第4話

昼休み、タバコを吸う暇もなくクラスメイトその一と向かいながらパンを貪っていた。彼女は耳がキンキンするような声でしゃべり続ける。

「だからさー、私が言いたいのはあいつが女の子と連絡とっちゃだめってことじゃないのー」

「うん、うん」話し半分で適当に笑顔で相槌を打つ。

「でもよ? あいつがお風呂入ってくるーってメールした後、ツイッター見たらさ、他の女の子にリプ飛ばしまくってんのよ? 信じられる!?」

「まじで? それはいくらなんでもひどいね」相手の言葉に同調も時には大事だ。相槌だけではさすがにまずい。

「ねー、ほんとそれよねー、マジ最悪」

「ほんとねー」

「でもまー、いいんだけどねー」自己解決したらしい。悩みなんてものは誰かに話を聞いてもらえるだけで、案外解決するものが結構多かったりするのである。

「ほんと、光のおかげで楽になった、ありがとね」

「いやいやそんな。私は話聞いてただけだよ」ここで思い上がらず、謙虚な姿勢を保つのも大切だ。「あんたまじで親友だわ」そう思える脳みそなら、あなたは当分困ることはないでしょう。

「ありがとー! まじうれしいよ××ちゃん!」適当にテンションをあげながら礼を言う。ここまでしておけばなんとかなるだろう。今日もなんとか名前らしきものも口から出ていたし、問題ない。名前を覚えていないのに口から出ると言うのも矛盾した話だが。

「あ、ところで光」

 軽々しく下の名前で呼ぶ文化には反吐が出る。だがそれを表に出さず、張りぼてのような笑顔を保つ。「今日授業早く終わるじゃん? カラオケいこーよ! 真鍋のやつも呼んでさ! 前々から行こうって言ってたじゃん!」

 またイカれた遊びを提案してくるものだ。なんで歌うことに金なんて払わなければならないんだ。お風呂の方がよっぽどよくない?

「うん! 行く行くー!」

 意思と言葉を一致させないことにはもう慣れた。こうやって私の張りぼての笑顔は毎日硬さが増していくのである。カラオケにはいつも話すクラスメイトその一と二、男子生徒AとBが来ることになった。以前から遊ぶときによく誘われてはいる。だがこの男子の名前も意識的に出てくることはない。別に男子が苦手というわけではない。むしろ苦手意識というのを心の奥底にしまいすぎて、何が得意で何が苦手なのか、わからなくなっていた。

 男子Aは、髪を毎日ワックスで針のように頭をツンツンにしている。Bはツーブロックのもみあげが特徴で、前髪は額の広さを隠すため長く、アイロンでストレートにしている。おかげで簾のようになってしまっているのは誰も突っ込まない。どちらもカッコいい男の扱いを受けてはいるが、どうにも私には魅力がわからない。

 一曲目、二曲目と適当に女子が歌い始め、三曲目を私が歌う。よくテレビの音楽番組で流れる、万人が知っているようなラブソングを適当に歌っとけば盛りあげてくれる。楽なものだ。ノリのいい曲には手拍子を入れたり、アハハとか笑っておけばいいのだ。間違っても曲の合間に携帯電話などいじってはだめだ。それだけでこいつらの視線は鋭いものへと変わる。そんなときに、体があれを求め出した。今日は昼休みの時間をあの子に奪われたんだった。

「ごめん、ちょっとトイレ」

 急いで外に出て、建物の裏へと回る。そこでしゃがみこみ、タバコを口にくわえて火をつけた。煙によって体の中の老廃物は増えるだろうが、心の老廃物は消えていくように感じた。一本吸い終わり、ローファーでぐしゃりと踏みつぶした。よし、ばっちり。タバコを鞄に入れ建物の中に戻る。すると受付の横にある男子トイレの入り口が開いた。そこから出てきたのは簾の前髪ことBだった。

「あれ? 橘さんトイレじゃなかったの?」

 とっさに嘘をつけばいいものをぱっと都合のいいものが出てこなかった。不意に後ずさり、後ろの客にぶつかり鞄を落とす。鞄のチャックを、うっかり閉め忘れていた。鞄からゆっくり落ちていくタバコは床から小さく跳ね上がった後、白い床の上で静止した。

