第7話

停学の期間は終わるが、学校に行く気分にはなれない。なんとなく電車で海に行きたいと思った。

歩きなれない町の風景は新鮮で、小さなラーメン屋や釣具店に、小さな公園。どれもこれもが面白く見えた。潮の香りが近くなり、波の音もかすかに耳に届いた。足どりはさらに軽くなる。五分ほど歩いてたどり着いた海には船が何隻か浮かんでいて、フェリー乗り場も近くにあった。醤油屋を営んでいるおじいちゃんのいる島には、ここのフェリー乗り場からもいけた気がする。最後に行ったのがお母さんの葬式だったのを思い出す。おじいちゃんは最近体が悪くて休みがちだと言っていたが、心配だ。それからくぎのような形をした物体に腰をかけ、ため息を吐きながら、海を眺める。カモメやカラスの鳴き声に混じって足音が煙草の匂いとともに近づいてきた。音はどんどん大きくなり、やがて私の横に止まった。横を向くとそこには赤いジャケットをまとった老人がいた。久しぶりに副流煙の匂いをかぐと、無性にまた吸いたくなる。ずいぶん吸っていない。

「吸うか?」老人は海を見ながら言った。どうやら老人は私に話しかけているようだった。私が戸惑っていると、老人は言葉をつづけた。「おや? 喫煙者じゃないのかい?」

「……えっと、どうして?」

「目を見りゃわかるさ」

 茶色く欠けた歯を見せながら、豪快に老人は笑った。そして老人は紫色のタバコケースから一本取り出し、目の前に差し出す。しばらく受け取るか躊躇したが、誘惑に負けて受け取ってしまった。ポケットにはまだライターがあったため、それで火をつける。今までお父さんのしか吸ったことがなかったため、どんな味か興味があった。煙が口の中に入り、肺へ思い切り吸いこんだ。

ゲロみたいな味がした。。初めての喫煙の時みたいに、ごほごほと煙を吐き出した。こんなひどいタバコがこの世にあったのか

「ははは、嬢ちゃんには好みじゃなかったか」

「すいません、せっかくいただいたのに」

「いいってことよ、安物だしな」

 老人は美味そうにタバコを吸い続ける。これなら私は禁煙ができそうだ。それから特に会話もなく時間は過ぎる。老人はタバコを吸い終わったらしく、煙をアスファルトでもみ消した。

「おじいさんは何でこんなところに?」

 平日にこんなところでタバコを吸うなんて。海が好きなのだろうか。

「それはな、俺が海の男だからだ」現実ではなかなか聞きなれないフレーズに思わず噴き出す。「で、嬢ちゃんはどうしてこんな日に、こんな時間に、こんなところに、そんな格好でいるんだ?」

似たような言葉で四つも質問を重ねてきた。

「学校が臨時休校だったので、家に帰るのもなんだか悔しくて。それで海が見たくなって、ここに来ました」

「ははは!」面白そうに老人は笑った。

「何がおかしいんですか?」

「嬢ちゃんは嘘が下手だなあ」

 ……ばれていた。いやらしい笑みを老人は浮かべたままだ。

「なんでわかるんですか?」

「俺が海の男だからさ」

 その奇妙な言葉から、根拠のない説得力を感じてしまい、何も言えなくなった。そしてこの人には嘘が通じないだろうなと思った。

「すいません、さぼりです」苦笑しながらそう答えた。

「ははは、やっぱり嬢ちゃんは不良だな」にやにやと笑いながら老人は私を見た。「コーヒーでも飲むか?」

「いいんですか?」突然の誘いに心が躍る。

「折角来たんだ。まだ俺の船が出るまで時間はある。おいで」

 そう言って老人は立ち上がり、すたすたと来た道を戻っていく。あわてて立ち上がり、追いかける。船はすぐそこにあった。小屋が浮かんでいるような小さいフェリーだ。操縦席は当然客席より狭い。ややこしい機械がところ狭しと並んでいる中、冷蔵庫が追いやられるように置いてあった。それよりも驚いたことがある。

