3. 元破壊部隊第一隊副官・准尉
夏のどこか緑掛かった風が目の前に広がる野菜畑の畝を涼しげに揺らしていく。
畝の中には丸々と育った野菜と、公爵家当主を長男に譲り、日夜好きな料理に腕を奮っている父、貴族同士の付き合いを長男の嫁に、城の管理を次男の嫁に受け渡し、公爵夫人の務めを引退した母が、孫と一緒に楽しげに豆の収穫をしていた。
「アッシュ、よく熟れた赤い実だけを取れよ」
「解っているよ、父さん」
畝の向こうから掛ってくる父の声に答えて、アッシュは真っ赤に熟した実の緑のツンと尖ったヘタの上にハサミを入れる。切り取った途端、手に掛かる、ずっしりとした重みに思わず笑むと、それを腰につけた籠にいれた。籠には夏の日差しにキラキラと皮を照からせた野菜達が入っている。
ここは広大な緑の領土の中に聳え立つ火の一族の第一種族、サラマンドラ族の総統ブランデル公爵家の居城。その中の広い庭の一角に作られた現公爵夫人専用の野菜畑だ。
魔王軍司令部では冷静沈着、公正かつ厳格な大将で知られるエドワードは、城に戻れば 二人の弟から『妻への返事は『はい』か『Yes』しか持ち合わせてない、馬鹿夫』と呆れられるほど己の妻に甘い。その彼が愛妻……上に『溺』がつく……マールの『私、家族の為に美味しい物を育ててみたいの』という『お願い』を二つ返事で承諾し、作らせたものである。
元々、花を育てることが好きだったマールはこちらの才の方も優秀だったらしい。初めは唯一の例外……勿論、馬鹿夫……以外『こんなものを城の庭に……』と渋っていた公爵家の人々も、季節毎に次々実る市場のモノより遥かに出来の良い野菜に、今では嬉しい悲鳴を上げている。
そのいかにも『食べて』といわんばかりの美味しそうな赤い実に、たまらずアッシュは篭の中に手を伸ばした。シャツの端で軽く表面を拭き、思いっきりよく齧り付く。甘味と酸味が程よく混じり合った汁が口一杯に広がり、 はちきれんばかりの果肉がシャクシャクと心地良い。一気にヘタギリギリまで食べ、口端を軽く手の甲で拭うと、ついもう一つと手を伸ばした。
「美味しい?」
二つ目に噛り付いたところで優しい声が掛かり振り返る。
目の前には夫に贈られた白い麦藁帽子に、涼しげな作業着姿で畑仕事をしている義姉の笑顔があった。
「マール義姉さんの作る野菜は最高だよ」
もう一口かぶりついて答えるとマールが笑う。
「良かったわ。食欲もちゃんとあるみたいね」
心底嬉しそうに言われて、アッシュは照れた笑みを浮かべた。
大粛正の後、アッシュは張り詰めていた神経の糸が切れ、城の自分の部屋から一歩も出れず、ベッドで寝てばかりの日々を過していた。部隊時代から世話になっていた青龍族の医師の治療と、黙って自分が回復するのを見守ってくれた家族の愛情に、なんとか部屋から出られるようになったのが一年後。それから更に二年掛けて、ゆっくりと復帰したのだ。
今ではこうして日常生活も送れ、外出することも出来るようになったが、それと共に今度は粛正を受けた総統家の三男を、一族から除名させようする動きが起こっている。今は長兄と次兄が防波堤になって、その話を家内に持ち込まないようにしているが、それが軽くなったとはいえ、まだ精神安定剤が手放せない彼を三年前の彼に戻してしまうかもしれないと、家族は心配しているらしい。
「もう大丈夫だよ」
そう言って食べ終える。マールがハンカチを渡してくれる。それで口の周りを拭っていると、彼女はアッシュの後ろを見て背伸びして手を上げた。
「ここよ! ケヴィン!」
「義姉さん、アッシュ」
