ヒック、ヒック……。ようやく安心したのか、少女が姉のように慕っている女性の腕の中で泣き声を上げている。

 自分達が半月留守にしていた間に、心労からかなり痩せてしまった少女を、彼女が兄と慕う青年が、そっと肩を抱いて病室の外に連れ出す。普段は丸顔に好好爺と呼ぶに相応しい笑みを浮かべた老爺が、沈痛な面持ちでベッドに小さく頭を下げ、その隣の茶髪の少年が、いつもは調子良い顔を潜ませて後を追う。

 静かに締まる扉を見送って、浅黒い鼻の大きな、いかつい中年男性がベッドの上に横たわる半月前より一回り小さくなってしまった老女に目を向けた。

「……私が倒れたとき、一人で救急車を呼んで、病院に付き添って、連絡のなかなか取れない息子に何度も電話して……入院の手続きをした後、帰ってしまった嫁の代わりに毎日学校の帰りにここに寄って……本当、あの子はよく頑張ったわ」

 まだ、中学一年生の子供なのに……。零れるように呟く老女に男……モウンは痛ましげに顔を顰めた。

「……遅くなってすまなかったな」

 自分の家に住み家族同様に暮らしている、異世界の者達の長の低い静かな声に彼女は微笑んだ。

「……事件は解決したの?」

「……ああ」

 老女が薄い光の落ちるカーテンの掛かった窓を見上げそっと笑う。

「……お医者様に聞いたでしょう? 私はもう長くはないの……」

「……ああ……」

 元々彼女は心臓が弱かった。それが老いと共に静かに、しかし確実に働きを止めようとしている。死期を悟り、ただそれを受け止めている老女に他に言葉が思いつかずモウンは頷く。

「……心残りはあの子だけ。息子があの子を引き取るとは思えない……。だから……お願い、モウン……あの子が大人になるまで貴方に側についていて欲しいの」

「任せろ」

 モウンは力強く返事を返した。

「人間の子供が大人になる時間など、俺達にはほんの短い時間でしかない。俺にとっても優香は娘も同然だ。俺が必ずあの子を一人前の女性に育てる」

「……ありがとう……」

 老女は細い安堵の息を吐き出した。

「……ごめんなさい」

 彼女の病の床についているとは思えないほど、美しい光を湛える黒い瞳が彼を見詰める。

「貴方の思いを利用して、あの子を押し付けてしまう……私を許して……」

「……遥香……」

 驚きのあまりに生来の赤い色に変わった瞳をモウンが見張る。その顔に小さく笑むと遥香は、ゆっくりと瞳を閉じた。



 魔王軍特別部隊破壊活動防止班。その魔界にある本部の老朽化の進んだ建物の暗い廊下を歩いていたモウンは背後から掛けられた声に振り返った。

「どうしましたか? 室長」

 ドアから半分身体を覗かせた、ごま塩頭のでっぷりと肥えた男……魔王軍特別部隊他世界監視室の室長に歩み寄る。

「ああ、ちょっと話があるのだが」

 先日処理が終わった『呪いの人形』事件の報告書を本部に届けに来たモウンは、室長の声に困ったように大きな肩を竦めた。

「書類の不備なら俺には解りませんよ」

「それは知っている。お前の班の副長は非常に優秀だよ。書類はいつも完璧だ、難のつけようがない」

 室長が楽しげに笑う。モウンは事務処理は苦手だ。そちらは有能な副長のアッシュに全て押し付け……任せている。それを良く知っている室長の皮肉混じりの言葉を苦笑を浮かべて受け止め、モウンは誘われるまま他世界監視室に入った。

 シンプルな石造りの部屋には、二十数名の室員達が忙しく働いている。ここ他世界監視室は破壊活動防止班の上層組織。魔族の襲いそうな他世界を割り出し、そこに適当な数の破防班を派遣する。他にも破防班をサポートする、その世界の魔術師の管理をするのもここだ。

 数多の世界にある破防班と魔術師ギルドを管理するのに、いくら予算の都合とはいえ、この人数では不可能ではないかと、いつも思うのだが、監視室のサポートは常に完璧で行き届いている。それは室長の能力とも囁かれていた。彼は今魔王軍のトップに立っている筆頭軍師ユルグ同様、先の天才軍師デュオスの愛弟子であるという噂もあるのだ。いつも丸顔をほころばせている室長は、そんな過去は微塵も感じさせないのだが。

 室長は丸々とした身体を揺すると奥の室長室へモウンを誘う。古ぼけたソファに彼を座らせると自らコーヒーを淹れた。

「部下は皆忙しいからな。雑用は室長といえども自分で、というのがうちのルールだ」

 訊いてもいない言い訳をしながら、室長が出したコーヒーを礼を言って受け取る。 「よっこらしょ」といいながらソファをきしませて座ると、室長も自分の分のコーヒーを啜る。

