第8話

坂本から電話で原田さんが自殺したことを告げられたのは、島に住んでから初めての春休みのことだった。

「え、まじ?」

「うん。遺書とかもなくて、家で首吊ってたんだって」

「……ふーん」驚きの感情は生まれて来ず、不思議と気持ちは落ち着いていた。「なんでだろうね」「でさ」彼女の言葉が言い終わる前に電話は切った。それからなんとなく、坂本を着信拒否に設定した。

その日から春休みはあけても学校の授業は日に日に頭に入らなくなり、生きているという感覚は、空気が抜けた風船のようにどんどんしぼんでいった。先生の北海道への修学旅行の説明や、少ないクラスメイトがしゃべる言葉はまるで宇宙語だ。授業中に嘔吐感を感じ始めたあたりから、次第に学校に行く日も減っていった。

「光、起きてるか?」お父さんが優しい声でドア越しに尋ねてくる。「うん」と小さく返す。お父さんも「そうか」と同じくらい小さな声で言った。部屋の隅で体育座りをしていると、どこからかピアノの音が聞こえてきた。原田さんも弾いていたクラシック音楽だ

そういえば、私はあの子のことを何も知らない。誕生日も、血液型も、好きなものも、好きな季節も、何も。もっと、あの子のことを知りたかった。あの子と普通の友達になりたかった。放課後に好きな本を見たり、昨日見たテレビの話をしたり、そして、旧校舎であの絵についてくだらない議論を交わしたり。なんて素敵だろう。そんなことを今更考え付いたところで、原田さんは帰ってこない。

自分が死ぬことを考え出したのは、その三日後だった。

死に場所を探すために、平日にこっそりと家を抜け出す。お父さんが作業に熱中している時間帯を狙った。海沿いの道を歩いていると、波が叩きつける断崖絶壁にたどり着く。まるで刑事ドラマで出てきそうだ。ここなら、飛び下りれば死ねそうだ。崖沿いに頼りなく立ちすくむ。足はそこから動かなかった。ただ岩肌に打ちつける波を凝視するしかなかった。

原田さんに言った言葉を思い出す。「私を殺して」と。そうだった。私は誰かに殺されたかった。自分が持ち合わせるべき人間性を持ち合わせていない失敗作で、人間失格だと罵られながら首を切り落とされたかった。でもそんな都合のいい人はどこにもいないし、殺されるなら原田さんがよかった。そして死ぬなら、あの旧校舎しかないと思った。取り壊しは秋だから、まだ時間がある。忍び込んで、満月の夜にあの音楽室から飛び降りよう。そう思った。

潮風を感じながらお母さんの墓の前に立つ。お母さんはお父さんの実家のこの島が好きで、ここに埋められたいと入院中に告げたらしい。今一つ思い出が少なくて、特別な感情は湧きでてこないけれど。それでも、母の気まぐれで生まれた作品は、あの日の私の心の救いにつながったのかもしれない。

「ありがとね」もうすぐ、そっちに行くよ。そうつぶやき、近くに生えていたタンポポをそなえた。

お父さんにはもう遺書を書いておいた。携帯の電源は切った。準備は万端だった。

夕方に乗り込んだ小さなフェリーのデザインは、どこかで見たことがある気がした。思いだそうと窓の外を見ながら記憶をさかのぼるが答えは出ない。あきらめて大小様々な島が右へ右へと流されていく様を眺めていた。そのオレンジ色の空を、暗く重たい雲が立ち込め、覆い隠す。今夜の満月は見られそうにない。島での短い時間を思い出す。結局こっちではロクに人と話すことができなかったため、回想は数分で終わりを迎えた。

到着後、数人の乗客の波に乗りながら、私も降りる。夕日はすっかり沈み、街灯が道を照らしていた。雲は夜空を灰色に染め、月の姿は見えない。「おや、どこかで見た顔と思えば」

後ろから聞き覚えのある声に呼びとめられた。振り向くとそこにいたのは、あの時の老人だった。今日はくたびれたTシャツに短パンを履いている。「おじいさん。お久しぶりです」

「珍しいな。里帰りかなにかかい?」

 死にに来た、なんてことが言えるはずもなく曖昧に頷く。老人は少し眉をひそめたが、すぐに笑みを浮かべた。

「そうかい。それにしてもこんな時間か。もう真っ暗だぞ?」

やはり何かに感づいているのだろうか。胸ポケットから老人は煙草を取り出し、火をつけた。今度は私に勧めてくることはなかった。このまま怪しまれるのも困る。別れを切り出そうとしたときに老人はポケットから一本の茶色い缶を投げ渡してきた。急な出来事であわてながらも、なんとか両手でつかむ。さっきまで冷蔵庫に入れていたみたいに、キンキンに冷えていた。