 フロントガラスの前で、一羽のカラスがこっくりこっくりと眠っていた。

「あの、これは」冷蔵庫を物色する老人に恐る恐る尋ねた。

「こいつか。俺の相棒さ」老人は誇らしげに眠るカラスを見つめた。

「ペットなんですか?」

「まあ、そんなところだ」

 そう言って私に缶コーヒーを一本投げ渡す。あまりコーヒーは飲まないのだが、さすがにそれは失礼だろう。老人は操縦席、私は近くにあったパイプいすを広げて座った。コーヒーの苦みが口に広がり、渇いた喉が潤う。

「こいつはなかなか面白いやつでな。まるで孫といる気分になる」

 老人の表情は柔らかかった。カラスは今も気持ちよさそうに寝ている。

「すてきですね」自分からこんなポジティブな言葉が出るなんて思っていなかった。海に来てから心の氷が解けたような気分になって自然と頬がゆるんでいた。

「きっとこの子、おじいさんのことが好きだと思います」

「ははは、そいつはいいな」そっと老人は、カラスの頭をなでた。

「どうします? いつかこの子が言葉を喋って、あなたを好きだとか言ったら」

「どうしますって、なあ」恥ずかしそうに老人は頭を掻く。「礼くらいは、言ってやらんとな」老人は笑った。

 原田さんに好きといわれて、頭は混乱した。意味がわからなかった。けれど、それだけなのだろうか。彼女の覚悟は、並大抵のものではなかったかもしれないのに。私はそれを嬉しいと思わなかったのだろうか。

 あの子の笑顔はとても好きだった。

 あの子のピアノの音も好きだった。

 あの子の走る姿も好きだった。

 それは彼女が私に向けた好きとは違うものかもしれない。それでも、もしかしたらわたしは

 あの子のことが結構好きだったのかもしれない。

「なんだかうらやましいです」

「何がだ?」

「わかりません」

 そう言うとまた老人は笑った。その日から私はカラスとコーヒーが少しだけ好きになった。

 けれどその日の夕食の席、お父さんから島に住んでいるおじいちゃんが死んだ話を告げられた。営んでいた醤油屋は、おじいちゃんが死んだことでおばあちゃん一人だけになる。だからお父さんはそこを手伝うことにしたらしい。

「お前を一人にするわけにはいかない。だから、引っ越しすることになった」

「唐突だね」

「昼間電話しただろ」

「学校だったし」

「さぼってただろ」ばれていた。当然か。「まああの学校も、お前に合ってなかったみたいだしな」

 勝手な解釈はしないでほしいな。

「引越しって、いつになる?」

「今週末には」

「すごい急だね」

それから一週間。今まで話していたクラスメイトが話しかけてくることはなく、原田さんに至っては学校に来ていなかった。授業も、休み時間も、放課後も、無価値なものとなり当然夜に旧校舎に行くこともなかった。孤独ではあったが、その不足を埋めるエネルギーを持ち合わせてはいなかった。三日後に、旧校舎が来年度に取り壊されることを発表された。私の描いた絵の内容が現実になったようで、少し気味が悪かった。

「旧校舎かあ、少しショックだな」夕食の席でお父さんは言った。

「やっぱり?」

「ああ、母さんとの思い出がつまってたからな。特に音楽室に」

「……」

 まさかと思い、詳しい話を聞くことにした。

「新校舎ができたときに、旧校舎の音楽室に母さんが忍び込んで、千年後の学校みたいなテーマで、黒板に絵を描いたんだ」

 こんなところで絵の謎があっさり解けるなんて思わず、拍子抜けした。一方原田さんに対する罪悪感は日に日に強くなっていく。メールや電話の着信がないか、しょっちゅうスマホを確認した。だから、引っ越しの前日にメールを受信したときは、心底胸が騒いだ。メールの主は、あのクラスメイトその一であった。

 内容は予想外なものだった。

「今晩ご飯食べに行かない?」  

その夜。

「何がおいしいの? ここ」

店内でカウンター席について、メニューを見ながら尋ねる。

「普通に醤油ラーメン美味いよ」

 クラスメイト一はスウェットの袖をまくりながら答えた。

「じゃあ、それで」

「トッピングは?」

「煮玉子」

「了解。すいませーん」

 いつもの甘えたような喋り方は、一切していなかった。その自然な雰囲気に私も安心し、気を遣うことはしなかった。彼女は味噌ラーメンに餃子を二人前注文し、私の注文も告げた。

