3. 赤い闇

 夕方四時半。帰りのホームルームが終わり、部活の生徒は学校のそれぞれの場所に、 帰宅部は家に足を運んだ頃を見計らって、優香はモウンと約束した校門へと向かった。 門の外にはいかつい顔の中年男性が立っている。 浅黒い肌に四角い顔、大きな鼻の角刈りの男を校門から出る学生が恐々と 、側を通る近所の人が鋭い目で見ている。下手すると通報されてもおかしくない周囲の雰囲気に男は太い眉を困ったように顰めていた。

 そんな周りの疑惑の視線を振り払うように明るい笑顔を浮かべながら、優香は男に近づいた。

「お待たせ、モウン」

「ああ」

 優香の姿に人間に変身したモウンがほっと息をつく。

「この格好……おかしいのか?」

 側を通ったカップルとみえる男女の生徒の怯えた視線を見て問うモウンに、優香が必死に笑いを噛み殺す。

「エルゼ姉さんが用意した服を着たんでしょ? 大丈夫だよ」

 モウンは初夏らしい清潔感のある服装をしている。淡い水色のシャツに ベージュのスラックスとサマージャケット、どこから見ても 学校に用があってきたPTAの父兄だ。……顔を除いては。

 もう少しカッコ良く化ければいいのに……といつも思うが、この街を歩けばヤの字のつく強面の自由業の方々に御辞儀をされそうな男の姿がモウンにとって一番楽に変身出来る人型の姿らしい。 前にシオンに『これが最近の男性の服装ですよ』と騙されて、赤いシャツに黒いネクタイ、白いスーツにご丁寧にサングラスまで掛けて繁華街を歩いたときは、ごつい顔の小父様方に次々に挨拶され、ゾロゾロとついて来られた。 どうやら同業者の偉い人と勘違いされたらしい。 最も帰宅後、シオンは昨夜同様、モウンの怒りの鉄拳にボコボコにされたが。

「こっちだよ。モウン」

 腕を取り、モウンを校内に入れた途端、つかつかと校舎から中年の女性教師が出てくる。 指導部顧問の口うるさい教師の顔に、優香が条件反射でビクリと身体を震わせた。 校門が見える職員室の窓から外を見張っていた教師が、学校内に入ってきた不審な男に詰め寄る。

「失礼ですが、どなたですか?」

 言葉は丁寧だが詰問するような口調に優香が慌てて口を開く。その彼女を手で軽く制してモウンは、教師に真っ直ぐ目を向けた。

「二年五組の皐月優香の保護者で、叔父の森田もりたです」

 モウンは世間的には、優香の親戚の叔父という触れ込みになっている。 ちなみにアッシュとエルゼは、一緒に暮らしている遠い親戚の若夫婦。玄庵はその夫婦が面倒を見ている祖父、シオンは……両方共不本意らしいが……モウンの息子だ。複雑な事情で六人が一つの家で暮らしているということになっていた。

「実は中間テストの成績のことで、姪の担任の先生にお話があると呼ばれまして……」

 穏やかで丁寧な口調でモウンが教師に嘘八百を述べていく。見掛けよりずっと礼儀正しい男に、教師の目から不審の影が消える。その途端に瞳の焦点が僅かにぶれた。

 掛かった……。

 優香がそれを見て内心呟く。モウンの催眠術だ。魔族であるモウンにとっては人間の、それも何の力も持たない者に術に掛けることなど、息を吐き出すのと同じくらい簡単に出来る。

「……ああ、水谷みずたにからお話を聞いてましたわ」

 教師が答える。

「でも、水谷は今、職員会議中でして……」

「ええ、少し早く来てしまいました。申し訳ありませんが、会議が終わるまで校内を見学させて貰っても宜しいでしょうか?」

「……ええ、どうぞ」

 教師が頷くときびすを返し、少しおぼつかない足で校舎へと去っていく。

「さすが……」

 思わず優香の口から出た言葉に「当り前だ」とモウンが答える。

「さて、現場に案内してくれ」

「こっちだよ」

 優香が呪いの包みを見つけた中庭へと先立って歩く。

「ああ、それからな」

 彼女の後姿にモウンが、意地の悪い笑みを浮かべた。

「折角そういうことにしたんだ。この後、お前の担任の先生と成績について話し合うからな」

「え~!!」

 優香の悲壮な悲鳴が、夕焼け空を高く駆け上った。



 中庭は既に淡い夕闇に満ちていた。 コの字を描くように校舎にそって植えられた樹木は青々と茂り、真ん中に作られた園芸委員の花壇では、背の高いグラジオラスが蕾をつけ始め、大きく育ったヒマワリが出番を待っている。 その一角の学校一古い木である椿の木を優香は指差した。

