黒板の花束

ろくなみの

第1話

初めて寝転がる屋上は氷のように冷たかった。そのまま目を細め、空を見つめる。曇天の空を横切るカラスたちは憂鬱さを助長した。生理できりきりと痛むお腹を撫でた後、タバコに火をつける。ライターのスイッチは錆ついたように固く、力が必要だった。吸いこんだ苦い煙は口を、肺を、そして脳を汚染していく。急激に流れ込んできた煙にむせ、ゴホゴホとせき込む。体によくないものだなと判断できた。だが、食後の暇つぶしにはもってこいかもしれない。

「なに、してるの? 橘さん」

 客が来なければもっとよかったけれど。慌てて立ち上がり、声の主と距離を置く。唯一の出入り口に立たれてしまった。彼女の瞳が眼鏡越しに左右へ泳ぐ。同じクラスの子だ。名前は忘れた。なんにせよ逃げ場はない。

「あ、あの橘さん、私、別に何も、何も見てないから」

 声の主はいつも通り、おどおどした口調で弁解する。

「……いいよ別に」

 そう受け流し、吸いかけのタバコを携帯灰皿に無造作に押しつぶした。この子にはいつもの営業スマイルをする必要はないだろう。嫌な現場を見られたのだ。それに彼女のようなうじうじした喋り方は、聞いているだけで胃がむかつく。「授業中なのになんでこんなところに?」たたずむ彼女に尋ねる。

「……お腹、痛くて」

私の理由とかぶっている。もう少し工夫してほしい。

「保健室に行けばいいじゃん」

「だって、嘘、だから」そこもかぶっている。

「優等生がそういうことしていいんだ」

 主導権を握るには、言葉で先制しなければならない。

「橘さんも、普段は真面目じゃない……そ、それなのにどうして?」

 返答するのも言い訳するのも面倒くさい。論点もそれている。これ以上の会話は不要だ。彼女の小さな体を強引に押しのけ、屋上を後にする。同時に、昼休み開始のチャイムが鳴った。


「あ、光! お腹もう大丈夫?」

 教室にもどると、いつも一緒に昼食を食べるクラスメイトその一が近寄って来た。

「うん、大丈夫よ、ありがとう××ちゃん」今日の私の笑顔も完璧なはずだ。

「お昼もう食べちゃったの?」

 クラスメイトその一が、私の顔色をうかがう。

「うん、保健室でね」

「そうなんだー、一緒に食べたかったのにね」

 適当に私も相槌を打つ。この人が本当に一緒に食べたかったのか、甚だ疑問だ。

「あ、お菓子食べる?」

クラスメイトその二が出してくれたポッキーを私は笑顔でいただく。この子も毎日大変だな。お菓子係なんかを担うなんて。女子高生には、欠かしてはいけない義務がある。まずは他人に同意しなければならない。

「あ、このストラップかわいいね」

かわいいと暗黙の了解で決まっているものは、かわいいと言わなければならない。それがたとえかわいくなくても。

「ほんとだー、どこで買ったの?」

「えっとねー」

 退屈極まりない会話を聞いていると、なんで自分がここにいるのかわからなくなってくる。それにそのストラップは正直気持ち悪い。その場しのぎの会話だけで、一日が過ぎていくのを待つ。募り続ける退屈と言う名の怪物は日に日に大きくなっていった。

 しばらくして、屋上に現れたあの子が遅れて教室に入ってきた。私の顔をちらりと見た後、長い前髪を揺らしながら、そそくさと席に座る。なぜ、彼女も屋上にやってきたのだろう。

「どうしたの?」

「ううん、なんでも」まあ、どうでもいいか。そういえば、今話しているクラスメイトその一。私はさっき、なんと呼んでいただろうか。思い出せない。

その日の夕食時、お父さんは箸をおいて私を見た。

「なあ、タバコが一箱だけなくなったんだがどこかで見てないか?」

 ……また出してほしくない話題を。一箱くらいばれないと思ったのだが。

「見てないよ?」適当な笑顔を作ってごまかす。

「そうか、ならいいんだが。まあ、お前がタバコなんて吸うわけないか」

 ちくりと胸が痛む。そんなことに気づかず、お父さんは笑いながら食器を流しへ持って行った。

「ごちそうさま、おいしかったぞ」

「今日食器洗い担当お父さんでしょ。よろしくね」

 母もいないことだし、こうやって助け合うことでやっていくしかない。それよりも大切なことを忘れていた。

煙草を屋上に置き忘れてしまった。あの眼鏡の子が、誰かに告げ口する可能性も否めないし、早めに回収するべきだ。入浴を済ませてから部屋に戻り、机の本棚に立てかけたスケッチブックを手に取る。中身は今日も白紙のままだ。鉛筆をペン立てから一本取るが、手は動かない。頭は霧が立ち込めたように、ぼやけて何も浮かんでこない。時計の秒針の音だけが部屋に響く。授業をサボって、タバコを吸って、いつもとは違う日常を体験したのだから、何かしらのインスピレーションがくるのではと、淡い期待を抱いていたのだが。無駄に終わったらしい。