「橘さん、これ……」

 何も言えずに黙りこむ。原田さんと同じパターンだったら、適当に強気に出ておけばよかったのに。だがBの反応は予想に反した。

「もしかして橘さん、ちょっとやんちゃやってる感じ?」Bは一緒に遅刻してきた相手を見つけた時のような笑みを浮かべ、箱を拾い私の鞄に戻した。「俺も実は、ちょっとね」嬉しそうに私の目を見るB。

「橘さん、今日一緒に晩御飯食べにいかない?」

もし断ればタバコをネタに揺さぶりをかけられるかもしれない。私は無言で頷き、同意した。確か今日の食事当番は父のはずだ。ならメールで連絡しておけば大丈夫だろう。

晩御飯はBの奢りでマックに行くことになった。「やっぱりわかってるなー橘さんは。雰囲気が大人だと思ってたんだよ」

「そうかな」

 Bは喫煙者がいかに大人で理知的で、人間的な存在かを語り続けていた。えらくややこしいことも言っていたが、結局気持ちいいから吸っているという、原始的な欲求に尽きると思うのだが。

「橘さんって、結構かわいいよね」

 話題がいつの間にか私のことになっていた。褒められるのは好きじゃない。勘弁してほしい。

「二重で目ぱっちりだし、ノーメイクでもかわいいし、声もきれいだし歌もうまいし。それに聞き上手だ、みんなにやさしいし」

 みんなにやさしい人間ほど冷たい人間はいないというのをこいつは知らないのだろうか。だとしたらおめでたい奴だ。

「橘さんって……誰か、その、付き合っている人とかいるの?」いつになったらこいつは私を解放してくれるのだろう。「もしよかったらだけど、嫌ならいいんだよ? その……俺、とかどうかな」

「え」 彼の言葉があまりにも唐突なことで、混乱する。「え、ご、ごめんなんて?」

「あ、いや、その」

 なんでもない、と一言言ってくれればよかった。

「俺と、付き合ってくれませんか?」

聞き間違いではなかったようだ。どうしていいかわからない。いや高校一年になるまで一度も彼氏ができたことのない方が珍しいのだろうか。だったらこういうことで経験を積むべきなのか? わからない。それにこいつは一度でも私のことを見てくれたのだろうか。そしてここから先、私のことを見てくれるのだろうか。

「うれしい。いいよ」

 本当に私はなにかの病気じゃないのだろうか。彼の調子に合わせて、私は軽くそう言ってしまった。


 付き合うというのは、よくわからない。彼とは家がさほど離れていなかったため、近くのコンビニで待ち合わせをし、一緒に登下校してみた。そんな中、彼はマシンガンのように会話を打ち込んでくる。私のできることは、愛想笑いと相槌だけだった。

「橘さんって、面白いよね」

それを本心で言っているのか。

「ほんとー? 私も!」いい加減自分の口をそぎ落としたくなってきた。「今晩またメールするね」帰り際に彼はそう言った。私は元気よく「うん!」と返す。彼のアイロンを当てた簾のような前髪を見ると無性にいらいらした。晩御飯を早々と支度し、お父さんが帰ってくるまでに食べ終わり、画材道具を持った。こんなときはあそこに行くべきだ。

