焼野原のキリスト

三津凛

第1話

あの日、太陽が落ちて来たのだと私は思いました。

私と母と妹の米子は、防空壕の中にいてその時は助かりました。父はまだ工場の中におりました。ただ空が真っ赤に破裂して、そのあとは灰色の分厚い雲が覆うばかりになりました。

父の働く工場のあたりから火が出ているようで、母は私と米子には水のあるところへと避難するように言い置いて父の元へと急いで行きました。

母は最期に、たった一言私たちに残してくれました。

「どうしようもなくなったら、ひたすら祈りなさい」

私たち家族には秘密がありました。それは舶来の、もはや日本にとっては敵国の神になってしまったキリストを信仰していたことです。母は何か感じることがあったのかもしれません。私に自分のロザリオを渡すと、振り返らずに父の働く工場へと走って行きました。

私はもう14ですから、母も安心して妹の米子を託したのでしょう。私は米子の手を引いて、姿の変わってしまった街並みを歩きました。

顔の溶けた人、目の抜け落ちた人、指の火傷があまりに酷く、魚のひれのような有様に手がなっている人などで溢れておりました。ただ何にも言わず、黒ずんだ炭となっている人もたくさんおりました。あちらからもこちらからも火が這い回り、それは大きな悪魔の舌のように多くの人を焼き殺しました。

私と米子は方々逃げ回り、ようやく大きな川辺に出るとそこで落ち着きました。そこには私たちと同じように途方に暮れた人々が生者も亡者の境もなく屯しておりました。男か女か、着物で辛うじてわかる風体の人が酷い火傷と熱に苦しみながら、ようやく濁った川の水を飲み干してから死んでいく様を私はたくさん見ました。腹の裂けて、腸や内臓を晒している人はそれでも体の中身を土埃に塗れさせるまま水を求めておりました。

まだ6つになったばかりの米子は大きな防空頭巾の中で、泣くこともできずその全てを凝視しておりました。

「母ちゃん、無事に父ちゃんと会えたやろうか。多分会えたやろうあとは、また待ち合わせするだけやね」

私は米子を慰めるつもりで言いました。

「火が凄かったけん、姉ちゃん……」

「ここで待っとったら、大丈夫やけんね米子。どうにもならなくなったら、祈ればいいとよ」

「如来さまに?」

「そうや」

私たちは一目には仏教風の言葉で、キリストを覆っていました。まだ幼い米子は、キリストの名は知らなくてもすでに祈ることだけは知っていました。

米子は今にも泣きそうでした。それでもそれを私に悟られないように、ただじっと向こう岸の赤く燃える空を眺めておりました。

しばらくすると、真っ黒な雨が降って来ました。こんな不気味な雨は見たことがありませんでした。それでも、いくらか火の手は穏やかになったと思えて、私は米子が濡れないようにしてやりながら立ち上がりました。

「小学校で待っとこう、母ちゃんと父ちゃんもしかしたらおるかもしれん」

「うん」

私と米子は黒い雨の中を、はじめは両親と会うために歩き出したのです。



小学校は怪我人で溢れておりました。血と消毒液の匂いで泪が出そうになりました。

私は無数の怪我人の頭を一つ一つ見て回りました。米子を連れ回すわけにもいかず、若い看護婦に両親を探しに来たと言ってしばらく預かってもらいました。

どれもみんな、目と鼻と口だけを残してあとは人相も分からないほど血に汚れた包帯だらけの顔でした。それでも父が働いていた工場でよく見た男の顔をなんとか探し当てて、私は両親のことを尋ねました。

「知らん、みんな死んだんやないとか。ものすごい火と熱さやったけん」

男は思い出したのか、急に前後不覚になって震え始めました。

「熱か……熱か!熱か!熱か!熱かあ!」

私は怖くなって、その場を離れました。包帯の隙間から覗く目は焼かれて干からびているように見えました。それでも何かが見えるのか、男は叫びながらも芋虫のように体をよじらせ続けていました。