「おお! 譲ちゃん、ないすきゃっち!」

「……これは?」

「見てわからんのか?」缶のロゴにはカフェオレと書かれていた。今日はコーヒーじゃないらしい。「飲みな。なにかの縁さ」

私は礼を告げると、プルタブを開け、カフェオレを喉へ流し込む。とろけるような甘さに混じるほろ苦さが喉と心を潤した。そのまま老人は何も言わずに背を向け、手をひらひらと振りながら去って行った。操縦席の窓からは一羽のカラスが興味深そうにこっちを見ていた。

 久しぶりに歩く町。足取りは軽い。塾帰りの学生や、野良猫の鳴き声。帰宅ラッシュで追われる車。いろんな音や存在が私の世界に写り込む。その様が不思議と心を躍らせる。電車に乗ってからは本当にあっという間で、昔住んでいた町の空気は何も変わっていなかった」。まるで昨日まで住んでいたみたいで、こんなものかと拍子抜けした。今日もいつものように原田さんに会いにきたみたいで、鼓動は少し早くなった。

 壊れた門も、窓も変わっていない。自分が死にに来たのを思い出したのは、窓を乗り越えようとして尻もちをついた時だった。今度は助け起こしてくれる人はいない。鈍い痛みはメンタルを削っていく。自力で踏ん張り、埃まみれの尻をあげた。よろめきながら、闇に包まれた廊下を進む。月明かりの助けはない。地獄の底があるとするのなら、こんな感じなのだろうか。スマホの電源は入れられないため、ライトのアプリも使えない。何度も来たことは体が覚えているから道に迷うことはなかった。けれども進めば進むほど、現実との距離が離れているみたいで、鳥肌が立ち、身震いした。廊下の軋む音を聞いているのが耐えられなくなりそうで、耳をふさいだ。目も耳も何の情報を与えて来ない。本格的な暗闇の中に私はいた。

 音楽室に入るまで、原田さんが死んだことなんて嘘なんじゃないか。そんなくだらない妄想をしていた。一歩踏み締める度に涙腺が刺激され、ピアノらしきものに手が触れたとき、目から熱い雫が頬を伝った。あわてて袖で涙を拭う。ここの窓から飛び降りて死ねるなら本望だ。ここで人生の終わりを迎えよう。窓に向かって歩みを進める。そういえばここに来る夜は決まって晴れた夜だった。そうでなければ絵を描くこともできないうえに、原田さんの顔を見て会話もできないから。だから、窓に近づいたときに、雲の隙間から月の光が差し込んだとき、私の心にも光明がさしたように思えた。浮かび上がった黒いピアノの上には、白い埃に混じって小さなボイスレコーダーが飾られているように置かれていた。

 なんでこんなものが? 不思議に思い手に取り、椅子に座る。表面にかぶった埃を手で払い、再生ボタンを押した。

 月明かりで満たされた教室に響きだしたのは、吹き抜ける風のような優しいピアノの音色だった。全身の鳥肌が立ち、目を見開く。この囁くような弾き方は、とても馴染みがあるものだ。

そしてそこに加えられたのは、どこか懐かしい、甘くて高い歌声だった。うずくまり、雨だれのように涙が流れだす。繊細で、それでいて力強くその声は私の胸にぶつかってくる。呼吸を思わず忘れてしまいそうで、死んでしまうかと思った。多分私は今、彼女の歌に殺されたのかもしれない。歌詞の内容は、遠くへ行ってしまった好きな人を思う、ラブソングだった。熱心にノートに書いていたものは、これだったのかもしれない。涙を流している間に、彼女の歌は終わりを迎えた。

この痛々しい弾き語り女の声が誰なのかは分かっていたし、忘れたことなんて一度もなかった。そしてそれがもう二度と聞くことができない声だということも。

深呼吸し、涙は拭わず顔を上げる。教室は青白く、幻想的に照らされる。机や椅子の影が長く伸び、ほんのりと壁を、そして床を淡く染める。一緒に浮かび上がってきたのは絵具の跡だった。最初はその程度の認識だった。だが次の瞬間目を疑った。信じられずにパーカーの袖で目をこする。それは巨大な絵だということにようやく気がついた。

赤、白、青、たくさんのバラがぐちゃぐちゃと描かれている森の中で、ちゃちな机や椅子が教室のように置かれている世界。そこに学ランとセーラー服を身に纏った二人の人間らしきものがいた。描き方は乱暴ではあるが、今まで私がずっと続けていた落書きの内容だということに気がついた。

教室の天井にも、机の上にも、壁の隅々まで落書きは続く。ご丁寧に、私の塗りつぶした黒板のところは除いて。そしてそこに絵の一部のように蹲る一人の男がいた。最初は幽霊じゃないかと思ったが、それが私の前に付き合っていた男だということに気がついた。

