第3話

学校での原田さんの態度は、どこかしら素っ気ない。あのおどおどした雰囲気は一貫していて、旧校舎での活発さは微塵も見られなかった。けれど先日学校で彼女におはようと告げると、こわばった顔が少しだけ緩み、小さな声で「おはよう」と言ってくれた。

 その日の夜に旧校舎でそのことについて話すと

「なんだかスイッチのオンオフみたいにね、学校ではスイッチを切ってるの」と彼女はピアノを拭きながら言った。

「スイッチ?」

「うん、スイッチ」

 それは多重人格に近いものなのだろうか。「なるほどね」私がそう納得すると彼女は振り返り、夜空に浮かぶ半月に目を向けた。月明かりで磨かれたグランドピアノは一層輝く。彼女は雑巾を置くと、ピアノを弾きだした。演奏は教室を月の光のように包み込む。

「これね、ドビュッシーの月光」手を止めずに原田さんは曲名を告げる。これはテレビで聞いたことがある。曲が突然速くなったと思えば、音は自転車のブレーキをかけたようにゆっくりと終わりを告げた。「原田さんって、こういう曲も弾けるんだね」

「ピアノは五歳から続けてるの」得意げに原田さんは笑った。

「そんな小さいころから」

 原田さんはピアノの鍵盤を一つ、ポンと短く叩いた。

「私だけじゃないの。お姉さんもピアノが好きで、一緒に習ってたんだ」自分のことを語るたびに、原田さんの手は動く。即興で弾いているのだろうか。旋律はどことなく切ない。「小学校五年生のころには、教室やめちゃったんだけどね」いつのまにかメロディはビートルズのレットイットビーに変わっていた。

「なんでさ、もったいない」

「お姉さんと比べられるの、いやだったから」

私は筆をバケツで静かに湿らせ、黒板へと伸ばす。原田さんピアノからにじみ出てくる悲しみに、不思議な安堵感を覚えた。

「ふーん。なんとなくわかるかな」

「どうして?」原田さんはサビを繰り返しながら尋ねる。

「私も比べられたから」

 中学の忌々しい美術室を思い出す。たたき割られたキャンパスを頭に浮かべるだけで吐き気がしてきた。

「どうしたの?」心配そうに顔を覗き込んでくる原田さん。「別に」そうぶっきらぼうに言い放つ。絵に集中しよう。絵の世界の教室に人間がやってきた。あの男の子は、孤独の時間を埋める存在を求めている。それならば、クラスメイトが必要だ。

 私は筆を動かす。中学のころを思い出しながら白いセーラー服と、膝まで伸びるスカートを描いた。髪は腰まで届きそうなくらい長くし、瞳はぱっちりと宝石のように大きくした。まるで少女漫画だ。

「へー、橘さんもこういう絵描くんだ」

「漫画は好きだからね」男の子に比べて変に力を入れて描いてしまい、女の子だけ浮いて見えた。「変かな?」いつのまにかピアノの手を止めている彼女に尋ねた。

「ううん、すごくかわいいよ!」

相変わらず恥ずかしげもなくストレートに人を褒める奴だ。「で、この女の子は何者なの?」おもちゃを前にした子供のように原田さんは目を輝かせた。

「何者って……えっとね、この子は居場所を探していたんだよ。現実のどこにも自分がいていい場所や、いたいところがなかったから。そして町はずれの廃校に訪れた。そこで、男の子と出会った」

 自分以外に孤独を背負う同士と出会った女の子。その時彼女は戸惑いにも似た喜びを感じたのかもしれない。

「だけど、女の子はすぐに帰ってしまう」

「どうして?」

「だって先客がいたんだから、気まずいでしょ」

 その女の子はあわてて頭を下げ、校舎から逃げるように立ち去る。男の子は誰だったんだろうと思いながら、暗くなるまで校舎にいたのだ。「でもね、次の日になると女の子はまた性懲りもなく来ちゃうんだよ。この校舎に来ている私みたいにね」

 そして、いつしか女の子と男の子は会話をすることになる。今日の天気はどうとか、どんな家族がいるのかとか、好きなことはなんなのとか、そんなたわいもないことを。

私が妄想にふけっていると、いつの間にかまたピアノの音が奏でられた。音色は月の光のように柔らかい。そして暖かさも入り混じっていた。そこに、何か大きなものが私の胸に伝わる。大きくて、そして暖かい、それでいてそれは、とても優しい。

「第二章って、とこかな?」原田さんは照れ気味にそう言った。それからピアノに置いてあるノートを取り、何かを書きだした。

「なにそれ、楽譜?」

 原田さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「ナイショ」

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