「あの根元に埋められていたんだ」

 冬には大輪の赤い花を次々と咲かし、校舎に彩りを加える古木の根元。何度むしっても力強く茂る雑草の覆う地面に、土を掘り返したばかりの跡がある。 モウンが用心深く周囲を見回すと、その前に屈んだ。

「……やはりかなり強い念だな……」

 乱れた土の上に軽く手を翳して唸る。跡の右、椿の枝が大きく張り出した一角に鋭く目を向けると、後ろの優香を振り返った。

「ここに足を置いたか?」

「ううん」

 優香が首を横に振る。

「私は、こっちの花壇の近くで作業してたから、そっちには行ってないよ」

 優香の答えに、モウンは跡を踏み荒らさないように回り込んで足を運んだ。「ふむ」と鼻を鳴らす。

「どうかしたの?」

 声を掛けると、大きな手が優香を招いた。

「足跡があるだろう」

 隣に立って覗き込む。太い指が草叢を指す。 モウンや優香が近づいた方角とは全く反対、校舎側の草叢が揃えた大人の足の大きさで、確かに踏み折られている。だが周囲にはそれ以外、足跡は全く無い。 モウンの目が側の校舎の壁を駆け上り、夕焼け色に染まった空を見た。

「微かだが魔気を感じる。掘り返されたとはいえ、強い念に誘われて現れたようだな」

 モウンがまた回り込み、土を掘り返した跡の前に戻る。屈み込むと、再度手を上に翳した。 そのままピクリとも大きな身体が動かなくなる。

 遠くで烏の鳴く声が聞こえる。そよそよと梅雨の前の冷たい風が吹いてくる。 次第に闇が忍び寄る中庭。少しずつ消えていく学校の喧噪に不気味さを覚えて、優香は思わずモウンの背に手を伸ばした。

「何してるの?」

 細い指先が、サマージャケットに触れる。次の瞬間、優香の目の前が薄暗くなり 映写機が映画を映すようにある光景が脳裏に映り込んだ。



 その少女は頑張り屋だった。活発で真面目な女の子。運動神経は鈍いが、自分の入部している女子サッカー部が大好きだった。

 入部当初の玉拾いも、体力作りのトレーニングも、ボールやユニホームの手入れも、一生懸命こなした。 次第に練習は技術的なものに進んでいく。が、少女は生来の鈍さかなかなか上手くはなれない。だが、頑張った。次々と他の子に追い越されても、人の倍頑張った。 それでも人並み程度にしかうまくならなかったが、周りの部員も彼女の頑張りを認め、 先生も努力を誉めてくれていた。

 そして、三年生最後の大会。一度も試合の出たことのない少女は、とうとうスタメンに選ばれた。 といっても補欠だ。しかも一番ビリ。 でも、試合中はユニホームを着て、ベンチに座ることが出来る。

 少女は喜んだ。二年半の頑張りが認められた瞬間だった。同じ部員も親も友達も皆、喜んでくれた。それなのに……。


『どうしてうちの子が試合に出られないのですか!!』

 キンキンとしたヒステリックな女の声が夜の職員室に響く。

『うちの子は小学生のクラブでは、ずっとレギュラーだったのですよ!!』

『それは、その、小学生と中学生の試合ではレベルが違うということで……』

 顧問のオロオロとした声が答える。だが、女の声は反論に煽られたかのように、ますます高くなっていく。

『試合に出られないでは、部活をしている価値がないじゃありませんか!!』

『私はレギュラーにさせる為に、部活をさせているんです!!』

『だったら、部活動で費やした時間をここで返して下さい!! その分勉強させますから!!』

 次々と矢継ぎ早に、女の理不尽な声が積み上げられていく。甲高い声は次の日もその次の日も職員室に鳴り響いた。

 女は自分の主張を積み上げるだけ積み上げる。決して自分からは、それを崩さない態度に顧問は解決策を見出せない。

『解りました。ではレギュラーは無理ですが、補欠ということで……』

 顧問の弱りきった声が答えた。


『補欠を替える』

 顧問が少女に告げる。自分に代わっての新しい補欠は、今年入ったばかりの新入部員だ。 ようやく玉拾いや基礎トレーニングを終えたばかり、まだボールを使っての練習を始めたばかりの一年生だった。

『どうしてですか!!』

 少女よりも、まず部員達が驚きの声を上げる。レギュラーの子も、スタメンに選ばれなかった子も、代わりに選ばれた本人も突然の話に驚いている。だが、顧問は部員達に告げる。

