3. 悪魔憑きの少女

 カナカナカナカナ……。澄んだヒグラシの鳴き声がまだ明るい夕空に駆け上る。どこか異空間のような薄暗い鎮守の森が残っている小さな神社の脇を抜け、黄色い光が漂う町並みへと篠山しのやまりんは入っていった。住宅街に足を踏み入れると、むっとした熱気が漂ってくる。フル稼働しているらしいエアコンの室外機からの温風に顔を顰めながら凛は狭い路地を抜けた。

 サブバッグの釣手を持つ汗ばんだ手の感触が気持ち悪い。だが、夏休みに入ってからずっと感じていた罪悪感は今日は少し軽かった。

『凛、いくら来年受験生だからって、今からそんなに根を詰めて勉強してたんじゃ持たないぞ。少し友達と遊んで来いよ』

 夏休みの補習授業の後、毎日図書館に通っているという凛の嘘を真に受けて、今朝薄い財布から千円札を抜いて妹に渡して出勤していった兄の琢磨たくまの笑顔が浮かぶ。その笑顔に今日、凛はついていた嘘の通り、補習授業の後、近くのファストフード店で昼食を済ませて、ここ数日通い詰めているショッピングモールへは寄らずに図書館で勉強してきた。少し軽くなった胸の痛みに息をつく。

『貴女の望みを叶えてあげるわ』

 二週間前、何故か兄の結婚が決まってから見るようになった幼い頃の夢。それを嗅ぎつけたように、凛の前に現れた真っ白な肌に紅色の瞳の長い黒髪の女。その女のそそのかす声も今日は聞こえてこない。

 あの女の子を見て以来、声を掛けてこないけど……。

 何故かファンシーショップから駆け出してきたショートカットの可愛らしい顔立ちの中学生くらいの少女を見た途端『見つかったわ!』という声が頭に響いたっきり、女の声は沈黙していた。

 近くの高層アパートをかすめる夕日の中に古びた家が見えてくる。凛の家……五歳の秋から凛が暮らしている母方の祖父の家だ。立て付けの悪い引き戸を思いっきり引っ張って開けて中に入る。

「ただいま」

いつもより少し大きな声で奥に声を掛ける。

「おかえり~」

 明るい張りのある声と、玄関の見慣れたサンダルに凛の顔に笑みが浮かんだ。

「マコちゃん、来てるの?」

 パタパタと奥の狭い台所に入る。

「来てるよ~」

 台所で流しに向かっている母の隣で、コンロの前に立っていた女性が振り向いてニカリと笑う。

「今日の夕飯は、から揚げだよ」

 女性が菜箸を手に楽しげに凛に告げた。マコちゃんこと真琴まことは兄、琢磨の会社の先輩、二つ年上の事務員だ。入社半年で琢磨が惚れ、三年後の告白の後、兄らしい真面目なお付き合いをしていたが、この秋にいよいよ『篠山真琴』になる。

 琢磨と付き合いだしてから真琴は、よくこの家に遊びに来ている。いつも家事の手伝いをしてくれたり、今日のように夕食の仕度をして一緒に食べたり、既に篠山家に無くてはならない存在だった。

 台所のテーブルには、揚げられたから揚げがこんもりと山になっている。辺りに漂う香ばしい生姜と醤油の匂いと、真琴の明るい声にテーブルでエンドウ豆を剥いている祖母と居間でテレビを見ている祖父がニコニコと笑っている。

「これも美味しそう~」

 から揚げは余り沢山は食べられない祖父と祖母のものなのだろう。テーブルの上には柔らかそうに茹でられた鳥の胸肉が、刻み葱のタレと共に皿に盛られていた。

「それはお義母さんが作ったの。さっぱりしていて美味しそうでしょ」

「うん!」

「テレビでやっていたのよ。茹で汁でスープも作れるんだって」

 母の洋子がまな板でニンジンを切りながらにこやかな顔で振り返る。

「それも美味しそう! ……マコちゃん、お兄ちゃんは?」

「琢磨くんはまだ仕事。すっかり部長に気に入られて、いろんな仕事を任されているから張り切っているんだ」

「ふ~ん」

 あの時、中学一年生だった兄、琢磨は高校卒業後就職し、今では立派な社会人。始めは安かった給料も真面目で熱心な勤めぶりに比例して少しずつ上がり、それに伴い篠山家も余裕のある暮らしが出来るようになっている。