そして彼女の声を聞きたいと思った。

夜の旧校舎内、原田さんはいつもどうりピアノの椅子に座り、ぼんやりと絵を眺めていた。私が入ってきたのに気がつくと目をぱあっと輝かせた。

「久しぶりだね、橘さん」

「そうかな」笑いながら黒板前の椅子に座る。その途端、脱力感に襲われた。「いつもこんな遅くまで。親は心配しないの?」

「うん。あまり帰りたくないんだ。喧嘩ばっかでうるさいし」

 笑い話のように彼女は言う。彼女の家の事情はあまり明るいものではなさそうだ。

「疲れてるの?」ピアノを弾きながら原田さんはきく。今日の曲は洗剤のコマーシャルで使われていたものだ。

「そうかな」さっきと同じ答えを返す。どうにも本調子じゃない

「どうかしたの?」

「うーん」誰かに悩みを相談するのは初めてだ。いつも誰かの言葉を聞いていただけだったから。それに、誰かに話そうと思ったことなど皆無だったから。

「最近彼氏ができまして」

「え、そうだったの! すごい!」

「すごいって……まあ、うん、ありがとう」

「どんな人?」

「えー、前髪が簾みたいなやつ」

「あはは、なにそれ」私の軽口に原田さんは笑った。私もつられて笑う。「まあいいの。そんだけだから。なんでもないよ」立ち上がり、放置していた画材道具を取り出す。ペットボトルから水をバケツに入れ、パレットに絵具を出す。男の子の手元に、花束を入れる白いブーケを描いた。そこには赤いバラがたくさんつまっている。この廃墟の近くにあったものなんだろう。それを彼は一日中かき集めたんだ。

「バラの花、ずいぶんとたくさんあるのね」うっとりと言う原田さん。

「でしょ、こいつこの子に恋しちゃうんだ」「そうなんだ。二人はうまくいくの?」原田さんは締まりなく笑う。まだ、彼は花束を渡していない。女の子は花束にどんな反応をするんだろう。

「また考えとく」私がそう言うと原田さんはグランドピアノへ戻り、曲を奏で出した。 甘く、切ないラブソングのようだった。だけれど、ところどころに苦い旋律が混じる。二人の運命を暗示するように。曲が進むにつれ、旋律は重たくなり、やがて落下音のような不協和音とともに終わりを告げた。

「なんだか。さみしそうな曲になったね」

「うん、この二人が幸せになれる気があまりしなくて」

 原田さんは黒板を切なそうに見上げる。花束を持つ男の子の後姿が、不思議と小さく見えた。

「私ね」原田さんはピアノの蓋を静かに閉じ、話し始めた。「ピアノを習ってて、お姉さんに比べられるのが嫌で、ある日逃げ出したの。ピアノ教室から」

「昔はワルだったんだね」

「あの時は子供だったから、なんでもできたんだと思う」そう言って笑うと原田さんは続けた。「それでね。ここのピアノなら誰とも比べられないって思って、一人だけのピアノ教室を続けたの」

「今までずっと?」

「たまにだよ。弾きたいな~って曲があったら、一人でここで練習して、一人で勝手に披露してたの」

 そこに私をなぜ入れてくれたのか。理由を尋ねようと口を開きかけたが、喉もとで言葉が出てこなかったために頷いた。

「初めて反抗したの。お母さんの言うことに、初めて逆、曖昧らってピアノやめてやったの」

 懐かしそうに原田さんは目を閉じている。原田さんの行動が、少しだけうらやましかった。自分の意志を持って動けた原田さんは、素直にすごい。

「……私もやってみようかな。反抗」

「橘さんもそう思う時あるんだ」

「当然でしょ」言っていてなんだか悲しくなってきた。なんで私はあんなことをしているんだろう。

「橘さんも、言いたいことが言えなくて辛いんだね」

 言いたいことを言う。それを縛り付けていたのはいつからだろうか。私が言いたいかなんてことは二の次で、言って自分の状況が悪くなるかどうかが基準だった。

「辛いって言ってもさ。自業自得よ。私が臆病なだけだし」

「みんな同じだよ。橘さんは人一倍やさしいだけじゃない」

 やさしいという言葉が、私は嫌いだった。八方美人と言われている気分になるから。褒められることは何より嫌いだ。的外れなことはなおさらだし、仮に本当のことだとしても、相手から嫌味を言われているようにしか受け取れない。

「ねえ、原田さん」

「なに?」

心の奥にドロドロとした汚れをためた袋があるとしたら、そこに少しだけ穴をあけてみた。その穴から、初めて自分の言いたいことと呼ぶにふさわしい、言葉が出てきた。

「私、いつか死ぬんなら原田さんに殺されたい」

 その重たい言葉を原田さんは真剣に受け取ったようで、腕を組み、頭をひねる。困らせてしまっただろうか。

「うーん……考えとくね」

 ありきたりに、『死んじゃだめ』、なんて言葉がくると思っていた。だから意外なその言葉が、体が震えるほどにとても嬉しくて。涙を流したいと、ほんの少しだけ思った。

 

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