「話とは?」

 モウンの声に室長は小さく苦笑いを浮かべた。

「先日、ハーモン侯爵閣下がこちらに見えられた。……もうあれから五十年も経ったのだから兄上に一度で良い、城に顔を出して欲しいとお伝え下さいと」

「また、ですか」

 モウンは肩を竦めた。脳裏に自分よりも遥かに大人しい母譲りの弟の牛顔を思い浮かべる。

「すみません、弟が私事で室長に御迷惑を掛けまして」

 頭を下げるモウンに室長が手を振る。

「いや、こちらは構わんがね。だが、侯爵閣下の気持ちも解る。粛正のとばっちりを受けてしまった兄上にそろそろ戻って来て欲しいということだろう」

「そうはいきませんよ。弟にも一族と縁を切ったときに『兄は死んだものと思え』ときつく言い渡してあります」

 きっぱりと言い切るモウンに、室長がからかうような笑みを浮かべる。

「アッシュ副長は、こちらに帰って来る度に兄上に会ったり、実家に帰ったりしているというではないか」

「ブランデル公爵家は特に家族の絆が固い一家ですからね」

 軍師ユルグは魔王軍の実権を握った折、真っ先に破壊部隊の腐敗を暴き、部隊全隊の准尉クラス以上の兵士と魔術師部隊の隊長クラスの術士を粛正した。それは軍に従軍してまだ七十五年余り、公爵家の出身というだけで入隊から尉官を授けられたアッシュも同じことで、この不名誉に彼の一族であるサラマンドラ族は彼を一族から除名するよう強く公爵家に詰め寄ったのだ。弟の破壊部隊での働きも知らず、ただ一族の名の為だけに切り捨てさせようとする者達に、父の跡を継いだ長兄はこう言い放ったという。

『弟と一族の縁は切る。だが家族の縁は絶対だ』

 家族愛の強いブランデル公爵家は、その言葉どおり、アッシュとエルゼを客分として城に訪れさせるのはもちろん、優香の世界で言う正月と盆には手土産を手に、末息子と嫁がお世話になっています、と隠居した元公爵夫妻、アッシュの父母がわざわざ家に挨拶に来る。

「ですが火の一族のトップである公爵家と、我が侯爵家では勝手が違います」

「土の一族の総統ベヒモス族は、まだミノタウロス族の総統ハーモン侯爵家に憤っているということか……」

 唸る室長にモウンが苦笑しながらコーヒーを飲み干す。

「弟にはもう少し周りを見るように言って下さい。兄一人を慕う為に土の一族の主の機嫌を損ねるつもりかと」

「……仕方が無いな。解った」

「ご馳走様でした。室長、コーヒーを淹れる腕が上がりましたね」

 さばさばした顔のモウンに室長が肩を竦める。「お邪魔しました」と室員に声を掛けて部屋を出て行く。

 ……まあ、今、あの世界を離れるわけにはいかないのだがな。

 モウンは小さく笑むと暗い廊下を去って行った。



 目を開けると薄暗い天井が見える。閉まった障子が庭から照り返される初夏の日差しを受けて白く光っていた。

「四時……か」

 寝転がって枕元の時計を見るとモウンはあくびを噛み殺した。 魔界から帰って来たのが昼過ぎ。アッシュの用意した昼食を食べて直ぐに床に入ったのだが、寝苦しさから目が覚めてしまったようだ。

「しかし……今日は蒸すな……」

 梅雨の晴れ間特有のジメジメした湿気を含んだ暑さに、パシャマの懐から手を入れて、汗ばんだ胸を掻く。

 これは夜になって涼しくなってから寝直したほうが良いだろう。モウンは着替えを手に風呂場に向かった。ざっとシャワーを浴びて服を替え、居間に向かう。プンと濃い鰹出汁の匂いが台所から流れてきた。