 ごめんね、と心の中でつぶやく。そしてベッドに潜り込んだ。何も夢を見ませんように、そう願い目を閉じた。


そして翌日。私の休息を邪魔したあの子を女子トイレに呼び出した。

「タバコ返して」

女子トイレの個室でこんなことをしていると、カツアゲでもしている気分だ。

「ほら早く、大人しく出してよ。私だって、こんなことしたくてしてるわけじゃないんだから」

 昨日と同じくおどおどと視線を泳がせ、肩を震わせる彼女。目線のベストポジションを探しても結局どこにもないのはわかっているだろうに。

「え、えっと、その」

「なに、はっきり言いなさいよ」語気を強め、発言を強制する。

「い、今は持ってないの!」

その声は高く、ほんの少し甘く聞こえた。初めての彼女の大声に、耳がキンとなる。

「今?」平静を装い、聞き返す。

「持って帰っちゃって、家に置きっぱなしで……」

 最大だったボリュームの声は徐々にか細くなっていった。彼女から一歩距離を置き、頭を掻く。彼女の肩の力は抜け、小さくため息を吐いていた。

「で、どうしてくれるの? 明日持ってくる感じ?」

即座に頷くと思っていたのだが、彼女は前髪を垂らしたまま、何も言わない。口を結び、胸の前で両手をしがみつくように握っている。

「明日じゃ、なくて」

 喉の奥から搾り取ってきたような声で、彼女は言った。

「今晩七時くらいでいいから、学校の裏門に来てくれる?」


 時刻は午後六時五十分。十分前集合を心がけてみた。冬がもう近付いてきているのか、冷たい風が身にしみる。数週間後にはパーカーだけじゃ間に合わなくなりそうだ。

それにしてもなぜ夜じゃなければだめなのだろう。普通に翌日持ってきてくれればいいものを。もしかしてあれをダシに何かを要求する気だろうか。金か? 金ならない。体か? そっちの趣味はない。まあいい、いってやろうじゃないか。私の退屈をしのがせてくれたら、それでいい。

「お、おまたせ」

 今日聞いた甘い声が、小走りの足音とともに聞こえてきた。振り向くと、街灯に照らされながら、走ってくる彼女の姿が見えた。灰色のフードが一歩走るごとにひらひらと揺れる。細身の青いジーパンは、彼女の枝のように細い足を強調した。肩にかかる青く小さなショルダーバッグには、何が入っているのだろう。

「いや、そんなに待ってないよ。それより」「こっち!」

彼女は言葉をさえぎり、足を止めず強引に私の腕を引っ張る。足取りは軽い。私の背後にある茶色く錆ついた裏門を手慣れた様子で開く彼女。鍵は壊れていたようだ。

「何回か忍び込んでるの?」

「う、うん。えへへ」子供のように彼女は笑う。普段の彼女の陰気な様子は微塵も見られない。別人のようだ。本校舎からグラウンドを挟んだ位置に旧校舎はある。今は使われておらず、いずれ取り壊される話も出ているらしい。かつあげにしてはずいぶんと気合の入った場所だ。

「で? どうするの?」まさか旧校舎に入るなんてことはやめてほしい。

「え、中に入るつもりだけど」やめてほしいって思ったところなのに。「えっとね、ここの窓だけカギが壊れてるんだ」

 少し背伸びをして、右端から数えて三番目の古びた窓に彼女は手をかけた。いつから使われていないんだろう。ギギギと錆ついた音が鳴るが、その手つきは先ほど同様、手慣れている。

「さ、行こ」冗談だと言ってほしかった。

彼女は窓枠に手をかけ、身軽に中へと飛び込む。私も手をかけ、ぐっと体を押し上げる。お腹に金具が当たって痛い。ちょっと太ったかな。そのまま勢いで体を前に傾け、廊下に滑り込んだ。どすんと硬い廊下に腕をつく。大きな音が廊下に響いた。

