居場所のない家

 家まで送ってもらった私は、タクシーを下りてお礼を言う。


「ありがとね、色々と」

「いいってことよ。それじゃあ、またな」


 桐生君は手をふり、タクシーは走り去って行く。『またな』というのが、社交辞令なのかどうかはわからない。けどその事について考えるよりも先、私にはやらなきゃならないことがある。


「さて……」


 スーッと深呼吸をし、自宅を見つめる。築二十五年の、一戸建ての我が家。私が小学校に上がる前に、両親が新築で買ったものだ。以来眠りにつくまでのおよそ十年、ずっとこの家で暮らしてきた。

 愛着のあるはずの我が家。だけど今は、その門を潜るのがとても憂鬱だ。


「やだなあ、帰るの。けど、いつまでもこうしてても仕方がないか」


 意を決して中に入り、玄関の戸の前に立つ。鍵はかかっていたけど、合鍵を持っていた私は、それでドアを開ける。


「ただいま~」


 誰にも聞こえないくらいの、小さな声での挨拶。

 何だか虚しい。だって今のこの家には、全然帰ってきたって気がしないんだもの。

 物音はしない。皆眠っているのだろうか?だったら都合がいい。

 私は足音を殺しながら、そっとリビングに向かう。真っ暗だった室内に電気をつけ、真っ先に向かったのは冷蔵庫。実はお昼を食べてから、飲まず食わずだったんだよね。何か簡単に食べれる物は無いかと手を伸ばしたその時。


「こんな時間までどこに行ってたんだ?」


 背後から、怒気を含んだ低い声がぶつけられた。しまった、見つかったか。

 伸ばしていた手を止め、ゆっくりと振り返ると、そこには怒った様子のお父さんの姿があった。


「……ただいま」


 絞り出すような声での挨拶。

 眠る前は四十歳だったお父さんも、もう五十代半ば。昔から強面で、遊びに来た友達を震え上がらせていたけれど、歳をとってシワや白髪も大分増えているけど、怖さは更に増したような気がする。そして私はそんな今のお父さんのことを、好きにはなれなかった。


「いったい今何時だと思っているんだ?高校生がこんな時間まで出歩くなんて、非常識だと思わないのか?」


 うるさい。人の気も知らないで、わかったようなことを言わないで。


「私はもう三十路だよ。なのにいちいち何か言われるのっておかしくない?」

「棘!」


 こんな時だけ、疎んでいた実年齢を盾にする。

 お父さんは大きな声をあげたけど、私はもうそっちを見ようともしない。だいたいお父さんは眠る前から、仕事仕事でお見舞いにもあまり来なかったじゃない。それなのに今更、あれこれ言ってこないでよ。