「今日の晩は玄庵の蕎麦か?」

 暖簾を潜って顔を出した班長に、真ん中に置かれたテーブルの椅子に座っていたアッシュが立ち上がる。

「ええ、今夜は玄さんの蕎麦で天ざるです」

 蕎麦が趣味の玄庵は、自分でも気が向くと蕎麦を打つ。今はつけ汁を作っているらしく コンロの前で鍋に味醂を入れていた。

「アッシュ、醤油はどこかの?」

 声が飛んでアッシュが棚の下から醤油の瓶を出す。

「相変わらず助手付きか」

 含み笑いに肩を震わすモウンにアッシュが大きなグラスに氷を入れながら渋い顔をする。

「玄さんの料理は『アレはどこだ? コレはどこか?』から始まって、作りっ放しの出しっ放しですから」

 冷蔵庫から麦茶を取り出して、なみなみと注ぐと手渡した。

「有能な助手がいて良いな」

 笑いながら受け取ったモウンが、それを飲み干す。

「助手でなくて弟子ですの」

 玄庵の得意げな声に「だったら、手本として全部自分でして下さい。師匠!!」と弟子から抗議が上がる。

「師匠の手足になるのが弟子の役目だからの」

 玄庵が涼しい顔でとぼける。

「玄さんの蕎麦作りが始まるとオレは台所から離れられないんですよ……」

 頭を抱えるアッシュにモウンが吹き出した。



「優香達は?」

 モウンの問いに流しで玄庵が出汁に使った鰹節の始末に取り掛かったアッシュが振り返る。

「オレの代わりに買い物に行って貰いました」

「シオンもか?」

「大丈夫ですよ。お前は荷物持ちだとキツク言い聞かせておきましたから」

 さっと手を洗って、今度は蕎麦打ち用の鉢と棒、のし板を出す。固く絞った布巾でそれを拭くアッシュの姿に、モウンは苦笑を浮かべた。すっかり家の切り盛りが身に付いている。最も公爵家は代々料理好きの男が生まれる家系らしく、料理に関しては彼は子供の頃から城の厨房で父や兄達と並んで作っていたらしいが。

「アッシュ、公爵家はお前について何か言ってるか?」

「向こうで何かありましたか?」

 顔を上げると、アッシュはさっぱりとした笑みを見せた。

「兄達は、ずっとオレの好きにすれば良いと言ってくれてます。最早一族から除名された身なのだから、サキュバスの嫁と子を持とうが、どこに住もうが勝手にすれば良いと」

 一見突き放した態度にも取れるが、それは兄達の彼への愛情だ。まだ多感な少年時代を悪魔の破壊部隊で過したアッシュは、長く玄庵の知り合いの青龍族の名医の調合した精神安定剤が欠かせない身だった。だからこそ、ようやく落ち着いた末の弟の幸せを壊すようなことはしたくないのだろう。

「オレは班長に感謝してますよ。こちらに連れて来て貰ったお陰で薬からも離れられましたし」

「愛しのエルゼ嬢とも出会えたしの」

 からかう玄庵に

「そういうことです」

 アッシュがさらりと笑う。玄庵が小さく肩を竦めた。

 サキュバスは魔界では風の一族の最下層のヒエラルキーに属する魔族。身分制度の厳しい魔界では火の一族のトップの公爵家のアッシュとエルゼは普通では絶対に、すれ違うことすら無かった二人だ。

「儂もここに来てから、こうして半隠居生活を楽しんでいますしの」

 玄庵が鍋の蓋を閉じて、のんびりと笑う。

「そうか……」

 モウンが小さく微笑んだ。

「おや、うちのお嬢さん達が帰ってきたようだの」

 家の敷地に二人の魔族の魔気と力を持つ少女の気が入ってくる。

「アッシュ!! 今日はお魚の特売日だったよ!!」

「貰ったお金より随分安く買えたわ」

 手ぶらで台所に飛び込んできた二人の後ろから、ヒイヒイ言いながらシオンが荷物を抱えて入ってくる。普段ならちゃんと分け合って持つのに、今日はシオン一人ということは、また彼がカートに勝手に余分な物を詰め込んで罰を喰らったのだろう。

「モウン、もう起きたの?」

「ああ、うまそうな匂いがしたからな」

 どっかりと台所に座った班長の姿に、少女が嬉しそうに寄ってくる。

「シオン、ご苦労さん」

 氷を浮かべた麦茶のコップと荷物を交換したアッシュに、微笑みながらエルゼが寄り添う。

「さてと、天ぷらの仕度をするかな」

 買ってきたものを片付けて、天ぷら鍋を出すアッシュに、玄庵がコンロを譲った。楽しそうに手伝いに台所に立つ、少女の後ろ姿を見てモウンは目を細めた。

 そう……あの時、破防班に来なければ遥香とも優香とも会うことは無かった。

 そして、自分にあれほど熱い心があることも知らないままだったろう。

 自分達の世話役をしてくれた美しい人間の女性への恋。だが、彼女には既に夫と子供が居た為、ずっと隠し通してきたはずだった。

 だが……。最後に一度だけ重ねた乾いた唇の感触を思い出す。

 遥香……優香は必ず俺が、お前のような立派な女性に育て上げる。

 台所で賑やかに騒ぐ、もう一つの家族達を眺めつつ、モウンは誓いの言葉を改めて胸に刻み込んだ。

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