第5話
年頃の男の人の部屋に入るのは初めてだった。恋人ともなれば、いずれこういう日が来るんじゃないかと思っていた。彼の両親がたまたまいなくて、今晩一人だから、そのまま泊る流れに自然に持っていかれた。家具は少なく、シンプルな木の机に、ベッド、薄型のテレビに最新のゲーム機が床に置かれている。
「散らかってるけど」
謙遜の定型文のようなことを言うと、彼は簾のような前髪を手で整えながら、照れくさそうに笑った。掃除機もかけたのだろう。嫌な臭いもしない。やっぱり彼女が部屋に来るというのは、気合が入るものなのだろうか。彼のことをいまだに好きでない私には、理解できなかった。
「金曜ロードショーもうすぐ始まるな。飲み物取ってくるよ」
「あ、ありがとう」
気を使わなくてもいいのに。晩御飯を済ましてからくる約束にしておいてよかった。
彼は慌ただしくバタバタと音を立てて階段を駆け下りる。まるでなにかを隠しているみたいに、妙にソワソワしていた。なぜなのか考えては見るが面倒になり、ごろんとベッドに横になる。彼のベッドは私の部屋のものより柔らかかった。けれどその感触がなぜか不快で、何度も寝返りを打ちながら眉をしかめた。家の洗いものをした後だったため、変に疲れが出てくる。瞼が重たくなって、うとうとと夢心地になってくる。いつのまにか私の意識は落ちていた。だから気がついたとき、彼の簾のような前髪とぽってりした唇が目の前にあった時、意識の覚醒とともに、恐怖を覚えた。
「きゃあ!」
いつもならあげないような悲鳴を上げ、体を起こす。心臓がつぶれてしまいそうだった。
「あ、ごめん、おこしちゃった?」怖がらせたことを察したのか彼は後ずさりし、距離をとった。「いや、その、俺、そういうつもりじゃなくて。でも、寝顔見たらなんかさ」
弁解をしようと、早口で必死に言葉を連ねる。その姿が滑稽に見えた。
「いいよ、寝てた私が悪いし。気にしないで」
こんなときにも私はにこりと営業スマイル。本当の笑顔はどこに行ったのだろう。「とりあえず、見ようか」
ベッドにふたりで腰かけ、彼はリモコンで目の前のテレビのスイッチをいれた。今日の金曜ロードショーは、王道のラブストーリーといえる洋画だった。どちらかというと、爆発とか銃撃戦とかがガンガンある方が好きなのだが。だが彼はなんだかそわそわしているようで、何度も足を組みかえながら、壁にかかった時計をちらちらと見ていた。ただタバコを吸うことだけは忘れておらず、二時間で既に四本は吸っていた。私は一本だけに抑えておいた。映画のエンドロールが流れているとき、彼の手が私の左手の上に、そっとのってきたときには心底鳥肌が立った。生温かい。指一本一本のなぞるような感覚に反吐が出そうだった。さっき私は彼が顔を近づけてきたときに拒否の意を示してしまった。だから、ここでも同じような態度を示すのも悪い。こういう中途半端な優しさをずっと与え続けてきた。自分が悪く思われるのが嫌だから。だから抵抗はできず、黙って彼の手を受け入れた。
「ねえ、橘さん」彼の声はいつもより小さく、まるでなにかに怯えているようだった。彼の声に反して明るく答えようと試みようとしたときに、彼は言葉をつづけた。
「なにか、俺に隠してない?」その言葉に全身の鳥肌が立つ。彼の何気ない質問が、体を貫くようで息が苦しくなる。咄嗟に「なんのこと?」などと言ってみようとはするけれど、声帯が機能していないみたいに、声は出なかった。
「いつもさ、橘さんは楽しそうだ。話しやすいし、とても素敵な人だと思う。でも、ずっと一緒にいるとなんだか」彼の言葉が私の顔に張り付いた仮面をはがそうとしてくる。やめてくれ。心の中でそうつぶやく。「よくわかんないんだけど、なにかが違うんだ」彼は淡々とそう言う。そんなことは、私が一番わかっている。違和感のある生き方を好きでしているわけじゃない。そうしなきゃ私は生きていけないんだ。
「ねえ、聞いてる? 橘さん」「聞いてる」機械のようにそう無機質に答える。
「ねえ、橘さんは俺のこと好きなの?」「好きだよ」心にもないことをまた私は言う。声帯を切除したくなった。
「じゃあ、キスしても、いい?」
彼の言葉をこれ以上聞きたくなかった。彼の甘く、まっすぐな言葉は、ある意味原田さんより性質が悪い。声帯の次は耳をそぎ落としたくなった。私は無言で目を閉じる。
「……すれば?」
自分の意志はどこにもなかった。ただ彼の問いかけに肯定の意を示すだけだった。
初めて誰かと唇を重ねた。ねっとりと、それは毒物のように心を蝕んでいく。湧きでる嫌悪感は止まらなかった。
彼の温かい唇が離れた後、目から出た熱い雫が頬を伝った。次に原田さんの顔が浮かんだ。楽しそうにピアノを弾き、笑顔で私の黒板の落書きを褒めてくれる、彼女の姿がどうにも恋しくてたまらなかった。私はなんのためにこんなに我慢していたんだろう。流れに逆らわずただ相手の求めるとおりに行動して、この結果だ。私はどうしたらよかったのだ。
