2. 元魔術師長

 むなしいものだの……。

 窓から差し込む水面越しの青白い月明かりに、ゆらゆらと揺らめく自分の影を見ながら 玄武げんぶ一族の元長老である玄庵げんあんは、板の間の藁座の上で溜息をついた。

 軍師ユルグの魔王軍の大粛正で、破壊部隊で魔術師長を務めていた玄庵も軍から除隊させられた。その不名誉から一族を護る為、長の座を降りた彼を玄武一族の者達は、厄介払いが出来たとばかりに屋敷から追い出し、小さな泉にしつらえた隠居所に、下男一人を付けて放り込んだのだ。

 玄武一族は火・水・土・風の四大公爵家に次ぐ四神の一族。 『術』の玄武、『医』の青龍せいりゅう、『技』の白虎びゃっこ、『演』の朱雀すざくとそれぞれ四大公爵も一目置く優れた技能を持つ魔族だ。

 その中の『術』の一族の者として万年に一人の天才と言われた玄庵は術を極め、若き頃から長の座についていた。だが、どうやら長く、その座に座り続ける彼を快く思わなかった者が一族には多数いたらしい。友人もほとんどが第一線を引退、隠居し、妻を娶らず家族も作らなかった玄庵を擁護してくれる者はおらず 、彼はその者達によって捨てられたのだ。

 『術』に全てを掛けた人生を悔やむつもりはないがの……。

 玄庵は月明かりの中、老いた薄茶色の手をかざした。

 生涯を掛けて編み出した『術』がこのまま儂一人で消えていくのは悲しいのう……。

 しかし、やっと巡ってきた長の座を争う一族の中には、元長老の優れた術を学ぼうという殊勝な者はいない。

 静かな溜息が板張りの小屋に流れる。そのとき、ほとほとと薄い板戸を叩く音が聞こえてきた。下男はとうに隣の小屋で休んでいる。玄庵はゆっくりと立ち上がると土間に降り、自ら板戸を引き開けた。



「玄武一族の長老、魔術師長殿がこのようなところに住んでいるとは……」

 土間から上がった顔馴染の元大尉は驚いたように赤い瞳を見張り、水屋と狭い板の間一間きりの隠居所を眺めた。嘆きの声に頬に苦笑を刻む。玄庵は彼をもう一枚の藁座に座らせ、茶を淹れた。

「ハーモン殿は、今はどうされてますかな?」

 彼もまた、粛正により軍を追われたはずだ。茶を差し出しながら訊くと、モウンは照れたように頭を掻いた。

「後輩の家に居候させて貰いながら、彼の知り合いの卸売店の従業員をしています」

 その答えに玄庵が思わず目を閉じ、首を振る。

 むごいの……。

 軍師ユルグは個々の働きに関わらず、全ての尉官を除隊させた。それは下手に情けを掛けて、後々、過激派のつけ込む隙を作らない為だ。

 じゃが、老いた儂はともかく、先のある者が道を断たれるのは辛いの……。

 嘆きの息を吐く玄庵の前で、モウンがゆっくりと出された茶をすする。湯呑を板の間に置くと、彼はもう一度狭い部屋を見回し、膝を進めた。

「玄庵殿は魔王軍に復帰されるおつもりはありませんか?」

 突然の言葉に玄庵が自分の湯呑を手にしたまま、唖然とモウンを見上げる。

「実は私はさる方の命で、ある部隊の長を任される予定なのですが、その隊に玄庵殿に是非入隊して頂きたいのです」

「一体なんのことですかな?」

 戸惑う玄庵にモウンが説明する。

「軍の上層部におられる、ある方が軍内が混乱している今、自ら選んだ兵士による隊を作り上げようとされています。何かあったときに自分の意志で動かし、速やかに対処出来る隊を。私はそれに玄庵殿も加わって頂きたいと思っているのです」

 魔術師長だった玄庵は、軍の中の異端者だったモウン達一派をたしなめつつも、裏で何かと助けてくれていた。過激派の将校に迎合し、禁断の術に手を染める魔術師が多かった中で、魔術師としてのモラルを保つ存在でもあった玄庵も、その方の求む『揺ぎ無い意志と実力を持った兵士』に違いない。力説するモウンに玄庵は困った笑みを浮かべると湯呑を置いた。