それから何人か見知った顔を見つけて、工場方面のことを聞きましたがどれもみんなそれどころではないようでした。

工場は焼け落ちてもうその跡すら残っていないと知ったのは、それから2日経ったころのことでした。

父も母も、私と米子を迎えには来ませんでした。



やがて、あの太陽が落ちたと思うほどの閃光はピカどんと呼ぶようになりました。日本は戦争に負けて、鬼畜米英が進駐して来ました。赤ら顔の、鼻の高い天狗のような風体の兵隊が闊歩するようになったのです。

私と米子は多分孤児になってしまったのです。まだ救済の手も届かない動乱の中で、私はある米兵に犯されました。駅舎の跡で、まばらに残る線路を米子と2人で歩きながら生活に使えそうなものや売って金になりそうな鉄くずを集めておりました。

瓦礫の陰から、2人の米兵が顔を出して、何か言いました。それは卑猥なものだったに違いありません。米兵は鷹のように素早く辺り見渡して、男のいないことを確かめているようでした。私は米子の手を引いて、足場の悪いかつての線路跡を走って逃げました。米兵はしつこく追いかけてきて、やがて私と米子を追い込みました。

私は骨組みだけが残る校舎の跡地に倒されて、米兵の好きなようにされました。見張りの米兵は叫ぶ米子を乱暴に殴りつけて、黙らせました。

まるで水を吸いすぎた太い果実のようなものを無理やり腹に押し込まれるようで、私は涙が出ました。土埃が頰を汚し、喉を痛めました。

そこで私は興奮と私の抵抗のためにはだけた米兵の胸元に光るものがかかっているのを見つけました。

十字架でした。痛みの中で目を凝らして見ると、そこには小さなキリストが架けられておりました。

私はそこで、猛然と怒りが湧いてきました。


よくも同じ神を信仰する人々の上に、ピカどんを落とせたな!


私は指先に尖ったものを感じて、首をそちらに降りました。大きな曲がった釘が指先に触れていました。

私はそれをなんとか手繰り寄せて、獣じみた動きをする米兵の脇腹に刺してやろうとしました。

でもそれは叶いませんでした。見張りの米兵が、何か大声で言って犯すのに夢中だった米兵に知らせたのです。

米兵は嗤って私の頰を打つと、その大きな釘の先を私の喉元に突きつけて脅しました。そうしながら、米兵は代わる代わる私を犯していきました。

2人の胸元には同じように小さな十字架が架かっておりました。キリストは犯される私をじっと見下ろしているばかりでした。

神は何も言いません。

「お前たちは、本当に神を信仰している人間なんか」

こんな米兵たちも、神は祝福するのかと思うと私は呪わずにはいられませんでした。彼らは多少は心が痛んだのか、チョコレートを何枚か投げ捨てて去って行きました。

米子は腫れた頰をそのままにして、立ちすくんでおりました。

ようやく立ち上がると、私の内腿を生暖かい体液が伝っていきました。私はチョコレートを拾い上げて、米子に渡してから言いました。

「……今日は珍しいもんが食べられるばい。誰にも盗られんようにしとかんとね、米子」

米子の頰には涙の跡がはっきりと残っていました。砂塵もその跡をよけて吹きつけたようでした。



私と米子は、防空壕の中で寝泊まりし、昼間は鉄くずを拾ったり時には盗みをしたりしながら生きました。

ですが米子はある時酷い下痢になりました。それはなかなか良くならず、次第に水さえも受けつけなくなって、米子は酷く痩せました。私は米子を抱えて、病院代わりの小学校へと行きました。そこは死人で溢れておりました。瀕死な人は捨てられて、薬も包帯も無駄にならないような生きそうな人だけを医者も看護婦も診ていました。米子はついに診てはもらえませんでした。