「凛、着替えて手伝って」

「うん」

 母に頼まれて凛はテーブルの揚げたてのから揚げを一つ、口に入れると、洋子の呆れた声と真琴の笑い声を背に二階へと上がった。真琴が家に来ると篠山家には笑いが絶えない。琢磨が「真琴、凛にばかり構うなって。少しはオレにも構ってくれよ」と拗ねるくらい凛とも仲が良い。

 マコちゃんがお嫁にきたら、うちはもっともっと明るくなるんだろうな。

 凛にはきっと可愛い甥や姪が出来るに違いない。だが、それを幸せそうに見下ろす兄の顔を思い浮かべると何故かいつも胸の奥が重くなり……溜息がでる。凛はぐっと唇を噛むと自分の部屋のドアを開け、大きな音を立ててドアを閉めた。



 すっかり夜が更けた皐月家の居間に明かりが灯る。その下にはこの家に住む異形の者達が集まっていた。

「優香は寝ていたか?」

 班長の確認に「はい、ぐっすり寝てました」居間に来る前に彼女の部屋を覗いてきたエルゼが答える。

「よし、じゃあシオン始めてくれ」

 アッシュが配った麦茶のグラスを前に、モウンが今日一日の捜査会議を始める。

『今回の事件は優香抜きでする』

 先に部下達から個別に報告を受けた班長の、心語の呼び掛けが回ったのが、皆が揃った夕食のとき。『今回は家族絡みの事件のようだ』その声に不思議な力を持つ魔女である為に一人きりで家族と離れて暮らす、優香へのモウンの思いが滲み出ていた。

「えっと、少女の名前は篠山凛。隣の関山せきやま市の県立高校普通科の二年生です」

 シオンがルーズリーフ式の手帳を開いて報告する。玄庵が写した少女の絵姿をスマホのカメラで撮り、和也と共に女友達に片っ端から送って突き止めたのだ。

「同じクラスの子に会って聞いた話ですが、彼女は頑張り屋でしっかりした性格で、陸上部でいつも熱心に練習していたそうです。でも、何故か夏休み少し前から部活にパタリと来なくなったとか」

「夏休み少し前か……」

 モウンが唸る。

「そのあたりから魔族に接触して『悪魔憑き』になったのかもしれんな。今日は現場には?」

 彼女の狙うファンシーショップのアルバイト店員になったエルゼが首を振った。

「今日は来てません。たぶん優香を見たことで魔族が警戒しているのではないかと思います」

 魔族なら優香の持つ特殊な力を感知出来る。自分が破防班の仲間の魔女に見つかったことを悟って、しばらく動きを潜めているのだろう。

「篠山凛については調べたか?」

 シオンから報告を受けた後、一日彼女について調べていたアッシュと玄庵が答える。

「住居は関山市の旧住宅街、古い住居と駐車場が並んでいる一角です。家族構成は母と兄、祖父と祖母の五人家族で、母親と父親が彼女が五歳のときに離婚してます。以来、今の母方の祖父の家で暮らしているようですね」

 離婚という言葉に班長が優香を気遣う理由が分かり、エルゼとシオンが顔を顰める。家族と離れているぶん、優香はこういう話にはナイーブだ。

「母親が二人の子供を引き取り、実家に帰ったようです。その後は祖父と母が勤めに出て、凛と兄の琢磨は祖母が面倒を見ていたようですが、経済的にはちょっと苦しかったみたいですね。琢磨はそれを理由に高校卒業後、直ぐに就職しています」

「じゃが、この兄が真面目な良い男でしての。熱心な勤めぶりで会社の上司にも可愛がられているらしい。最近では少し生活に余裕が出てきたのか、家族で近場の温泉に日帰り旅行に行ったりもしているようですな」