「御推挙は光栄ですがな、御辞退致します。儂のような老爺より、もっと相応しい者がおるでしょう」

 赤茶色の瞳が、ぼんやりと終の住まいを映す。魔術師長だった頃の欠片も無い、玄庵のすっかり老け込んだ様子にモウンは瞳を歪めた。

「しかし、私には玄庵殿がこのようなところで一人で終わりたがっているようには見えませんが」

 モウンの目が隅の文机に向かう。文机には硯と筆が置かれ、脇に何枚もの白い紙が、 反対側には字の書き連ねた紙が重ねられていた。先程の自分の嘆きを指摘するように、その一角を見詰めるモウンに玄庵が小さく肩を竦める。

 そこで書き綴っているのは、今まで自分が編み出した術の術式……魔術師が術を使うときに使う呪文や精神、魔力の使い方を文や記号で書き表したものだ。今は学びを請う者がいなくても、いつか、もし知りたいと願う者が出たらという淡い期待から、この隠居所に来てから玄庵は毎日これを書いている。

「玄庵殿に見て頂きたいものがあるのです」

 モウンが持って来た書類カバンを開けた。封筒を取り出し、中身を差し出す。 分厚い書類の束に玄庵が目を落とす。白い用紙にびっしりと書かれた細かい文字はある魔術の術式だった。優しい女の文字で、精神系の浄化の術の式がいくつも書かれている。

「これは……!?」

 その式を追う玄庵の瞳が徐々に輝きを帯びる。「なんと……繊細で美しい……」感嘆の声が漏れる。

 それはまだ未熟だが、きめ細やかな心配りの施された術式だった。自分の負担を最低限に抑え、術を最大限に生かし、それでいて 掛ける相手に対する心使いが随所に溢れている。

「これは私の後輩の妻の妹が書いたものです。後輩に頼まれて、この術式を知り合いの魔術師に見せたところ、巧みさが認められ、彼女はこの春、魔王軍に入隊し、今、新兵の基礎訓練を受けています」

 ただ……眉を潜めたモウンの言葉を先に玄庵が指摘する。

「この娘、余り魔力が高くないのですな?」

「やはり、見抜かれましたか……」

 モウンが頭を掻いた。

「実はサキュバスの娘なのです。その為、魔力が低いうえに、幼い頃苦労したせいか人を傷つける術が使えないのです。それで魔王軍に入隊した後、どう進むべきか本人も迷ってまして……」

 サキュバスは、風の一族の最下位の一族。魔王軍に入隊出来たということは、その中でも強い力を持っているのだろうが、高位の魔族にはとても及ばない。

「彼女を育てては貰えませんでしょうか?」

 モウンは玄庵に頼んだ。

「玄庵殿の術は複雑な為、極められたものほど使える者が限られていると聞いています。 今、玄武一族に担い手がいないのも、それを使う才に足る者がいないせいとか。しかし、彼女なら玄庵殿の術を受け継ぐことが出来るのではないかと思います」

「確かに……」

 玄庵は書面を見ながら唸った。

「この巧みさは、魔力の低さが生み出したものでしょうな……。しかし、見事にカバーしている。この娘なら儂がつい、玄武族の魔力の高さに頼って組み上げてしまった術も一般化出来るかもしれん……」

 最後は独り言のように呟きながら玄庵は久々に胸が躍るのを感じた。受け継ぐだけでなく更に極め、広める。この娘ならそれが可能だ。

「では、承諾頂けますかな?」

 再び誘うモウンに玄庵は顔を上げ、にこりと笑った。

「良いでしょう。これほどの才の者を見せられては、同じ術士として断ることなど出来ませんな」

 声にもさっきとは違う気力が戻っている。

「では、こちらの用意が出来次第お迎えに上がります」

 モウンが立ち上がった。

 土間に降り、板戸に手を掛けたところで「そうでした」彼は見送りにきた玄庵を振り返った。

「実はもう一人、メンバーに、と思っている男がいるのですが、その男は力は有り余るほど持っているのですが、どうも使い方が粗いのです。入隊したら玄庵殿の手で、そいつも鍛えては貰えませんでしょうか?」

 モウンの困った声に、彼がいつも連れていた副官が思い当たる。

「それは良いですが……儂で宜しいですかの?」

 彼はブランデル公爵家の三兄弟のうちで最も強い力を持っていると聞いている。もう一つ与えられた楽しみに、玄庵が嬉しげに喉を鳴らす。

「ええ、ビシバシと思いっきり鍛えてやって下さい」

「承知しましたの」

 二人が笑う。小さな池にここに人が来てから初めての明るい声がこだました。

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