「まさか、学校はサボってはいないだろうな?何のために復学したか、ちゃんと考えろ」

「どうでもいいでしょ。もう私のことは放っておいて!」

「親に向かってその態度は何だ!」


 口論はだんだんとヒートアップしていく。しかしその時、もう一人誰かがリビングに入ってきた。


「アナタ、そんなに棘ちゃんを責めないであげて。棘ちゃんにだって、きっと何か事情があるのよ」

「しかしお前……棘、母さんに気を使わせて、恥ずかしいと思わないのか?」


 私はその問いに答えもせず、奥歯を噛み締めながらその場を離れようとする。

 もうこれ以上話したくない。部屋に戻って、さっさと寝てしまいたかった。そんな私の背中に優しげな声が届く。


「棘ちゃん、晩御飯は食べたの?簡単な物ならすぐ用意できるから、ちょっとだけ待って……」

「結構です!余計な気はかけないでください、幸恵さん!」


 顔も見ずにそう叫ぶと、逃げるようにリビングを出ていく。

 本当はお腹が空いていたけど、あの人の作るご飯は食べたくなかった。

 無理して優しい言葉なんてかけないでほしいよ。どうせ私のことを、邪魔だと思ってるくせに。

 龍宮幸恵さん。お父さんの今の奥さんで、私の義理のお母さんだ。


 私が眠ってある間に、うちの両親はあろうことか離婚していた。目が覚めてその事を聞かされた時の衝撃ときたら。

 いきなりお母さんはもういないなんて言われても、到底納得できるものではなかった。しかも。


『棘、この人が新しいお母さんだ』

『よろしくね、棘ちゃん』


 そんな風に幸恵さんを紹介されて、いったいどうやって受け止めろと言うのだろうか?まるで眠っているときよりも、ずっと夢を見ているような気分だった。しかもとびきりの悪夢を。

 お母さんはどうしたのかと問い詰めたけど、お父さんは詳しいことは何も教えてはくれなかった。


 きっと私がいない間に、一緒にいられなくなるだけの何かがあったのだろう。闘病中の私の様子をいつも見てくれていたお母さんと、仕事ばかりだったお父さん。度々衝突することがあった事も、私は知っている。だからどうしても夫婦でいることが難しいと言うのなら、離婚も仕方がないとは思う。だけど、どうして親権がお父さんにあるの?どうせなら、お母さんに引き取られたかったよ。


 ああ、考えたら泣きたくなってきた。涙がこぼれそうになるのを堪えながら、二階へ続く階段を上っていく。

 そして自分の部屋の前まで来た時、向かいにあるもうひとつの部屋のドアがそっと開いた。

 前はお母さんが化粧部屋として使っていたけど、今は違う。そうして中から出てきたのは、この部屋の今の主だった。


「……お姉ちゃん……おかえり?」


 寝惚けているのか、目を擦りながら何故か問いかけるような『おかえり』を言ってくる男の子。


「まだ起きてた……じゃないよね。起きちゃたの?」

「うん……トイレ行ってくる」


 危なっかしいふらふらとした足取りで、階段へと向かうこの子の名前は駿。春から小学校に入ったばかりの、お父さんと幸恵さんの子供だ。つまり私と半分だけ血の繋がった弟というわけである。

 と言っても、全然そんな実感ないんだけどね。私にしてみれば妊娠とか出産を全部すっ飛ばされたのだ。なのに今日から弟だ。お姉ちゃんなんだからしっかりしようって言われてもねえ。

 駿くんは少しずつ階段を降りて行ってたけど、半分くらい進んだところで不意にこちらに振り返った。


「お父さんと、ケンカしてたの?」


 つぶらな瞳でじっと見つめてくる駿くん。まるで小学校のこの子に怒られているようで、いたたまれない。これ以上見られないよう、階段の電気を消してやろうかと思ったけど、駿くんが怖がるといけないから止めておく。


「早く謝って、仲直りしなきゃダメだよ」

「わかってるよ。それより、トイレなんでしょ。早く行ったら?」

「うん……」


 小さく呟いた駿くんは、そのまま下りていく。

 実は家族の中で、一番距離を図りかねているのはあの子だ。

 お父さんと幸恵さんのことは好きじゃない。だから邪険に扱うこともできるけど、流石にまだ幼いあの子にまでつれない態度をとる気にはなれない。

 駿くんは、私の事をどう思っているのだろう?急にできた大きなお姉ちゃんを、気味悪がっていたりするのだろうか?


「今日はもう考えるの止めよう。さっさと寝よう」


 どうせ答えなんて出ないんだ。部屋に入った私は、制服のままベッドにダイブする。シワになるかもしれないけど、そんなの気にしない。今日は色々あって疲れた。シャワーを浴びたいとは思うけど、下に降りてまたお父さん達と会うのも嫌だし、明日朝一で……浴びれば……いいや……


 だんだんと意識が遠退いていく。

 実は今までのことは全部夢で、次に目が覚めたら何事もなかったように、十五年前に戻っていたらいいのに。微睡みながら私は、そんな幻想を抱いた。

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