第6話

停学後、旧校舎に行く足は遠のいていた。原田さんの行動の理由はもちろん知りたかったし、絵も描きたかった。ただ会ったときどんな顔をすればいいのかがわからなくて、ずっと部屋にこもっていた。ただ逃げてばかりも癪だったから、一週間後旧校舎へ赴いた。空気は澄んでいて、冷たい。雲も少なく、満月は暗い夜道を穏やかに照らしていた。パーカーのポケットに手を突っ込み、旧校舎を目指す。歩く道も今までと変わらない。錆びついた門を開き、カギの開いた窓を探す。歩くたびに揺れていた、あの子のパーカーのフードをなんとなく思い出した。

音楽室に近付くにつれて、少しずつ足が重たくなった。手は震え、心拍数は明らかに増加していた。でも立ち止まるわけにはいかない。私を妨げるあらゆる要素を無視して、扉を開けた。

 音楽室に人の気配はなかった。肩すかしを食らい一気に脱力する。黒板の絵は何も更新されていない。最初に比べると倍以上のサイズはあるだろうか。ずいぶんと立派な作品になった。思い返せば、小さなころは何を描くのも楽しくて、小学校の頃は市の展示会に出されるほどだった。世界のすべてが美しく、かけがえのないものに見えていた。あの頃の自分をここに連れて来られたら、どんなものを描いたのだろう。そんなことを考えながら原田さんの定位置のグランドピアノの椅子に座る。ピアノの蓋の上に顔を伏せていると、いつの間にか意識は沈むように眠りに落ちた。

 夢を久しぶりに見た。夢の中で私は一羽のカラスだった。私は海をひたすら飛んでいた。何かを探し求めるように。いや、もしかしたら探し物はすでに見つけていたのかもしれない。それを誰かに伝えるために、私は羽ばたいていた。それは一体なんだろう。答えは、夢の中のカラスにしかわからない。

その時、頭に何かが触れた。温かい。その温もりに大きなやさしさを感じた。意識は夢から現実へと引き戻される。目を閉じたまま、その感触に身をゆだねる。手は頭から頬へ移り、愛でるように撫でられる。思わず目を開ける。眼鏡をかけた大きくてきれいな瞳が見えた。しばらくぶりの顔だ。

「あ、起きちゃった?」

 いたずらっぽく原田さんは言う。まるで昨日も会ったみたいに、自然な笑顔で。「橘さん、元気?」「元気だよ」「橘さん、もう来ないかと思った」「そんなわけないじゃん」

 久しぶりの会話を楽しみながらも、まだすっきりしていないことがある。私の胸の中で、ずっともやもやしていたことが、魚の小骨のように引っ掛かっていた。

「原田さん。私が聞きたいこと、わかる?」

 彼女の表情は少し曇る。あまり楽しい話ではないことはわかっているようだ。パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、彼女は俯く。急かすのも悪いと思い、私も黙って待つことにした。

「ショック、受けない?」しばらくして彼女は私に言った。

「聞かないとわかんないね」

 いつもの軽口を言うと、原田さんは苦笑する。しかたないなあと前置きし、話しだした。

「前から橘さんがいないとき、あの子たちの陰口、本当にすごかったの」

 予想はしていたことだった。彼女の言う陰口の内容は、私が誰に対してもいい顔をしていることとか、男子に媚を売っているだの、根も葉もないことまで、バリエーションに富んでいた。一番の件はこの間まで付き合っていた男の件で、私がいかに彼にひどいことをしたかを、憶測からいろいろでっち上げられ、いつしか彼女たちの中で私は極悪人へとなり下がっていたようだ。自分のことをほとんどしゃべらないと、勝手な解釈をされるのはよくあることだ。だって、本当のことなんて本人の前で言うわけがないのだから。