 あまりの衝撃に言葉を失う。私が見ていることに気がついたのか、彼は顔をあげた。

「……久しぶり」彼は、真鍋は言った。

「そうだね」ピアノの椅子に座ったまま私は言う。

「俺、もう会えないかと思ってた」「私も」「来るの遅いよ」

 本当に、遅すぎた。そのまま会話は終わる。絵に描かれた二人の男女は後ろ姿のまま手をつないでいた。

「原田さんと、これ描いてたの?」座りこむ彼に尋ねる。

「……これを続けてたら、なにかわかる気がしてたんだ」

「何が?」

「橘さんのこと」

「……へー」何と返せばいいかわからず、そう相槌を打つ。

「……無駄だったのかな」半泣きで彼は言う。彼の頭にかぶっている埃を青白く月は照らした。椅子から立ち上がり、彼の隣に座る。彼の頭にある埃を無造作に払いのけた。

 私がいない間に、こいつと原田さんの二人で小さな青春を過ごしていたのか。私のことなんて、さっさと忘れてくれればよかったのに。蹲る彼に何をしたらいいのかわからず、目を細め、ぼんやりと絵を眺めることにした。その乱暴な描き方はまさしく落書きと称するにふさわしい。けれどその勢いは鳥のさえずりや陽だまりのぬくもりをそのまま表しているみたいで、自分もこの絵の世界に引き込まれてしまいそうになった。

「へたくそだなあ」

 真鍋と原田さんの集大成となる放課後の落書きをそう評し、ボイスレコーダーをもう一度再生する。外からはこんな時間にカラスの鳴き声が聞こえた。あいつもこの歌にやられたのかもしれない。

 静まり返った校舎に、再び彼女の歌声が響く。音質はいいとは言い難いが、この絵を目の前にして聞くことができるのなら、最高のコンサートホールではないだろうか。

「あんた、生でこの歌聴いたんだね」「うん。これ録音したの、俺だし」「こんなに歌うまいなんて、私知らなかった」「俺も。びっくりだよ。学校ではあんなにおとなしいのに」「偏見ってよくないよね」「本当にな」「あんたが言えたことじゃないでしょ」「君もだろ」その通りだと思い、笑った。

 そのままなんとなく目を閉じる。彼女の歌を聴きながら、絵の世界を頭の中に描き出す。その世界にいる彼らは、今の私たちみたいに楽しく会話をしている。まるで学校の休み時間みたいに。

 彼が原田さんと何をしていたか、聞きたいことは山ほどあるが、少なくとも再生時間が終わるまではいいだろう。

 青白いスポットライトに照らされた教室に、彼女の優しいピアノと甘い声は吸い込まれるように反響する。

「原田さん。あんなに、遠くに行くなんてな」

「あんたの責任じゃないよ。あの子が選んだんだから」

 彼女の選択は代えられないし、彼が悔む理由はないはずだ。だが彼は私の発言に不思議そうに首をかしげた。

「坂本も、原田さんがいくの知ったとき、結構ショック受けてたんだ」

「え、坂本、知ってたの?」自殺することを知られているのはさすがにどうなんだ。

「いや、普通にクラスのみんなもいくこと知ってたけど」それはあまりにも広まりすぎだろう。「だから、坂本に止めてもしょうがないって言ったんだよ」

「でも、さすがに止めるべきでしょ」

 自殺の選択をする前でなお且つ知っているのなら、なにかすべきだろう。なんだかかみ合わなくなってきた。

「まあでもさ、北海道だしなあ、親の都合だし」

会話への違和感がピークに達した。彼の言葉の意味がわからず、血の気が引いた。

「え、どういう意味?」

「あれ? 原田さんの引越し先、聞いてなかったの?」

その言葉はまるで、近所のスーパーがリニューアルしたことを話しているように軽かった。

坂本からの電話は春先だ。まさかと思い慌てて携帯電話の電源を入れる。入るまでの時間がとても長く、もどかしい。お父さんからメールが来ていたが無視し、着信履歴を見た。

着信は四月一日だった。事態を理解するのにおよそ一分を要した。

「坂本がなんか、君が帰ってくる必殺技を使ったらしいんだけど、効き目が遅いって思ってたんだ。結局なんだったの?」

なんて馬鹿な作戦だろう。しかも不謹慎すぎるし不正確だ。おそらく私が電話を切らなかったら、葬式の日程でも伝える計画だったのだろうか。遠回しにも程がある。だが、彼女が転校するって聞いたとしたら私は意地でも会いに来ないと思う。それが自分を守る唯一の術だったから。呆れとも安心とも言い難い奇妙な脱力感が襲い、体は横に倒れ、彼に寄りかかってしまった。

「え、え、ど、どうしたの、橘さん」

うろたえる彼の声に反応する気力はない。まるで空気が抜けた風船だ。

「ねえ真鍋、画材道具持ってきてる?」

 あの黒く塗りつぶされた黒板に描くとすれば、そうだな。この二人だけの学校に咲いた花に拠り所のようにやってきた、一羽のカラスなんてどうだろうか。

けれど、今すぐ動かなくてもいいかな、と思った。

もたれかかった彼の肩の温もりはあまり不快ではなく、思いのほか心地よかった。

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