「ねえ、俺、橘さんのことをさ」「ごめん」彼の言葉を遮った私の声は案外しっかりしていて、はっきりと部屋に響き渡った。
「もうあなたとはいたくない」
私はそう言った。原田さんに会いたかった。
私が彼と別れた話は、すぐにいつもの女子グループで話題になった。理由を追及されたとき、嫌々曖昧にはぐらかした。あれから彼を無意識に避けている。私のかぶる仮面を剥ぎ取られそうになったことが、あんなにもこわいとは思わなかった。
これ以上絡まれるのも鬱陶しかったから、屋上へ適当な理由をつけて移動した。外の空気が肺を満たす。鬱憤晴らしにタバコを吸おうと、ポケットをまさぐる。指先が触れるのはポケットの裏生地だけだ。鞄に入れっぱなしにしていたのを思い出す。ないとなると余計に吸いたくなるが、ないものは仕方がない。あきらめてそのまま空を眺めることにした。
「ここにいたんだ」
二度と聞きたくない声を早速聞いてしまわなければ最高だったのだが。
「ねえ、橘さん。俺はね」
「もう話しかけないでくれない?」
これ以上私の心に土足で入ってほしくなかった。
「俺、橘さんが苦しんでるんなら、力になりたいんだ」
誰もそんなことは頼んでいない。私は何も答えずに体を起こす。そのまま強引に彼を押しのけ、屋上を後にした。なんだか原田さんとの出会いを思い出した。後ろで彼が何やらごちゃごちゃ言っている中、教室がいつもより騒がしい。誰かが喧嘩でもしているのだろうか。口論の声は聞き覚えがある。あの柔らかい声質、片方は原田さんだ。教室を覗くと、原田さんはクラスメイトその一の手元にある箱を必死に奪おうとしていた。見覚えがある。私のタバコの箱だった。
「どうしてあの子のことを誰もわかってやらないの!!」
原田さんはヒステリックにそう叫んだ。
ぱちんと乾いた音が教室に響く。原田さんがクラスメイトその一を平手打ちした。誰もがあんなおとなしい彼女が暴れるなんて、想像していなかっただろう。そしてあれほど、憎悪に満ちた眼光を誰かに向けているところも。
その日、原田さんは先生に捕まる前に早退届を出したらしい。私は放課後人生初の進路指導室へと呼ばれた。ついでにクラスメイトその一もだ。シナリオはこうだ。クラスメイト一が、私の喫煙を目撃した。それの証拠のために鞄からタバコを抜き取ったところを、原田さんが必死に止めていた。ということらしい。
「で、本当なのか? 橘」
生徒指導の先生は、刺すような視線を向け私を問い詰めた。クラスメイトその一は無表情を保っている。
「はい、吸いました」嘘偽りなく肯定する。
「なぜだ」
「ストレスがたまって、むしゃくしゃして吸いました」それっぽい若者らしい理由を告げた。
「成績も、授業態度もいいお前がな」
「すいません」頭を下げる。何も言い訳をするつもりはない。むしろ叱られることに喜びすら感じている。
「原田が庇ったのは、なぜだ?」
「知りません」私は言った。「私もわかりません」クラスメイトその一もそう言った。
そこから事情聴取は淡々と進みながら、私は一週間。クラスメイトその一と原田さんは三日間の停学を命じられた。生徒指導室から二人で出てきた後、クラスメイトその一は口を開いた。
「私さ、真鍋のこと好きだったんだ」
「へえ」特別興味もない事実を知らされた。
「でもさ、あいつあんたが好きって言うじゃん。だから半分応援、半分冷やかしみたいな感じでカラオケに誘ったら、本当にうまく言っちゃうんだよ」
彼女の声は低く、重い。私はどんな顔をしていただろう。営業スマイルはできていただろうか。
「なんで私がこんな目に合うの」
逆恨みにしても理不尽だ。「さあ」どうにも彼女の眼を見ることができなかった。見たら彼女の感情に触れてしまいそうで、こわかった。数秒の沈黙の後、クラスメイトその一は去ろうとしたが、振り返ってこう言った。
「いつものより、そっちの顔の方がいいよ」
なんのことだかわからず、何も言い返せなかった。
帰宅してから、いつも通りお父さんと夕食をとる。今日のメニューはさんまの塩焼きだ。
「すまんな、光」お父さんはしょうゆをさんまにかけながら言った。
「なんで謝るの?」
「俺がしっかりしていなかったから」
しょうゆをテーブルに戻すが、箸は魚につけようとしない。
「お父さんは関係ないのに」
「なにか、辛いことがあったのか?」
「別に」さんまにしょうゆをかけながら答えた。
「何か、ほしいものはないか?」
「別に」しいて言えば今ほどタバコが吸いたいと思ったことはない。
「光」
「なに?」
「うまかったか? タバコ」
別に、と答えるつもりだった。
「超うまかった」
お父さんは笑った。
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