしれない』

 休みの度に話し合う両親に頼まれて、母方の祖父の家にバスを乗り継いで凛を連れて行く道の途中、琢磨は強張った顔で彼女に話していた。

 別れるって何?

 幼い凛には父と母が離れ離れになるということ自体が解らない。そそくさとトイレを済ませ凛は廊下を駆け出した。今一番自分の事を気にしてくれている兄のところに早く戻りたい。

 カチャリ……。玄関の鍵の開く音がする。 ドアが開き、入ってきた黒い大きな影に凛の足が止まる。耳に当てた携帯電話のバックライトに照らされた顔は間違い無く父、啓太の顔だった。

 ……お父さん……。

 どこか楽しそうに笑っている父の顔に、凛はぎゅっと胸を掴まれる感じがして慌てて廊下の暗がりに隠れる。

「……ああ、うまくいっている。バレてはないさ。アレはとろい女だからな」

 低い笑い声が小さな耳に届く。

美咲みさはもう寝たか? そうか……ああ、俺が愛しているのはお前達二人だけだよ」

 啓太が携帯電話の通信を切る。消えたバックライトに最後に映し出されたのは、今まで見たこともない嬉しそうな、それでいて恐ろしい父の笑顔だった。

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