 近所のお年寄りの話を聞いてきた玄庵が顔を綻ばせながら報告する。

「ここ、数年間は琢磨の恋人の真琴という女性が頻繁に家を出入りしているようです。この女性が明るい良い人で、凛を実の妹のように可愛がっていて、すでに家族の一員として篠山家の人々に受け入れられてます」

「……大変だったろうけど、それでも特に問題ある家庭にはみえませんけど……」

 シオンが触覚を揺らしながら首を捻る。

「そうなんだ」

 アッシュが手帳を閉じて、後輩の不審顔に答えた。

「確かに今までは生活も余裕が無かったみたいだけど、だからといって家の中が荒れたことはなかったらしい。たぶん、家族がお互い助け合って暮らしてきたんじゃないかな。それに、この秋には兄と恋人との結婚が決まっていて、これからは明るい幸せな未来が見えている家なんだ。それなのにどうしてそんな家の子が魔族に憑かれたのか……」

 魔族に憑かれるには何か恨み、妬みといった大きな負の感情が無いといけない。

「……逆かも……」

 ぽつりとエルゼが呟いた。

「今、幸せだからこそ、何かの不安が出てきてしまったのかも……」

 唇の端が小さく歪む。

「大変なときには心の中に閉じ込めていたモノが、幸せになった今、気持ちが緩んで出てきてしまったのかもしれませんね」

「なるほどな……」

 班長が頷くと玄庵に向いた。

「離婚したという父親のことも調べてみてくれ」

「御意」

「どうやら万引き事件はその店に集中しているらしい。そこに凛という娘の動機や目的が隠れているかもしれん。シオンとアッシュは店や従業員が凛と関係ないか詳しく調べてくれ。エルゼはそのまま店員として見張りを頼む」

「はい」

「たぶん魔族の目的は苦労の末、幸せになりつつある凛の家族を『破壊』することだ」

 モウンは赤い瞳を光らせた。長い冬の後、ようやく春を迎えた人間の浮き立つ心を奈落に落とす。それは『破壊』を好む魔族にとり、欲望を大いに満たすと同時に極上の快楽も与える。

「必ず阻止する。各自しっかりと調査を進めてくれ」



 ――夏休み前の休日の昼下がり、凛は眩しい住宅街を歩いていた。自分達の住む薄汚れた古い家と空家を潰して作った駐車場ばかりが並ぶ町ではない。様々な色の壁に日の光を弾く屋根、玄関前のスペースや塀に季節の花々を飾った美しい街並みだ。

 その一軒の前で凛は足を止めた。真っ白な壁にオレンジ色の屋根、他の家々同様玄関周りには花の寄せ植えが並んでいる。今日もグングンとうなぎ登りに上がる気温に、家のサッシが開いて、レースのカーテンが風に揺れていた。――


 夏の光が眩しく差し込む自分の部屋で凛は膝を抱えて床に座り、ベッドに寄り掛かっていた。

「どうして……」

 小さな声が部屋にポツリと流れる。

『凛、琢磨、ごめんな……』

 今まで住んでいた家を出て祖父の家に向かう幼い彼女と兄に、男はそう言って涙を浮かべていたはず。

『私が貴方の望みを叶えてあげるわ』

 突然現れた不思議な女に、凜はつい最近感じるモヤモヤとした気持ちから、長年家族に言えなかった、ある望みを言った。女が見つけてきた家。そして……。

 立てた膝に顔を埋める。

 コン、コン。部屋に軽いノックの音が響いた。

「凛、いつまで寝てるんだ。今日はオレと真琴と買い物に行く約束だろう」

 兄の声がドア越しに聞こえてくる。凛はゆっくりと顔を上げた。

「お~い、凛~、起きろ~」

「起きているよ! 今行く!」

 ドアに大きな声で答える。

「朝御飯、早く食えよ」

 優しい呼び掛けの後、足音が遠ざかって行く。

「うん」

 小さく笑みを浮かべる。立ち上がり何かを払うように両手で服をはたくと、凛は部屋から出た。

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