黒いタイを占めた執事服姿の次兄、ケヴィンが畝の間を足早にこちらに近づいてくる。 彼は普段は魔王軍の司令部に務める為、家族と離れ王都の屋敷で暮らしている長兄の名代として秘書の妻と領土と城の管理をしている。いかにも『火の王』らしいきっちりとした性格の長兄に対し、次兄は明るい陽気なタイプ。アッシュともよくふざけ合う仲だ。その兄が弟を前に珍しく口ごもると、義姉と畝の向こうの両親を見た。
「どうしたの? ケヴィン」
優しく呼び掛けるマールの声にケヴィンはようやく口を開いた。
「アッシュに客人が来ている。以前の上司のハーモン元大尉だ」
アッシュが赤金色の瞳を見開く。そんな彼の背中に優しく手を置くと、マールは顔を強張らせた義父、義母に笑みを向け、柔らかな声で義弟に話の先を促した。
「ハーモン様はどこに?」
「今、アンが来客室にお通ししている」
「きっとエディから話を聞いて迎えに来て下さったのね」
「そうおっしゃっていた」
アッシュは野菜の畝の向こうから不安そうな顔で自分を見ている母に微笑んだ。
「大丈夫だよ、母さん」
母の肩を抱き、大人達の様子に少し怯えて周囲を見回す孫の頭に手を置くと、父がニヤリと笑う。
「ハーモン殿に昼食は是非御一緒にと伝えてくれ。私が腕によりを掛けて用意する」
「解った、父さん」
アッシュが篭をマールに渡す。「時がきたのね」マールが囁く。それにしっかりと頷き返すとアッシュは次兄と城に向かった。
「ケヴィン様も同席して頂けますかな? 後でエドワード様にお話頂けると有難いのですが」
「では、そうさせて頂きます」
ケヴィンが「それでは……」と侍女の運んできたワゴンで来客に茶を淹れ始める。
「……ブランデル公爵家は食に関しては全て公爵家の男子が指揮っているというのは本当 なんだな?」
その後姿に赤い瞳を丸くする元上司を前に、アッシュはくすぐったげに肩を揺らした。
「赤ん坊のミルクまで家族の口に入るものはなんでも作りたがりますから……。やらせないと気を悪くするので女性達も諦めてすっかり任せているんです」
ブランデル公爵家は代々料理好きの男が産まれる家系。三度の食事からティータイム、 あげくは子供のミルクや離乳食まで、およそ家族の食に関することは全て男達が自分で手を掛けたがる。
見事な手さばきで茶を淹れたケヴィンがテーブルにカップを配る。朝、畑で取れた野菜を綺麗にカットして並べ「義姉の自慢の野菜達です。是非、御賞味下さい」出された皿にモウンの瞳が更に丸くなった。
「公爵夫人も変わっているというのは本当なんだな……」
思わず出た言葉に兄弟が顔を見合わせて笑い出す。笑いが収まり、モウンが皿の野菜を口に運んで「ほお……」 無骨な顔を綻ばせたところでケヴィンが話を切り出した。
「兄から話は聞いてます。ハーモン殿は去年の春、魔王軍に復帰されたそうですね」
「はい。エドワード様のお力添えで末端部隊ですが、特別部隊破壊活動防止班の班長を拝命しました」
モウンの答えにアッシュの顔が曇る。目の前のモウンは破壊部隊時代と同じ黒の軍服を着ているが、特別部隊の証の左胸の銀糸の魔王印を除けば、ほとんど飾りの無い質素なものだ。肩の階級章も大尉からずっと落ちて、伍長を示す二本の線のみ。破壊部隊時代の華やかさは見る影もない。義姉の話では、見事にどん底まで落ちた名家ハーモン侯爵家の元当主と、その部下となった玄武一族の元長老は、貴族の社交界で笑い者になっているという。
「今はまだ班員が規定人数まで揃ってませんので、もう一人の部下と主に他班のサポートをしています」
しかし、顔はあの頃の精悍なまま、何か吹っ切れたような明るい笑顔でモウンは話す。
「あの方は、どうやら人選に相当こだわっておられるようですね」
ケヴィンがチラリと裏事情を匂わせると、その顔が真剣になった。