「止めようとも思ったよ」

「いいよ、そういうのは」

 止めようなんて思って実際に止められる人はいない。だから何もしなかった原田さんは正常なのだ。

「それから荷物検査をしようってなっちゃって、橘さんの鞄をあさりだしたの」

「大したもん入ってないのに」

「入ってたじゃない」あ、タバコか。完全に忘れていた。

「それでね、タバコがばれちゃって、これから橘さん大変なことになるんじゃないかって、そう思って鞄を守ろうとしたの」

「なんで?」そこが理解できなかった。別に私が停学になろうと、退学になろうと、この子には関係ないのに。

「だって、嫌じゃない」

「あんたにメリットないじゃん」彼女の態度に苛立ちを感じ、言葉が強くなったように感じた。

「嫌だったの」

「なんで」

 そこから原田さんは、たまっていたものを吐きだすように語りだした。

「あの子たち、橘さんのこと、何にもわかってなかったもの。橘さんがどれだけ苦労しているのかも、どんなにすてきな人なのかも。全然わかってない。あんなに毎日毎日我慢してるのに。それをなんであんな風に悪く言えるのか、全然わからなくて……」

 息を荒げ、叫ぶように訴える原田さんは今にも泣きだしてしまいそうだった。彼女の言葉を聞いていると、あの男と重なり、また胃袋の底が煮えたぎる。原田さんが落ち着いてから、私は独り言のように尋ねる。

「みんなにやさしいってさ、誰にも興味ないってことじゃないの?」

「違う」原田さんは続ける。「それは、違うと思う。橘さんはみんなが好きなんじゃないの?」何も言えない。心を針でチクチクと刺されている気分になる。「だから、好きな人に嫌われることが、何よりも怖かったんじゃないの?」

 あの男といい、彼女といい。なんでこうにも人の心にずかずか時踏み込んでくるのだろう。

「勝手なこと言わないでよ。」

 そんな自分の口から洩れた言葉は予想以上に重たく、ナイフのように鋭かった気がした。漏らした言葉はそのまま壊れた水道のように止まらなくなった。

「知ったようなこと言わないでくれる? どいつもこいつも屑ばかり。カスばかり。私は口先だけの優しい言葉が何より嫌い。嫉妬にしか聞こえないの。私の絵を好きだって言ってくれた美術部の子がいたの。その子に展覧会に出す絵をめちゃくちゃにされた。みんな嘘ばっかりじゃない。あんたは同情している自分が好きなだけなんでしょ? かっこいいこと言ってるつもり? 私はあんたが思っているような素晴らしい人間じゃないよ」

原田さんは何も言わない。自分が言っていることがめちゃくちゃだってわかっていた。過去のことなんて持ち出しても、どうしようもない八つ当たりなのもわかっていた。だとしても彼女の善意かもしれない気持ちを否定していい理由なんて、どこにもないのに。

「あんたは正しいことをしたつもりだろうね。でも本当に有難迷惑。なにが目的なの? 私に心を許せる友達がいないから、友達がいない自分なら仲良くしてくれるとでも思ったの?」

 なんで私はこんなことを言っているんだろう。せっかく私の理解者になってくれたかもしれない彼女を、そしてあの彼もなぜ遠ざけようとするんだろう。言葉も涙も止まらない。どうしていいかわからなくて、心の中を掻きむしられているようだった。

「だからさ」

「私ね!」

 私の支離滅裂な罵倒をさえぎるように、原田さんは口をはさんだ。

「なに?」

「私が初めて自分の曲を作ったのは、小さいころ北海道から引越してばっかりのとき。市の絵の展覧会で、あなたの絵を見たときなの」

 市の展覧会。私が昔出したやつのことか。

「胸がドキドキしてね、ポカポカした。そしてね、メロディがあふれてきたんだ。その日にピアノであなたの絵の曲を弾いたの。あれが始まり。いつか、あの絵の橘さんに会いたいなって、そう思っていたの。そしたら、高校であなたの名前を見つけた。授業中、一人で抜け出したとき、チャンスだって思った。あの絵を見せたら、何か反応するかもって……それから、ここでの時間がもっともっと楽しくなって、あなたの絵を見るのも、声を聞くのも、話をするのも、とても幸せだった」