「餃子は奢ったるよ」

「ありがと」

 お互い店員が運んできた水を飲み、一息ついた。

「で?」と私は彼女の方を見て言った。

「え?」

「え? じゃないでしょ、急に呼び出して」

「あー」なんだそんなことかといわんばかりに、彼女は気の抜けた返事をした。「別に、ただなんとなく、話したいなと思っただけ」 彼女はグラスの水をぐっと飲み干した。

「ふーん」

「あと、私の名前。坂本早苗ね」驚きのあまり冷や汗をかいた。

「……なんで今更名前?」平静を装いながら彼女に尋ねる。

「うーん。なんでだろ。今まで呼んでくれてはいたけど、なんとなく覚えてない気がして」

 坂本は怒っているようではない。むしろ面白そうに笑った。その五分後くらいに餃子が運ばれてきた。坂本は二人分の餃子のたれを小皿に注いだ。本当はいろいろ言いたいこともあっただろうけど。彼女はそれをぐっと飲み込んだんじゃないのだろうか。

それからラーメンが運ばれ、無言で麺をすすり、具を食べ、ときどき水を飲みながら、最後に蓮華ですくったスープを味わった。初めて来たこの店のラーメンは、うっとりするほどおいしかった。

「明日、もう行くんだっけ」帰り道、坂本がそう切り出した。

「うん」

「そっか」

 坂本は空を見上げた。雲がかかっていて、星はほとんど見えない。

「ごめんね」坂本はそう言った。

「何が?」

「たばこのこと」

「別にいいよ」いまさら彼女を恨む気にもならない。

「あんたさ、真鍋のこと全然好きになれなかったの?」またその話か。

「別に嫌いじゃなかったよ」「ほんとに?」「ほんとに」そこから私は続けた。「ただ、いろいろ食い違っちゃったんだよね。まあ勝手に食い違わせたのは私だけど」本心はもっと別の物ではあるが、間違ったことは言っていない。

「でもいいな。私があいつに一番向けてほしかった感情を、あんたに向けたんだから」

「告白すればよかったのに」

「そんな簡単な話じゃないよ」彼女はため息をついた。

「人を好きになるって、何なんだろうね」

 今私が心底疑問に思っていることが、それだった。

「うーん、なんなんだろうね」

 彼女もわかっていなかったらしい。もしも、私が最初から自分の感情をむき出しにして、彼女と話していたら、いい友達になれたかもしれない。

「ところでさ、光」「なに?」「原田さん、なんで暴れたの? あんたの友達だったの?」

 彼女の単純な問いかけに対して、言葉がうまく出て来なかった。原田さんとのあの日の出来事が脳裏をよぎる。「うん、まあ」曖昧にそう答えた。私の様子を変に思ったのか坂本は首をかしげる。

「全然気がつかなかったな。学校で話しているとこ見ないし」

 旧校舎のことを話してしまおうかとも思ったが、彼女との秘密の関係が誰かにばれるのはいやだった。「原田さんってさ、どんな子なの?」また答えにくい質問をしてくる坂本。どんな子、か。語るべきことが多すぎて、一言で言い表すには難しい。

「ごめん、うまく言えないかな」

「ふーん」スウェットのポケットに手を突っ込み、つまらなそうに彼女はぼやいた。「原田さんってさ、また学校来ると思う?」

「どうだろ」

「どうだろって……冷たいなあ。友達なんでしょ?」

「あの子が決めることだから」

 彼女が今何を考え、何をしているのか。それはわからないけれど、彼女なりに明確な答えを出すときが来るはずだろう。ピアノ教室を逃げ出した彼女なら、きっと。

「まあいいや、たまには帰ってきなよ、こっちに」

「帰って来れたら来る」

「そういうこと言う人って、絶対来ないよね」彼女の皮肉に思わず噴き出す。

「お。今の顔いいね」

「うるさい」

 そのやり取りの後、坂本とは別れた。結局私は原田さんに会うことなく、この町を去ることになった。好きって言ってくれてありがとうという勇気は、私にはなかった。

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