「その子はもう長くない、ピカどんのせいだ」

血と膿と埃で茶色く煮詰めたようになった白衣をまとった医者は素っ気なく言いました。米子はすでに耳が聞こえなくなっているようでした。

土気色の頰に皺が寄って、そのうち笑うこともできなくなりました。髪の毛ばかりか、眉毛まで抜け落ちて体全体が育ちの悪いじゃがいものようになってしまいました。腹だけは水が溜まるのか膨らんで、あとは骨と皮ばかりでした。

最期は目も見えなくなって、米子はただ闇の中で息だけをしているようでした。私は怖くなりました。たった独り、この悲惨な世界の中に取り残されるのだけは嫌でした。

私が共に死ぬか、米子を生きながらえさせるかしかありせんでした。それでも私はまだ死ねそうにはありませんあでした。

朝日が昇ろうとする頃に、米子は死にました。最期にはっきりと目を見開いて、たったひとこと残して逝きました。

「姉ちゃん、米子は独りで行けますから」

私は聞き返そうとして、諦めました。米子はすでにありませんでした。

私は小さく軽くなってしまった米子を焼いて、せめて骨でも抱えて生きていこうと思いました。

焼け残された家の瓦礫からまだ燃やせそうな木材を集めてから、米子を焼きました。骨は残りませんでした。


あぁ、お前たちはここまで奪ってゆく。


私はまだ燻る弱い炎の中に、母の託してくれたロザリオを投げ入れました。

8月9日の空には、神はいらっしゃいませんでした。同じ神を信仰する人々の頭の上に、ピカどんが落とされました。

それでも、神は、キリストは何も言いませんでした。

米子は死にました。

父も母も、死にました。

そのほかの多くの人も、死んでいきました。

私はいつまでも膝を抱えて、骨の残らなかった灰を眺めておりました。



やがて瓦礫は片付けられてゆき、親を亡くした孤児たちも集められていきました。道路も線路も直されて、路面電車がまた走るようにもなりました。

それでも、私の元には誰も帰って来てはくれませんでした。

私もある時から酷い下痢に患わされ、髪も抜けていきました。私は路面電車の、人々が降りてゆく駅舎の縁に寝転んでゆっくりと死んでいきました。


本当に、神も仏も救いもない。


私は鼻先にたかる蝿を追い払うこともできないまま、だだそんな風に思いました。

米子は独りで逝きました。

私も独りで、逝くでしょう。それが私の最期でした。






長崎の荒廃はゲオルグ神父の思っていたよりも悲惨だった。神父は自ら志願して、海を越え長崎までやって来た。かつて同僚であった別の神父が長崎で教会ごと焼け死んだことに、ゲオルグ神父は言いようのない怒りと哀しみを覚えていた。

長崎の子どもたちは親を亡くし、痩せこけていた。アメリカの子どものふっくらとした頰を思い出すにつけ、神父は涙が滲みそうになった。

路面電車を降りたところで、神父は痩せて、ぼろをまとった少女が横になっているのを見つけた。迷わず手をさしのべようとして、神父はその手を静かに閉じた。

少女は栄養失調のためにすでに死んでいた。ぼろの破れた隙間から、脇腹がのぞいていた。肋が浮いて、薄い胸と小豆色になった乳首があらわになっている。

神父は羽織った上着を静かにかけてやり、少女の肌を雑踏がこれ以上目にしないように隠してやった。


主よ、この者に永遠の安息を。

憐れみ給え。


神父はせめて何か死者を慰めるものはないかと思案したが、荷物はすでに教会の方に運ばれていて、手元には何もなかった。

神父は少し考えて、アメリカで司教から下賜されたロザリオを少女の手に握らせた。小さな十字架が午後の鈍い光と砂塵の中で光った。

神父は今一度静かに祈ってから、その場を立ち去った。

少女の死体は間も無く、他の死体と同じようにリヤカーに積まれて、どこへともなく運ばれてしまった。


乱暴に積まれた死体の手から、光るものが落ちたことには誰も気がつかなかった。あとは砂塵の中で、ロザリオだけが残された。


十字架上の小さなキリストは、ひたすら天だけを向いている。

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焼野原のキリスト 三津凛 @mitsurin12

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