『彼女の方が、これからの部活動の為になるからだ』

 その言葉に少女は唇を噛み締めつつ、大好きなサッカー部の為に補欠を諦めた。

 ……数日後、少女の耳に職員室での騒動の話が入る。 問い詰める少女に涙を浮かべた目で、補欠になった新入部員は謝った。

『ごめんなさい。……うちのお母さんを許して』



 目の前が真っ黒に染まる。いや、黒……ではない赤だ。どす黒い赤が視界を埋める。 と、同時に手足がどんどん冷たくなってくる。

「おい!! 優香! どうした!!」

 モウンの声がどこか遠いところから聞こえる。 でも答えられない。息苦しいほどの赤が優香を包む。

『許さない!! 死ねばいいんだ!!』

 頭の中を悲痛な少女の叫び声が響き、優香はそのまま赤い闇に落ちていった。



 赤い闇がゆっくりと黒い闇に変わっていく。暖かなものが身体を包み、少しずつ内側に入ってくる。感覚が無いほど冷たくなった手足が、ようやく温かみを取り戻していった。

 瞼を開ける。ぼんやりとした視界で、モウンの黒い牡牛の顔が見えた。赤い瞳が心配げに自分を見下ろしている。

「あれ? モウン、変身解いて良いの?」

 呟くと周りで安堵の溜息が重なって聞こえた。 自分を囲む複数の気配に起き上がろうとすると、大きな黒い手が彼女を制す。

「まだ起きるな。玄庵どうだ?」

 その時、初めて優香は、自分が自分の部屋に敷いた布団に寝かされていることに気がついた。

 顔を横に向けると隣に玄庵が座っている。目を閉じ、何かを口の中で呟きながら 指を組んでいる。ふわりと身体を囲む暖かな力と力の波長に、優香は玄庵が自分に回復術を掛けていることが解った。

 玄庵が目を開く。赤茶色の穏やかな瞳が彼女に優しく微笑む。

「どれ、診てみますかの」

 正座のまま、にじり寄り顔を覗き込み、手首を握って脈を慎重に取る。

「目に力が戻ってますの。脈もはっきりしておりますし、手も温かみを取り戻しておりますな。 もう大丈夫でしょう」

「優ちゃん、びっくりしたんだよ~」

 視界に、シオンのザリガニの顔が飛び込んでくる。

「いきなり、班長から玄さんに調査が終わり次第、至急帰って来いって連絡が入って、急いで帰ったら、優ちゃんが真っ青な顔で気を失っているんだもん」

「気分はどう? どこかおかしなところはない?」

 隣からエルゼの顔が割り込み、心配そうに聞いてくる。

「気分は悪くないよ。ただ、何か身体が少しだるい」

 感じるまま正直に答えると、エルゼはほっとダークレッドの瞳を緩めた。

「良かったわ」

 そっと優しい手で優香の髪を撫でてくれる。

「私もアッシュも、班長の連絡で慌てて帰って来たの。着替えさせたとき、優香ったら手足が氷のように冷たいんだもの。本当に心配したわ」

 その言葉に布団を覗くと、さっきまで着ていた学生服ではなく、パジャマに着替えさせられていた。

「俺の不注意だ」

 モウンがすまなそうに謝る。

「残留思念から埋めた者を探っていたことを、優香にしっかりと告げておくべきだった」

「優香ちゃん、思念の探っている班長に触ったんだろう? 力への感応力がある魔術師で同じ年頃の女の子である優香ちゃんが、その強い念に同調して飲み込まれてしまったんだよ」

 アッシュが、彼女が気を失った理由を教えてくれる。

 そのまま余りに強い暗い念に、生気を奪われ倒れてしまった優香を、モウンが背負って帰り、術士である玄庵とエルゼに連絡、帰ってきた皆で彼女を部屋に寝かせつけ、回復術を施したのだ。 赤金色の瞳が推し量るように少女の顔を見る。

「優香ちゃん、御飯は食べれそうかい?」

「腹に物を入れると、心身共に回復するからの」

 玄庵の声に優香はゆっくりと布団から起き上がった。

「卵粥を用意しておいたんだけど、どうかな?」

「アッシュの卵粥!? 食べる!!」

 そのまま立ち上がって、居間に行きそうな少女に周りで笑い声が起こる。

「じゃあ、仕度して来るから待ってて。シオン、優香ちゃんに座椅子を運んでくれ」

「はい」

 アッシュとシオンが立ち上がって部屋を出る。

「モウン、あのね、私、見たんだけど……」

 先程はっきりと見た、少女の思いを語ろうとする優香をモウンは止めた。

「それは食事が終わって、身体も気持ちも、もっと落ち着いてからだ」

 そっと優香の顔を覗き込み、大きな手で小さな手の温もりを確かめるように包む。

「本当に悪かったな」

「ううん。もう大丈夫だから」

 優香が笑顔を返すと、モウンはようやく安心したように小さく微笑んだ。



「モンスターペアレンツって奴だな」

「ええ、この件に関しては掛けようとした方も、掛けられようとしている方も被害者のようですね」

 モウンとアッシュが優香の話に頷き合う。

 卵粥を食べ終えた優香を再び横にならせ、破防班の面々は自分達の夕食を済ませた後、 今日の各学校での調査報告を行った。 その結果、モウンと優香の案件が一番危険度が高いとして、再び彼女の部屋に集まり、彼女の見た少女の話を聞いたのだ。