「痛っ!」右腕をさすりながら体を起こす。

「大丈夫?」心配そうに彼女は私より一回り大きな手を伸ばす。とろそうに見えて、案外身軽のようだ。彼女の手を握り、立ち上がる。真っ暗な廊下を見渡した。長い間放置されているからか、埃やクモの巣は蔓延し、カビ臭い。そうだ、早くタバコを返してもらわないと。そのことを言いだそうとしたとき、構わず彼女は先へと進みだした。

「ちょっと。おいてかないでよ」慌てて小走りで追いかける。床がもろくなっているのか、みしみしと軋む。積もった埃は歩くたびに浮き上がった。旧校舎の教室の中には、壁に描かれた落書きや、傷跡のある机に椅子が並ぶ。当時通っていた人が、ここに来たらどんな気分なんだろう。

「ごめんね、急にこんなところに呼び出して」前を歩く彼女が、振り返りながら言った。「いや、別にいいけど」歩きながら言葉を返す。

「あまり気持ちのいいとこじゃないよね」

私は改めて周りを見渡す。

「別に、嫌いじゃないよ」純粋に今感じているものを伝えた。このノスタルジックな雰囲気は、映画みたいで嫌いじゃない。

「そっか、よかったー」

 彼女は安心したようににこにこと笑う。呆れて私も苦笑した。階段を上り、二階へたどりつく。そこからすぐ右手の教室で、彼女の歩みは止まった。「ここだよ」

扉の上には音楽室と書かれている。そこにもカギはかかっておらず、簡単に扉は開いた。中にあったのは埃まみれの部屋には似つかわしくないほど輝く、グランドピアノだった。だがその次に目に入ったものは、その存在感を上回った。

それは黒板の上から下まで広がっている、巨大な絵画だった。

描かれているのは生い茂る草花に、すべて上下がひっくり返った机と椅子だ。まるで数百年誰も訪れていないような教室の絵は、見るだけでその世界の臭いも、風も、漂う悲壮感も胸にずしんとのしかかってきた。

 鼓動は早い。手はうずうずと呻き、息をするのも忘れてしまいそうだった。それは、数年ぶりにやってきた感覚だった。

「さみしい絵でしょ」

「うわっ!」驚きのあまり体を反らせる。意識がこの絵に吸い込まれていたようだ。「驚いた?」彼女は小走りで、鏡のように磨かれたグラウンドピアノへと向かい、椅子に座った。

「弾けるの?」

 尋ねる私に、何も答えず、彼女はただにこりと微笑んだ。息を大きく吸う音がしてそこから彼女はピアノを弾きだした。

 音が飛び跳ねたように感じた。それは初めて聴く旋律だった。出だしは闇の底のように陰鬱だが、その暗い世界へ光が差し込むように、明るく転調する。窓から差し込む月の光がピアノを奏でる彼女を白く照らした。その姿は神々しくも見えた。曲は陰鬱な部分と微妙な光明が差す部分をループしそれは前触れもなく、突然終わりを迎えた。

「どう、だった?」

 少し誇らしげに彼女は私の目を見る。

「すごい、よかったよ。何の曲?」なんといえばいいのか考えながら、しどろもどろに告げた。彼女は恥ずかしそうに頭をぽりぽりとかく。月は雲に隠れたのか、また彼女の顔は暗くなる。外の街灯が、頼りないが唯一の明かりだ。

「これね、私が作ったんだ」

「え、そうなの」予想外の一言に驚く。

「中学生のころ塾帰りに、たまたまここにきて」たまたま不法侵入もどうかと思うが。「それで、なんとなくこんな曲が浮かんだの」

 彼女の曲を脳内で再生する。何かストーリーのようなものが見えなくもない。いつの間にか私の頭で、彼女の曲が一つの形を持とうとしていた私が妄想にふけっている間に、彼女はポケットから昨日のタバコを取り出した。

「ありがとうね、聞いてくれて」

 その笑顔は眩しいくらいの光で満ちていた。その眩しさに目をやられたらしく、なんだか泣きそうになった。なにかに夢中だったころの自分と、無意識に重ねてしまっていたかもしれない。

「どうかした?」心配そうに私を見る彼女。

「いや、別に」あわてて表情を明るく保つ。「あとさ、一個きいていい?」

「なに?」

 知らなかった不自然なパーツを埋めるために、私は尋ねる。多分、これは今知らなければならないことなんだ。

「あんたの名前、なんだっけ」

 彼女はまた笑った。

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