「デュオス様は実の兄に裏切られましたから……班員の一人は私の後輩の妻の妹で、今、新兵として基礎訓練を受けている術士の娘が内定しています。そして……」
「もう一人が、班長の元部下で信頼のおける大将の実弟ということになるんですね」
ケヴィンが弟を見る。モウンはアッシュに向き直った。
「来てくれるか?」
自分同様、相当身を落とすことになるが……。躊躇うモウンをアッシュは真っ直ぐ見詰め、微笑んだ。
「勿論。喜んで任に着かせて頂きます。……これでようやく、今までの償いが出来るのですから」
アッシュの笑みに差した影に二人が痛ましげに顔を顰める。少年時代の柔らかい心に負った傷は、そう簡単には癒えるものではないのだろう。
『だからこそアッシュをもう一度ハーモン殿の配下として、この世界の『平穏』を護る存在にしたい』
エドワードはそう二人に言っていた。
「ケヴィン兄さん、お願いがあるんだ」
アッシュが次兄に向くと顔を引き締める。
「公爵家の皆の名誉の為に、一族の要望に乗って、オレを除名して欲しい」
「アッシュ……!!」
何か言おうとするモウンをケヴィンが片手を上げて止める。
「良いんだな」
確認の声にアッシュが黙って頷く。
「兄さんのことだから、きっと一族と縁は切っても、家族の縁は絶対に切らないと言うぞ」
「だろうね」
アッシュが小さく笑う。ケヴィンはモウンに向き直った。
「兄とも相談していたのですが、これを機に弟を一族から解放してやろうと思っているのです。今までの分、これからは自由に生きられるようにしてやろうと」
「そうですか……」
貴族……特に総統家には一族の様々なしがらみや思惑が絡みつく。アッシュをそれから解放してやろうというのも、若くして苦労した彼への二人の兄の愛情なのだろう。
「では、これに必要事項を書いて、特別部隊他世界監視室まで持って来てくれ。そこで簡単な面接と審査を受けて、入隊することになる。階級は兵長、うちの班の副長になる予定だ」
モウンがアッシュに持って来た封筒を手渡す。それを受け取り中身を見て……アッシュはジト目で 、また上司となる男を睨んだ。
「オレの入隊に関する書類は、確かに受け取りました。ですが……」
アッシュがテーブルの上に書類を出す。そのうち数枚を手に取ると、残り十数枚は置いたまま指でつつく。
「……これ、班長が室長に提出しなければならない書類ですよね」
「ああ、それも頼む」
アッシュのじっとりとした視線から目を逸らして、モウンがそ知らぬ顔で茶をすする。
「……またオレに自分の書類の処理をさせるつもりですか……!」
破壊部隊時代も、この上司は書類のたぐいの作成が苦手で、それは全部副官のアッシュの仕事だった。今また全く同じ事をしてくるモウンに思わず肩を落とす。
「最初は玄庵に頼んでいたのだが、直ぐに俺が書類を持っていくと、姿を消すようになってなぁ。エルゼにも時々頼んでいたが、あの娘は今度受ける術士の試験の勉強で忙しくて、もう頼めなくて……」
困ったように鼻を鳴らすモウンに、げんなりした顔で書類を見ていたアッシュが声を上げる。
「しかもこれ、今日〆切じゃないですか!! 書類を受け取ったら出来るだけ早く回してくれと、あれほど頼んでいるでしょう!!」
「す、すまん。ついデスクの上に置きっ放しにして……」
「デスクの上はいつも整理整頓して下さい!!」
すっかり破壊部隊時代と同じ関係に戻っている。ぶつぶつ言いながらテーブルを離れ、書類の束に目を通しながらペンを探す弟と、それにこっそり手を合わせる上司にケヴィンはたまらず笑い出した。
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