「だからなんなの」

 言葉を探すように、原田さんは唸る。そして覚悟を決めたように、私の目を見た。

「えっと、その、つまり」もごもごと、出会ったときと同じように俯く原田さん。

「なに?」じれったくて、思わずそう尋ねた。

「あなたのことが好きなの」

 体も思考も固まった。彼女の言葉の衝撃が大きすぎて、何も言えず真っ白なまま、時間は過ぎていった。何分かも、何時間かもわからず、ただ月だけが彼女の小さな体を白く照らしていた。

 車の走行音が聞こえたとき、ようやく声が出た。

「え」

 心のざわつきは、完全に鎮静化していた。その代わり、もっと厄介なものが現状に降りかかっていた。「どういうこと?」私は尋ねる。

「好きなの」表情を変えずに原田さんは答える。

「好きって」

「好きなの」

「そういう、あれ?」

「うん」

「まじで?」

「うん、あなたへの答え。全部、好きだからが答え」

 何も言えない。何が正しいのかわからない。同性愛に対して知識はあった。けれど私は多分ノーマルだし、女の子の体に興奮したりはしない。だから結論を言わしてもらうと、彼女の思いに私は引いていた。体がようやく動く。椅子から立ち上がり、私は教室の出入り口に向う。

「帰るの?」原田さんは、震える声で言った。彼女の顔をまともに見られない。

「うん」

「また来る?」

「無理かな」できるだけ冷淡に答えるように努めた。

「絵は? どうするの?」

 原田さんの声はとても不安定で、今にも泣きだしてしまいそうだった。私は黒板の前に立ち、一番大きな筆を手に取る。チューブから乱暴にパレットへ絵具を出し、筆に真っ黒な絵具をべたべたと殴るようにつける。バケツには前回から入れっぱなしの水があったため、適当に筆を湿らせておいた。

「男の子の思いに、女の子は答えられませんでした」

 私は筆で女の子を塗りつぶす。

「男の子の花束は、枯れてしまいました」

 男の子のバラの花束を黒く塗りつぶす。

「女の子は男の子のことを、そういう風に見ることはできませんでした。ふたりの関係は壊れてしまいました」

 男の子も塗りつぶす。

「女の子はこの校舎にもう来なくなりました。男の子もいつしかここに来なくなり、この校舎のことは人々から忘れ去られるようになりました」

 絵具で机を塗りつぶす。植物を塗りつぶす。花を、木を塗りつぶす。崩壊した教室は、絵具の闇に呑みこまれていく。後ろから鼻をすする音が聞こえた。

「誰にも思い出されないこの校舎は、いつしか存在すら失われました」

 私は筆を黒板にたたきつけ、床に画材道具をバラまいた。筆や絵具は床に散乱し、水をためていたバケツは倒れ、足元を濡らした。

「めでたしめでたし」

 私はそう言った。そのまま出入り口に向かって歩く。こぼした水のぴちゃぴちゃという音が、静寂の中に響いた。

「待って」

 出て行こうとする私の袖を彼女は掴んだ。その力はあまりにも弱弱しく、頼りない。私の右手は錆びついたドアから離れない。

「たちばなさん、」原田さんは何かを言おうと必死に言葉を探るようだった。その表情は見えない。私といる時間を一分一秒でも、延ばしたいのだろうか。

「ごめん」その言葉を最後に、私は教室を後にした。原田さんがどんな顔をしていたかは、私は知らない。知ることが怖かった。

 一歩足が進むたび、廊下は軋む。それが妙に怖くて、両耳をふさいで廊下を走り抜けた。いつも通っていた廊下は、普段よりも長く、永遠に続くようだった。

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