第2話
顔と名前が一致したのは、彼女。つまり原田奈々子が初めてだった。その日から、クラスメイトを記号として見ていたのに、原田さんにだけ色がついたような気がした。しばらく刺激的な体験をしていなかったから、そのせいかもしれないが。
あの日の晩、私は帰ってすぐに、スケッチブックと鉛筆を手に取った。なんとなくなにかが描ける気がしたのだが、現実は非情なようで結局何も描けなかった。悔しい。クラスメイトとただ惰性で話すだけの毎日から、一瞬だけでも解放されたと思ったのに。
「うまくいかないもんだなー」
昼休み、屋上から旧校舎を見下ろしながらぼやいた。口には昨日原田さんから取り返したタバコをくわえている。やっぱりくせになる。このままニコチン中毒の道を歩んでいくことになるのだろうか。蛙の子は蛙だ。そして今晩も原田さんはあそこにいるのか気になって、その日の夜にはコンビニ感覚で例の旧校舎にふらっと足が向いてしまった。腕を打った苦い体験の残るあの窓を、なんとか乗り越える。今度はうまく両足で着地することができた。
「一人だと結構怖いな」
以前よりも埃っぽさや暗闇が増している気がする。恐怖は人の感覚を過敏にするかもしれない。スマホの懐中電灯のアプリを作動する。絨毯のように蔓延した埃が光に照らされた。廊下を進み、音楽室を訪れる。あの日と何も変わっていない。くすんだ教室の木の匂い。黒板のチョークの匂い。そしてその黒板に描かれた絵の具の臭さが、どうしようもなく恋しかった。
端っこに放置されている机と椅子を引きずりながら黒板の近くに持ってくる。椅子にかかっている埃を払い、座った。椅子は冷たく、屋上のアスファルトを思い出した。絵をそのままボーっと見ていると、やはり湧いてくる。脈打つ心臓に、手の呻き。興奮というか、性欲に近い気もした。この欲求を早く発散させるため、教室を飛び出した。
我が家と旧校舎。往復にして約十五分といったところか。我ながら頑張ったものだ。手元にあるのは、水彩の絵具のセットが一式。これをまた使うことになるなんて考えもしなかった。手元にあるそれが早く出せと疼いている。汗で湿った手で鞄のチャックを開け、パレット、筆、小さなバケツを取り出す。こいつらにもさみしい思いをさせたものだ。絵の具セットを黒板の前に広げ、腕を組む。水道は出ないと踏み、コンビニで買ったミネラルウォーターをどぼどぼとバケツに注いだ。次からは家の水道から水を入れて来よう。黒板に描かれた絵をもう一度舐めるように観察する。机もすべてひっくり返り、荒らされたとしか言いようがないこの場所は廃墟のようで、あまりにもさみしすぎた。もしこれが物語とするなら登場人物が必要だ。この教室にはどんな子がふさわしい? 直感で男の子なんじゃないかと思い、絵具で学ランのための黒と、肌のための白と赤を絞り出す。筆をバケツで湿らせ、絵の具にそっとつける。無理にきれいに描かなくてもいい。今私が感じている、この場所にいる男の子を描こう。ぺたぺたと学ランの背中を描き、ズボンを生やし、椅子に腰かけさせる。首のところから亀のようにはげ頭を描き、適当に髪の毛をつけた。さて、次は何をしようか考えた時だった。
「あ、橘さん!」
振り向かなくても誰かわかった。この子との対面はいつだって突然だ。原田さんはとてとてと私に近付いてきた。
「何してるの? そんな大荷物で」
「大荷物ってほどでもないでしょ、ちょっと絵具持ってきただけだし」
「えのぐ?」
原田さんは私の目線の先にある黒板を見る。表情は光を落したように輝きだした。
「すごいよ! これ、増えてるじゃん! 男の子がいる! かわいい」
久しぶりにきいた褒め言葉で、胃袋に鋭い痛みが走る。
「別に……ちょっと落書きに手入れたくなっただけだし」
私の言葉を待たずに、原田さんは飛びつくようにピアノへ向かい、ふたを開けた。そしてすぐさま踊るように音を奏で出した。
前奏は以前のものとよく似ていた。しかしその陰鬱な旋律に、突然燃え盛る炎のような音色が加えられた。そこには希望があふれていて、教室の中の植物たちは一斉に花を咲かしだす映像が浮かんだ。あの教室の植物たちが、来訪者の彼を歓迎しているのだ。次々に花が咲き乱れるように、テンポはどんどん早まっていく。私はパレットに黄緑や黄色や赤色といった明るい色を抽出し、黒板に向かって殴るように描く。教室を支配していた草花を、来訪者の彼に伸ばしていく。彼をからめとってしまいそうなくらいに草花は喜ぶ。そして、彼自身も照れくさい笑顔を浮かべながらありがとうと、小さく告げる。彼はひっくり返っている机を一つ直し、自分のところだけ正しく置きなおす。私は倒れている机の上から強引に、元の状態の机を描いた。それこそ落書きと称するにふさわしいくらいに。鼓動は早く、何かに乗り移られたかのように手は止まらない。胸の奥はマグマのように熱かった。
どれくらい経ったかはわからない。ただ机と草花の成長を描き終えたと同時に、彼女の演奏は鳴りやんだ。
「すごい、すごいよ橘さん!」
原田さんはがたんと椅子から立ち上がり、私のところに勢いよく飛び込んできた。「近い!」腰に抱きつく原田さんを、強引にひきはがす。褒め言葉を聞くたびに、腹の奥の痛みは増した気がした。
「ご、ごめん。でも私感動しちゃって……橘さんすごいかっこよかった。燃えてるみたいで」
「……今の曲は?」
冷静さを欠いてしまったことが妙に気恥しくなり、話題をそらす。胃の痛みはある程度治まった。
「えーっとね。この間のがオープニングだったら……第一章ってとこかな」
「あの絵の物語の?」
「そうそう!」
図工の作品をほめられた時の小学生のように頷く彼女。ほんと、学校にいるときとはまるで違う。双子かなにかじゃないのか?
「で、その物語ってどんなの?」
「わかるわけないじゃない、もういやだなあ橘さんったら」
作曲者が自分の曲の物語が理解できていないというのはどういう了見だ。肩をすくめていると原田さんは言った。
「橘さん、この絵の物語がもう頭の中にあるんでしょ?」
先日と違い今晩は雲がなく、月明かりが私と原田さんと、黒板の落書きを優しく照らす。照らされた原田さんの顔は、昨日よりも満たされた表情をしていた。
「……どうだろうね」
「ごまかさないでもいいのに」原田さんは子供のように笑った。
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