「モンスターペアレンツって、この前ドラマでやっていたアレ?」

 首を捻るシオンにアッシュが説明する。

「そう、給食費や学費を払わなかったり、子供の担任教師に苦情をつけたり、学校行事に 理不尽な要求を突きつけてきたり、学校生活に身勝手な意見を申し立ててきたり……この件のように部活動について口を挟んでくる親もいるそうだよ」

「うへぇ~」

 シオンが不快なときの彼の癖で、第二触覚をハサミでしごく。

「たぶん学校側としては事を荒立てないように、親の要求を飲んだんじゃろうの」

「でも、それで二年半の努力と最後のチャンスを無二されたんでは、怒るのも無理ないわよね」

 エルゼが端正な顔を顰める。

「それだけじゃないと思う……」

 座椅子に身体を預けて、アッシュの持って来てくれたホットミルクを飲んでいた優香がぽつんと呟く。

「『お母さんを許して』後輩の子に原因のお母さんを許してって言われたのが、一番辛かったみたい。 でも、その後輩の子の気持ちも私、解るのよね」

 溜息と共に出た優香の言葉に、一同が黙り込む。

 優香もまたそうだ。 親として手続きが必要なときしか、娘に会いに来ようとしない親、その都度に『少しは優香と過しては……』 と進める破防班の面々に、不快な顔を向ける親をいつも『お父さんもお母さんも忙しいの』と庇っている。

「助けてあげたいな……」

 優香の小さな声に、アッシュが頷くと班長を見た。

「確かに、この件は下手をすれば被害者にとっても、加害者にとっても命に関わる事になりかねません」

「ああ」

 モウンが太い腕を組んで、眉を顰める。

「そして、犯人にとっては一番美味しい件だ」

「どうして?」

 シオンの疑問の声に、術士であるエルゼが答える。

「まず呪い自体が、身勝手な妬みなんかから出たものじゃなくて、純粋な怒りから出ているものだからよ。 それだけに、ものすごく強いものになってるの。それと呪いを掛けられる者に、掛けようとしている者に対する大きな負い目があること。これによって何も知らない呪いを掛けられるより、何倍もしっかりと掛かってしまうわ」

 玄庵が丸い肩を下げる。

「関係ない優香を気を失わせるほどの強い念じゃからの。下手をすれば被害者は命を落としかねんの」

「人を呪えば穴二つ、もし自分のせいで相手が命を落としでもしたら、元は真面目そうな子だけに、加害者の子も後悔から再起不能になりかねないしね」

 モウンが大きく鼻を鳴らし、部下達を見た。

「よし、この件を最重要案件にする。犯人も必ず、この強い怒りの念に釣られて出てくるだろう。 シオンと優香で加害者になる少女と被害者になる少女を探し出し、見張りをつける」

「は~い!! じゃあ明日、優ちゃんの学校に生徒として潜入しま~す!!」

 嬉しそうにシオンがハサミを挙げる。

 本来の姿はどう見ても巨大ザリガニでしか無いシオンだが、モウンとは違い、人間の姿を取るときはサラサラの茶髪の、瞳の大きい美少年に変身する。優香には、どうにも納得いかないが、これがシオンが人型になったときの一番自分に近い姿なのだ。当然、女子中学生、女子高生、大人の女性からもモテモテで優香のクラスメートでも「紫苑様~」と彼を呼ぶ、彼のファンが何人もいるのだ。

「女の子と遊ばないでしっかり調査するのよ!!」

 エルゼがシオンの第一触覚をギュッと引っ張る。

「姐さん、痛い、痛い!!」

 喚くシオンに、他の破防班のメンバーが苦笑を浮かべる。いつもならエルゼと共にシオンをからかうのだが……優香は黙って考え込んだ。辛くても大好きなサッカー部のこれからの為に、後輩に補欠を譲った少女の顔と、涙を浮かべて先輩に謝った少女の顔が浮かぶ。

 どっちも傷つけちゃいけない……!!

 優香はギュッと膝の上の毛布を握った。

「どうした? 優香」

 モウンが思い詰めた顔の優香に声を掛ける。

「モウン、皆……」

 優香は自分を見る異形の家族に真剣な目を向けた。

「私からお願いがあるの」

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