足錠

王子

足錠

 天井近くにある採光用の丸窓以外は全て遮光カーテンが引かれていて、私が見ることのできる外の世界は、その丸窓からのぞく空だけだった。もう何日が経っただろう。いや、数週間、数ヶ月だろうか。

 この家、この部屋で、私と彼だけが息をひそめていた。4DK二階建ては二人で生活するには広すぎる。私も彼もこの部屋しか使わない。

 彼とその家族らしき三人の笑顔を閉じ込めたフォトフレームは、私がここに来た日にじっと眺めていたら、すぐに伏せられてしまった。彼らがこの家での暮らしを終えてから、どれほどの月日が経っているのだろうか。

「今日は俺の誕生日だから、ケーキでも買ってくる」

 彼が立ち上がろうと体を前に傾けると、うなじに舞う蝶のタトゥーが見えた。

「それと、お前、今日ケーキ食ったら帰っていいよ」

 ゆらりと立ち上がる。私を見下ろす彼の吊り上がった細い目は、意思を隠し舌先三寸したさきさんずんで人をもてあそび喜ぶ化け狐を思わせた。

「本当に?」

 彼がドアを押し、床にうっすらと光の筋が走る。

「俺が嘘ついたことある?」

 軽々しい言葉だけを残して、ドアの向こうへ消えた。

 彼の「逃げなければ普通に暮らせる」という約束は、確かに嘘偽り無く守られていた。「逃げなければ」の条件としてなのか、右足首と簡易ベッドの脚は足錠でつながれて、ドアには内鍵のダイヤル錠と外鍵のシリンダー錠が取り付けられた。

 それでも、食べることも、シャワーを浴びることも、睡眠をとることも、テレビを見て笑うことも許されていた。お手洗いや浴室に行くときは、ベッドの脚から足錠を外して、長いひもわえつけた。寝る時間になれば、私の足首は足錠から完全に解放された。だから足首の痛みはほとんどない。

 そして、彼がことあるごとに口にする「今日帰っていい」は未だに実現していなかった。


 彼が簡易ベッドの上でうなされ、泣き声でうわ言を口走ったことがあった。

「なんで俺だけ」と消え入るようにうめいたり「ごめん。ごめん」としきりに謝ったり。小さく鼻をすすりながら「俺も乗っていれば、みんなと一緒に」と苦しげに言った途端、飛び跳ねるように体を起こした。

「俺、何か変なこと言ってたか」と訊かれ、私は「何も」とかぶりを振った。


 彼は部屋を出るとき、ダイヤル錠の内鍵を外して、番号をそのままに、私の目の前で引き出しにしまう。足錠の鍵も同じ引き出しにしまう。私に見せつけるように。

 こんな足錠、簡易ベッドを軽く持ち上げるだけで抜け出してしまえるし、ドアの一枚くらい蹴破るか、部屋の中にあるもので鍵を壊してしまえばいい。そもそも、あの外鍵は本当に施錠せじょうされているのだろうか。拘束の役目を失った足錠が邪魔なら、引き出しにある鍵で外して、全力疾走で助けを求めに行くことだってできる。

 きっと彼は私を試しているのだ。信仰に近い期待が込められた足錠を、私が捨て去るかどうか。このゆがんだ共同生活と彼に、さよならを突き付けるかどうかを。今この足錠を外してしまえば、彼はきっと孤独に殺されてしまう。あっさりと生を手放してしまう。うなじにられた蝶のように、ひらりとあきらめに身を投じてしまうだろう。


 ドアが開いて、ケーキの紙袋をげた彼が帰ってきた。外鍵を解錠かいじょうする音は聞こえただろうか。まあどうでもいい。

 紙袋から取り出された箱は正方形ではなく、細長かった。私の想像と違って、ホールケーキではなくロールケーキ。

 二人で下手なハッピーバースデーを歌って、ロウソクが一本も刺さっていない、名前とかおめでとうのメッセージが書かれたチョコのプレートも乗っていない、素のままのロールケーキを切り分ける。

「今日は帰らないよ。多分、明日もね」

「本当か?」

「私が嘘ついたことある?」

 私の足錠は、日々その重さを増しているような気がする。

 彼の言う「今日帰っていい」は、当分実現しそうにない。

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足錠 王子 @affe

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